これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2018年8月19日「その壁を超えて――境界線のない教会」 (ローマの信徒への手紙16章1~16節)

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 ローマの信徒への手紙は何か難しいイメージがあります。しかし、多くの人が思っているような教義的な部分だけではなく、パウロの思いが熱く記されることもあります。

 今日の個所にはたくさんの人の名前が登場します。パウロもまた普段からこの一人一人の名を挙げて祈っていたのではないかと思うのです。フィリピの信徒への手紙の冒頭には「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、 あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています」(1:3、4)と記されていますが、パウロもいろいろな人々の名を挙げて、祈っていたのでしょう。

 教会にはユダヤ人もいました。ギリシア人も、ローマ市民もいました。奴隷になっている人も解放されている人もいました。ここには貧しい人も、世の中で地位のある人たちもいましたが、一切の「肩書き」が書いてありません。どんな仕事に就いていたのか、誰かに雇われているのか、反対に誰かを雇っているのか、パウロは記していないのです。キリストに結ばれた者たちとは、こういうことではないかと思うのです。

 ガラテヤの信徒への手紙には、最初期の教会での洗礼式で使われたのではないかとされる「式文」が記されています。

   あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。(ガラテヤ3:26~28)

  このように最初の教会は本来、多様な人々の生き様を受け入れ、キリストにおいて一つだと宣言してきました。しかしながらいつの間にか、教会の中にも自分たちと考え方の違う者を排除したり、差別をする風潮が出てきたのです。私たちは今日、教会の原点に立ち戻る決意をしなければならないでしょう。

 

 

 

2018年8月12日「同じ戦いを」(フィリピ1章27~30節②)

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 今日は前回と同じ聖書箇所です。前回は「恵みとしての苦しみ」という視点でみてみました。今日は「同じ戦いを」です。今日の箇所から2章18(16)節までが一固まりですが、その核心にあるのが、「キリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」という勧告です。その一つのポイントが(前回みた)恵みとしての苦しみです。いま一つパウロが大切にしているのは、「戦い」という視点です。パウロが聞くことを望んでいるフィリピの教会の人々の状況は、27節後半~28節前半。一つ目は前回みました。二つ目と三つ目をみましょう。三つ目は、(実際には弱さの中でたじろぐことの多いわたしたちであるかもしれませんが)、一つ目と二つ目ができていれば、当然そうです。今日は特に二つ目に注目しましょう。心を合わせて福音の信仰のために共に戦っているであろうか。前回の一つの霊(神の霊、キリストの霊)によってしっかり立つことは、私達人間の業ではなくて、神がそうして下さる事柄でした。そしてその流れで、私達が心を一つに合わせます。何のためかという目標・目的が、「福音の信仰のために」という一つだから、心を合わせることができます。勿論、様々な人間が集まっている「教会」ですから、細かいところで意見が様々であることは仕方ありません。仕方ないどころか、一人でも多くの方に福音を伝えるために、この違いは「多様性」として、私達は受け入れます。しかし「戦い」においては一つです。この戦いは、血肉に対するものではなくて、福音の前進を阻もうとする(福音自体に前進する力があるのですから無理なのですが)力との戦いです。まず第一に、自分の中の怠惰や利己心、恐れ、弱さなどとの戦いです。第二に、福音の前進を恐れて(福音が前進すれば、悪の力は力を失っていきますから)うごめく諸力との戦いです。
 最後に30節。フィリピの教会の信徒たちだけではなくて、私達もまたパウロや彼らと同じ戦いを戦っているはずです。この戦う生き方こそが、キリストの福音にふさわしい生活を形作っていきます。

2018年8月5日「恵みとしての苦しみ」(フィリピの信徒への手紙1章27~30節)

