これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2018年7月29日「板挟み」(フィリピ1章20~26節)

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 12節から手紙の本文に入りました。パウロが獄中でどうであるか、今後の見通しがどうであるのか、フィリピの教会の人々は知りたがっていたのではないかと思われます。しかしパウロは、ひたすら福音の前進のことを語ります。なぜならパウロにとって大切なことは、自分のことではなくて、福音のこと、キリストのことだからです。
 今日の箇所でもそのことがよく出ています。20節。恥とは、キリストが公然とあがめられることの逆です。パウロは「生きるにも死ぬにも」(釈放されて伝道に復帰することと死刑で殺されること)と語り、自分の生死よりも大切なことを指し示します。そして、生きることと死ぬことが自分にとって、またフィリピの教会にとってどんな意味があるのかを描きます。21・22節。更に23節後半・24節。パウロ個人としては、死は、キリストと共に(今までよりもはっきりと)いることができるのであり、はるかに望ましい。しかし生は「あなたがたのために」必要なことだ。だからパウロは、23節前半。しかしこのパウロの発言は妙ではないでしょうか。なぜならば、パウロが選ぶのではなくて、ローマ帝国の官憲が決めることだからです。しかしパウロは、官憲よりももっと背後で決定的に物事をお決めになる方を知っています。だから、まるで自分で決めることができるかのように、「板挟み」というのです。そして最後、25・26節。神がお決めになられるのだから、自分が生きて釈放される方が御心に適うならば、そうなさるはずだ。そうパウロは確信しているので、(フィリピの教会の人々を慰め励ます意味も込めて)釈放の希望を語ります。
 私達の人生にも様々な「板挟み」があります。パウロは実際に自分で選べるかどうかは別として、自分にとって「はるかに望ましい」死よりも、生を選びます。私達も「板挟み」(選択)の時に、自分よりも福音を優先する、困難な方を選べる私達でありたいものです。

2018年7月22日「口実であれ、真実であれ」(フィリピの信徒への手紙1章15~19節)

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 前回から手紙の本文に入りました。パウロは自分の状況(獄中でどうであるか)よりも、ひたすら福音の前進に集中しています。ますます勇敢に御言葉が語られるようになったことをフィリピの教会の人々に伝えます。それは必ずしも、良い動機によるものばかりではありませんでした。15~17節。人間パウロに対する全く正反対の動機から伝道する人々がいました。ねたみと争いの念から、自分の利益を求めて、不純な動機の人々もいれば、真逆に善意で愛の動機から伝道する者たちもいます(ここは交差法です)。
 しかしパウロにとっては、そんなことはどうでもよいのです。18節。パウロにねたみと争いの念をもって伝道する人々がどんな人々なのか、詳しくは分かりません。しかし確かなことは、彼らが宣べ伝える福音そのものは、間違ってはいません。この手紙でも、パウロは、福音に反する間違った教えについては、断固として反対します。「まあ多少間違っていても、一応伝道ではあるのだからいいだろう」といういい加減な態度ではありません。ですから、この箇所に出てくる敵対的な人々も、パウロには否定的でも、正しい福音を宣べ伝えています。口実でも真実でもいい、とにかくキリストが告げ知らされています。だからパウロは喜びます。私達が人間的に考えれば、自分に敵対する人々は、直ちに福音に敵対していて否定すべき人々だとなるでしょう。しかしパウロの判断には、「自分」は勘定に入りません。キリストが告げ知らされていれば、パウロは喜びます。19節。あなたがたの祈りとイエス・キリストの霊の助けがあります。私達は罪の現実を知る時に、とても私達に福音・キリストを告げ知らせる資格などないことがよく分かります。しかし前回の箇所で、パウロが「福音の前進」と語ったように、福音そのものがそのものの力で前進していく、そのことのために私達は用いて頂くことができます。だとすれば、個々人の動機がどうであれ、(自分自身のことは脇に退けて)私達は福音の前進、キリストが伝えられることを喜びます。

2018年7月15日「ますます勇敢に」(フィリピ1章12~14節)

