これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2018年9月16日「キリストの名」(フィリピの信徒への手紙2章6~11節②)

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 前回と同じ聖書箇所です。前回は主に8節まで、主イエスご自身のへりくだりをみました。この主のへりくだりこそ、私達の大切な模範です。勿論、前回申し上げましたように、私達が主イエスと全く同じことをすることなど、不可能です。ただ、私達は主イエスのなさったことに思いを馳せ、深く思い巡らす中で、少しでも主イエスのなさりように近づこうとすることができるだけです。それが可能なのは、主イエスの出来事があるからです。主イエスは、十字架の死に至るまで、従順であられました。そうして、私達全ての者の罪を裁き、私達を赦し贖って下さいました。だから、私達は主イエスに似た者になろうとして生きることができます。
 その主イエスはただ、十字架の死へ至るまでへりくだりました。しかし神は主イエスをそのまま死の中に置き去りにはなさいませんでした。天にまで挙げられました。これを高挙と言います。多くの方が指摘なさるのは、8節までのへりくだりの主語・主体はイエス・キリストであるのに対して、9節からの高挙の主語・主体は神であることです。9節。キリストご自身が自分で高く上がられたのではない、神がへりくだる主イエスを高く挙げられました。そしてあらゆる名にまさる名をお与えになりました。これには、三つの意味があります。まず第一に、主イエスが(たとえそれが全ての人に分かるのは終末を待たなければならないとしても)、全てのものの上に立つ主であることです。そして第二に、それゆえ、どんな「主」を自称するものも、真実には「主」ではないということです。この世界には、「主」であろうとする多くのものが蠢いています。しかし全て偽物であって、私達は真実の主を知るがゆえに、偽物を偽物と見抜きます。そして第三に、主イエスのへりくだりがどれほど父なる神にとって意義深い大切なものであるかを示すことです。10・11節。このことが誰にでも明らかになるのは、終末を待たなければなりません。しかし既に私達教会は、この終末的出来事を今、生き始めています。キリストの名において神をたたえましょう。

2018年9月9日「十字架の死に至るまで」(フィリピの信徒への手紙2章6~11節)

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 前回、パウロは、見せ掛けではない真実のへりくだりを勧めました。そしてその根拠がキリストにもこのへりくだりがあるのだということです。5節。今日の箇所でパウロは、そのことを更に丁寧に述べます。今日の箇所でパウロが語ろうとしていることは、主に二つあります。一つは、キリストのへりくだりに眼差しを向けさせることです。そしていま一つは、私達がそのようにへりくだることのできる根拠・理由である、主イエスの出来事です。ここには、受肉と高挙の両方が語られています。今日は、8節まで、受肉・主イエスのへりくだりの部分をみます。次回9節からの高挙をみましょう。
 6・7節前半。神であられることに固執しないで、私達と全く同じように弱さや苦しみを負われました。(罪は犯さなかったけれども)私達と同じように様々な誘惑に遭い、苦しみました。7節後半・8節。実はこの箇所は、当時のよく知られた讃美歌か告白文を用いて書いていると思われます(この箇所については様々な面倒な議論がありますが、この点ではおおむね一致しています)。しかしパウロの文章で特徴的なのは、「それも十字架の死に至るまで」が書き加えられていることです。告白文であれ讃美歌であれ、普通は韻をふむのですが、この言葉だけ、韻を壊しています。つまりパウロは、どうしても十字架のことを(単に「死」ではなくて)述べたかったのです。
 さて、このキリストに倣う時に、私達はどのようであるのでしょうか。キリストと全く同じに自分のせいではなくて、他者のために死ぬことなど、私達にはできません。たとえできたとしても、私達はキリストと異なり罪人ですから、やはり自分のせいに過ぎません。キリストと同じことは、私達にはできません。しかしキリストの十字架、十字架の死を一心に見つめるときに、私達は真実のへりくだりを生き始めるのではないでしょうか。

2018年9月2日「真実のへりくだり」(フィリピの信徒への手紙2章3~5節)