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 前回で本文の最初の一固まりが終わりました。今日から2章18節までが、次の一固まりです。そして今日の箇所の最初の言葉は、この箇所全体を指しています。27節前半。いったいどういう意味でしょう。前回までは、ひたすら福音の前進という視点からパウロは述べていました。そしてその中で、自分の釈放の希望もまた(ただフィリピの教会の人々のためという意味で)述べました。今日の箇所は、勧告です。30節までを二つの側面から二回に渡ってみましょう。一つ目は、「恵みとしての苦しみ」という視点で、次回は「同じ戦いを」です。
 27節真ん中(二つ目の文章)でもって、彼らがパウロの勧告に従って生活するならば、どうなるかが描かれています。パウロは、彼らの「良い知らせ」を聞くことを望んでいます。釈放されるにせよ、そうでないにせよ。その中身は、27節後半~28節前半です。三つのことがいわれています。まず第一に、一つの霊によってしっかり立つこと。27節前半の「キリストの福音にふさわしい生活を送ること」が、人間的な努力によるものではなくて、神の霊・神の恵み・キリストによるものだということが分かります。私達は自分の力では立ち得ません。ただ神の霊によってのみ立ちます。「ふさわしい生活」を自分の努力で何とかしようなどとすれば、失敗と失望、あるいは偽善しかないでしょう。私達にできることは、私達が既に与えられている恵みにしっかりと立ち続けようとすることであり、それで十分です。二番目の「戦い」と「たじろぐことはない」は次回みます。ただ、このような三つの出来事において、明らかになるのは、28節後半。終末の時に反対者たちの滅びと、フィリピの教会の人々の救いがなる、そのことがこの事実から明らかになります。その全ては神によります。最後に29節。福音信仰に立ち続けることには、苦しみがあります。しかしその苦しみも他の多くの恵みと同じように実は恵みです。キリストの苦しみに連なることなのですから。

2018年7月29日「板挟み」(フィリピ1章20~26節)

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 12節から手紙の本文に入りました。パウロが獄中でどうであるか、今後の見通しがどうであるのか、フィリピの教会の人々は知りたがっていたのではないかと思われます。しかしパウロは、ひたすら福音の前進のことを語ります。なぜならパウロにとって大切なことは、自分のことではなくて、福音のこと、キリストのことだからです。
 今日の箇所でもそのことがよく出ています。20節。恥とは、キリストが公然とあがめられることの逆です。パウロは「生きるにも死ぬにも」(釈放されて伝道に復帰することと死刑で殺されること)と語り、自分の生死よりも大切なことを指し示します。そして、生きることと死ぬことが自分にとって、またフィリピの教会にとってどんな意味があるのかを描きます。21・22節。更に23節後半・24節。パウロ個人としては、死は、キリストと共に(今までよりもはっきりと)いることができるのであり、はるかに望ましい。しかし生は「あなたがたのために」必要なことだ。だからパウロは、23節前半。しかしこのパウロの発言は妙ではないでしょうか。なぜならば、パウロが選ぶのではなくて、ローマ帝国の官憲が決めることだからです。しかしパウロは、官憲よりももっと背後で決定的に物事をお決めになる方を知っています。だから、まるで自分で決めることができるかのように、「板挟み」というのです。そして最後、25・26節。神がお決めになられるのだから、自分が生きて釈放される方が御心に適うならば、そうなさるはずだ。そうパウロは確信しているので、(フィリピの教会の人々を慰め励ます意味も込めて)釈放の希望を語ります。
 私達の人生にも様々な「板挟み」があります。パウロは実際に自分で選べるかどうかは別として、自分にとって「はるかに望ましい」死よりも、生を選びます。私達も「板挟み」(選択)の時に、自分よりも福音を優先する、困難な方を選べる私達でありたいものです。

2018年7月22日「口実であれ、真実であれ」(フィリピの信徒への手紙1章15~19節)

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 前回から手紙の本文に入りました。パウロは自分の状況(獄中でどうであるか)よりも、ひたすら福音の前進に集中しています。ますます勇敢に御言葉が語られるようになったことをフィリピの教会の人々に伝えます。それは必ずしも、良い動機によるものばかりではありませんでした。15~17節。人間パウロに対する全く正反対の動機から伝道する人々がいました。ねたみと争いの念から、自分の利益を求めて、不純な動機の人々もいれば、真逆に善意で愛の動機から伝道する者たちもいます(ここは交差法です)。
 しかしパウロにとっては、そんなことはどうでもよいのです。18節。パウロにねたみと争いの念をもって伝道する人々がどんな人々なのか、詳しくは分かりません。しかし確かなことは、彼らが宣べ伝える福音そのものは、間違ってはいません。この手紙でも、パウロは、福音に反する間違った教えについては、断固として反対します。「まあ多少間違っていても、一応伝道ではあるのだからいいだろう」といういい加減な態度ではありません。ですから、この箇所に出てくる敵対的な人々も、パウロには否定的でも、正しい福音を宣べ伝えています。口実でも真実でもいい、とにかくキリストが告げ知らされています。だからパウロは喜びます。私達が人間的に考えれば、自分に敵対する人々は、直ちに福音に敵対していて否定すべき人々だとなるでしょう。しかしパウロの判断には、「自分」は勘定に入りません。キリストが告げ知らされていれば、パウロは喜びます。19節。あなたがたの祈りとイエス・キリストの霊の助けがあります。私達は罪の現実を知る時に、とても私達に福音・キリストを告げ知らせる資格などないことがよく分かります。しかし前回の箇所で、パウロが「福音の前進」と語ったように、福音そのものがそのものの力で前進していく、そのことのために私達は用いて頂くことができます。だとすれば、個々人の動機がどうであれ、(自分自身のことは脇に退けて)私達は福音の前進、キリストが伝えられることを喜びます。