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 前回までの二回が最初の挨拶で、今日の箇所から本文に入ります。26節までが一纏まりなのですが、これを三回に分けて、7月中見ていく予定です。まず12節で、パウロはフィリピの教会の人々に訴えます。知ってほしい。恐らく手紙やエパフロデトの派遣によって、フィリピの教会の人々は、パウロの様子を知りたがったことでしょう。パウロは獄中にあって弱ってはいないだろうか。何か不足があって困ってはいないだろうか。しかしパウロがまず述べるのは、自分自身のことではなくて、福音のことです。福音の前進のことです。12節。「わたしの身に起こったこと」とは、投獄のことでしょう。なぜパウロの投獄が、福音の前進に役立つのでしょう。実際、フィリピでの出来事(使徒言行録16章)では、投獄された時に、地震が起こって、看守とその家族への伝道ができ、リディアと共にフィリピの教会の礎となりました。そのときのことをこのパウロの言葉を聞いて、フィリピの教会の人々は思い起こしたことでしょう。今回の事情は?13・14節。二つのことがあります。まず第一に、パウロの投獄が(犯罪によるものではなくて)ただひたすら、キリストのためであることが、人々に広く知れ渡ったことです。パウロの投獄されても落ち込まないで生き生きとしている姿(喜んでいる姿)は、当時既に広まっていたであろう、キリスト教に対する偏見を大きく揺るがしたことでしょう。二つ目は、多くの主に結ばれた兄弟たちの中に、確信を得て、ますます勇敢に御言葉を語る人々が現れたことです。もしも日和見的な人々が大勢いて、「パウロ先生が捕まったのなら、私たちは福音伝道を少し控えよう」ということになってしまっては、こうはいきません(そういう人々もいたことでしょうが)。たとえ投獄という人間的にみればとても悲惨な出来事であっても、ひたすら「主のために、福音の前進のために」であるときに、神はそれをも伝道の前進のために用いて、私たちをますます勇敢にしてくれます。(私たちではなくて)福音が前進するためにこそ、祈りましょう。

 

 

 

2018年7月8日「義の実を受けて」(フィリピ1章1~11節②)

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 前回は、フィリピの信徒への手紙を読む上で知っておきたい三つのことを確認し、また8節までをみました。今日は残りの三つの節、パウロの祈りをみましょう。「そして」よりも前の部分が、現在の祈り、「そして」よりも後が、キリストの日(再臨・終末)へ向けての、将来への祈りです。まず前半です。9節・10節前半。既にフィリピの教会の信徒たちには、愛があります。教会の中での愛、外の人々への愛、更には伝道者パウロへの愛があります。しかし現状に満足するのではなくて、更に愛がますます豊かになるようにとパウロは祈ります(ただ量的に増えるのではなくて、溢れ出るように!)。そのために大切なことは、知る力と見抜く力を身に着けることです。ラインホルド・ニーバーの有名な祈りを思います。「変えられるものを変える勇気と、変えられないものを受け入れる冷静さと、その両者を識別する知恵を与えて下さい」。その結果、何が重要なことで何が重要ではないことかが見分けられるようになります。すべての基準は、「愛」です。
 そして、10節後半。私たちはこのことについて、自信満々で、「私は清い、とがめられるところがない」などとは言えないでしょう。自分自身の現実を振り返ればすぐに分かることです。しかし、自分の力・努力で、それを目指していくというのではありません。最後、11節。すべてのポイントは、ここにあります。私たちは自分で努力することの虚しさ(確かにそれが必要な面もありますが)を知ると共に、こんな私にもあふれるほどに与えられる、イエス・キリストによる義の実を受けとることができます。そのとき、私たちはパウロと共に「もはや私が生きるのではない、私の内にキリストが生きる」ということを実感し、神の栄光とほまれとをたたえつつ、喜ぶことができるのです。

2018年7月1日「キリストの愛の心で」(フィリピ1章1~11節①)

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 今日からフィリピの信徒への手紙の講解説教です。最初に確認しておきたい三つのことを申します。まず第一に、この手紙は獄中書簡です。第二に(それにも係わらず)喜びの書簡でもあります(今日の箇所でも4節のように語ります)。なぜパウロは獄中にありながら(既に刑が確定している囚人ではなくて、未決囚のようですが)、パウロ自身が喜び、またフィリピの教会の信徒たちに喜ぶように勧めているのか、これからみていくことになります。第三に、他の諸教会と異なり、パウロはこのフィリピの教会からだけは、財政的支援を受けていました。それほどに親しい教会です。3~6節。このように、パウロはこの教会に絶大な信頼を寄せていました。ですから最初の挨拶でも、「使徒的権威」を書きません。1・2節。
 3節から11節までは、一固まりの文章なので、今日11節までまとめて読みましたが、今日は主に8節まで、次回に9節からのパウロの祈りをみます。7節。パウロの絶大な信頼は、フィリピの教会の人々が、いついかなる時でも、「共に恵みにあずかる者」と思い、心に留めているからです。誰も知り合いがいないような国・地域に行っても信仰を同じくする友がいて交わりがもてることは喜ばしいことです。ましてパウロは、自分たちが開拓伝道した教会であり、一人ひとりをよく知っているのですから、心に留め思い起こして祈るだけで喜びに満たされます。パウロは自分がどれほど彼らを愛しているか、「キリスト・イエスの愛の心で」という強い表現で語ります。8節。神を証人として語ります。「キリストの愛の心」とはどういうことでしょう。それは、相手のために十字架に死ぬことさえも厭わない愛です。