2018年7月15日「ますます勇敢に」(フィリピ1章12~14節)

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 前回までの二回が最初の挨拶で、今日の箇所から本文に入ります。26節までが一纏まりなのですが、これを三回に分けて、7月中見ていく予定です。まず12節で、パウロはフィリピの教会の人々に訴えます。知ってほしい。恐らく手紙やエパフロデトの派遣によって、フィリピの教会の人々は、パウロの様子を知りたがったことでしょう。パウロは獄中にあって弱ってはいないだろうか。何か不足があって困ってはいないだろうか。しかしパウロがまず述べるのは、自分自身のことではなくて、福音のことです。福音の前進のことです。12節。「わたしの身に起こったこと」とは、投獄のことでしょう。なぜパウロの投獄が、福音の前進に役立つのでしょう。実際、フィリピでの出来事(使徒言行録16章)では、投獄された時に、地震が起こって、看守とその家族への伝道ができ、リディアと共にフィリピの教会の礎となりました。そのときのことをこのパウロの言葉を聞いて、フィリピの教会の人々は思い起こしたことでしょう。今回の事情は?13・14節。二つのことがあります。まず第一に、パウロの投獄が(犯罪によるものではなくて)ただひたすら、キリストのためであることが、人々に広く知れ渡ったことです。パウロの投獄されても落ち込まないで生き生きとしている姿(喜んでいる姿)は、当時既に広まっていたであろう、キリスト教に対する偏見を大きく揺るがしたことでしょう。二つ目は、多くの主に結ばれた兄弟たちの中に、確信を得て、ますます勇敢に御言葉を語る人々が現れたことです。もしも日和見的な人々が大勢いて、「パウロ先生が捕まったのなら、私たちは福音伝道を少し控えよう」ということになってしまっては、こうはいきません(そういう人々もいたことでしょうが)。たとえ投獄という人間的にみればとても悲惨な出来事であっても、ひたすら「主のために、福音の前進のために」であるときに、神はそれをも伝道の前進のために用いて、私たちをますます勇敢にしてくれます。(私たちではなくて)福音が前進するためにこそ、祈りましょう。

 

 

 

2018年7月8日「義の実を受けて」(フィリピ1章1~11節②)

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 前回は、フィリピの信徒への手紙を読む上で知っておきたい三つのことを確認し、また8節までをみました。今日は残りの三つの節、パウロの祈りをみましょう。「そして」よりも前の部分が、現在の祈り、「そして」よりも後が、キリストの日(再臨・終末)へ向けての、将来への祈りです。まず前半です。9節・10節前半。既にフィリピの教会の信徒たちには、愛があります。教会の中での愛、外の人々への愛、更には伝道者パウロへの愛があります。しかし現状に満足するのではなくて、更に愛がますます豊かになるようにとパウロは祈ります(ただ量的に増えるのではなくて、溢れ出るように!)。そのために大切なことは、知る力と見抜く力を身に着けることです。ラインホルド・ニーバーの有名な祈りを思います。「変えられるものを変える勇気と、変えられないものを受け入れる冷静さと、その両者を識別する知恵を与えて下さい」。その結果、何が重要なことで何が重要ではないことかが見分けられるようになります。すべての基準は、「愛」です。
 そして、10節後半。私たちはこのことについて、自信満々で、「私は清い、とがめられるところがない」などとは言えないでしょう。自分自身の現実を振り返ればすぐに分かることです。しかし、自分の力・努力で、それを目指していくというのではありません。最後、11節。すべてのポイントは、ここにあります。私たちは自分で努力することの虚しさ(確かにそれが必要な面もありますが)を知ると共に、こんな私にもあふれるほどに与えられる、イエス・キリストによる義の実を受けとることができます。そのとき、私たちはパウロと共に「もはや私が生きるのではない、私の内にキリストが生きる」ということを実感し、神の栄光とほまれとをたたえつつ、喜ぶことができるのです。