2018年6月24日「裏切りと逮捕」(マルコによる福音書14章43~52節)

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 前回は、とても有名なゲツセマネの祈りであり、その意味を探りました。その祈りの後、主イエスがまだ話しておられると、ユダがやってきます。43・44節。ここでまず三つのことに注目しましょう。マルコ福音書記者は、くどい位「十二人の一人」を繰り返します。第二に、指導層三者が丁寧に繰り返され、また主イエスに迫るのは、「群衆」です。第三に、裏切るという言葉は、「引き渡す」です。人間的な悪と罪とが進んでいく中で、それでもなお、神のご計画通りに全てが展開していきます。
 ユダは計画通り、主イエスに接吻します。親愛の情を表す接吻が、裏切りに用いられます。逮捕の場面は実に短くあっさりしています。45~47節。大祭司の手下の耳が切り落とされた出来事は、話の流れにはあまり関係なく、突発的な事故のような描かれ方です(福音書間でその扱い方には違いがありますが、今日は触れません)。そして主イエスは仰います。48~49節。主イエスを捕らえる者たちの滑稽さが主イエスの言葉によって際立っています。弟子たちは、蜘蛛の子を散らすように、逃げ出します。50節。
 最後の二節については、一つの伝説を紹介しておきましょう。51・52節。この若者は、最後の晩餐を行った家の息子であり、この福音書の著者だというものです。そしてこの家は、後の初代教会の大切な集会所の一つになります。ただ単に、弟子たちが逃げまどう中で、こういうことも起こるような混乱があったのだという描写に過ぎないと読むこともできますが、映画監督が自分の映画に少しだけ出るように、自分のことをマルコが書いたのだと読むことは、おもしろいことです。
 人々の滑稽なまでの混乱の中で、しかし主イエスお一人は落ち着いておられ、神の計画が静かに、しかし確実に進んでいきます。そして弟子たちが逃げ出してしまった現実は、私たちの信仰の弱さ・脆さ・儚さを描き、「私たちの信仰」ではなくて「主イエスの信仰」にこそ立つことの大切さを浮き彫りにします。さあ私たちは、「自分」ではなくて「主イエス」ゆえの確かさを生きましょう。

 

2018年6月17日「ゲツセマネの祈り」(マルコによる福音書14章32~42節)

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 前回は、オリーブ山へ向かう途中のできごとでした。今日はゲツセマネに着いて、とても有名なゲツセマネの祈りです。この祈りは、私たちの祈りの模範と言われますが、時々みかけるのは、「諦めの祈り」として捉えてしまう過ちです。そうではなくて、主イエスはここで、ヤボクの渡しでのヤコブの戦い(創世記37章23節以下)のように、戦っています。死という、神から切り離される現実、しかも木に架けられて殺される(イスラエルの考え方では最も呪われた)死です。主イエスは演劇の役者のように、神が台本を書いて演出する舞台を演じているのではありません。本当に苦しみ、本当に死にます。だから何とか避けたいのです。26節。全知全能の神に祈ります。しかしそのような自分の願いよりも、主イエスは「御心」を優先して祈ります。「御心」は、最初から諦めて祈る、諦めの祈りの入り口ではありません。私たちの祈りの戦いの最後にあるものです。
 そして第二に、主イエスは、私たちと同じように弱さを負われましたが、罪を犯されなかったので、ここには、主イエスの恐れ・苦しみ・悲しみがありますが、それは罪ではありません。33節後半~35節。生真面目な方は、それらの感情の動きを、神に全幅の信頼を寄せていないから起こるものであって、罪だと捉えます。確かにそういう面もあるでしょう。しかし必ず罪だということではありません。人間の自然な感情としてそういうものはあります。ただ大切なことは、三位一体の神と共にあること、そしてこの神に信頼を寄せることです。主イエスは、この神への信頼があります。だから、41節。自分の使命、飲まなければならない杯を--真剣な祈りの後に--受け入れます。私たちはここで眠ってしまった弟子たちと同じように、祈ることも神に信頼しきることもできません。しかしそんな私たちのために主イエスが十字架を担って下さったので、私たちもまた新しい神との関係へと(それゆえこの世界との新しい関係へと)招かれています。