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 前回の中心は、思いを一つにすることでした。一つの目当てに集中することで、それぞれが異なるとしても一致できます。そしてそのために必要なことは、「へりくだり」です。へりくだりには、見せ掛けのへりくだりと真実のへりくだりがあります。見せ掛けのへりくだりとは、態度だけで中身のないものです。実際には、自分は優秀だ、たいしたものだと思いながら、謙遜な態度が高く評価されることから(ギリシャにはそういう言葉の使い方はないそうです)、そういう態度だけをしてみせます。ここでパウロが勧めている「真実のへりくだり」は、そのようなものとは全く異なります。3節。最初の二つは、否定的な言葉で、後の二つは積極的なものです。利己心や虚栄心は、神のおられない所(もしくはまるで神なきがごとくに思う所)にある心です。逆に、真実のへりくだりは、神の恵みの事実(十字架と復活において示された)に立つ時に、当然起こってくるものです。「わたしは」、神の前に自分の力でそもそも立つことができるでしょうか。ただ、神が十字架においてわたしの罪を赦して下さったゆえに、私達は立つことができます。神の恵みを真剣に受け止めるならば、「真実のへりくだり(決して見せ掛けではない)」に生きる他ありません。そしてそれは、「相手を自分よりも優れた者と考え」ることになります。優秀な方ほど、これは難しいことであるかもしれません。しかし人間全てに点数をつけて序列化する発想でなければ、誰でも神から与えられた特別な賜物があること、そしてその賜物に目を止める時に、自分よりも優れた者と考えることができます。4節。ここでは特に賜物のことが考えられているといってよいでしょう。そしてこの真実のへりくだりは、決して私達の中から出てくるものではありません。ただキリストを模範として学ぶものです。5節。キリスト・イエスにもみられる。 6節からそれを具体的に見ていくことになります。私達は、信仰のゆえに真実のへりくだりを生き、それだから、思いを一つにしましょう。

2018年8月26日「思いを一つにして」(フィリピの信徒への手紙2章1・2節)

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 今日から2章に入りますが、1章27節から新しい単元に入りましたから、前回と今日の箇所とは密接に結びついています。前回、「一つの霊によってよってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦」(27節)うことが勧められていました。前者(一つの霊…)は、神のしてくださることですから所与の事実であり、後者(心を合わせて)は、確かに究極的には「神によること」ですが、私達キリスト者の努力・関与の必要なことでもあります。そこでパウロは、今日の箇所で、この「心を合わせて」をもっと丁寧に勧めていきます。まず、1節は、2節の前提としての事実を述べます。1節。「…なら」と言われますと、私達は、そうではない可能性を考えます。しかしこの箇所は、「…なのだから」と読むべきです。あなた方には、四つのものがある。だから、…(2節の勧め)、です。まず一つ目は、イエス・キリストの十字架と復活とに基づくキリストの励まし(慰め)です。信仰を生きるならば、この励ましに生きていないはずもありません。そして二つ目は、神の愛です。神は、独り子イエス・キリストを下さるという仕方で、私達を愛しておられます。この愛の慰めです。三つ目は、(神の、またキリストの)霊の交わりです。私達は、このような神との交わりに生きるので、互いの間でも、慈しみや憐れみの心をもつことができます。この四つ(三位一体の神のものと、その結果)を根拠としてパウロは勧めます。2節。この場合、パウロの喜びは、利己的なものではないので、同時にフィリピの教会の人々の喜びでもあり、更には神の喜びです。パウロの当時係わっていた教会にも、フィリピの教会にも(4章2節以下)、また後の教会にも不一致はありました。私達人間の弱さ、罪深さがどれほど根深いものであるかがよく分かります。真剣に真面目に取り組むからこそ、どうしても譲れないものがでてきます(プロテスタント三派が一致できなかったのもそうです)。だからこそ、思いを一つにすることを目指します。そしてその大切な根拠が(次回の)キリストに倣うへりくだりなのです。私達一人ひとりがどれほど異なっていようと、ただ信仰の故に思いを一つにしていきましょう。

 

2018年8月19日「その壁を超えて――境界線のない教会」 (ローマの信徒への手紙16章1~16節)

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 ローマの信徒への手紙は何か難しいイメージがあります。しかし、多くの人が思っているような教義的な部分だけではなく、パウロの思いが熱く記されることもあります。

 今日の個所にはたくさんの人の名前が登場します。パウロもまた普段からこの一人一人の名を挙げて祈っていたのではないかと思うのです。フィリピの信徒への手紙の冒頭には「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、 あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています」(1:3、4)と記されていますが、パウロもいろいろな人々の名を挙げて、祈っていたのでしょう。

 教会にはユダヤ人もいました。ギリシア人も、ローマ市民もいました。奴隷になっている人も解放されている人もいました。ここには貧しい人も、世の中で地位のある人たちもいましたが、一切の「肩書き」が書いてありません。どんな仕事に就いていたのか、誰かに雇われているのか、反対に誰かを雇っているのか、パウロは記していないのです。キリストに結ばれた者たちとは、こういうことではないかと思うのです。

 ガラテヤの信徒への手紙には、最初期の教会での洗礼式で使われたのではないかとされる「式文」が記されています。

   あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。(ガラテヤ3:26~28)

  このように最初の教会は本来、多様な人々の生き様を受け入れ、キリストにおいて一つだと宣言してきました。しかしながらいつの間にか、教会の中にも自分たちと考え方の違う者を排除したり、差別をする風潮が出てきたのです。私たちは今日、教会の原点に立ち戻る決意をしなければならないでしょう。

 

 

 

2018年8月12日「同じ戦いを」(フィリピ1章27~30節②)

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 今日は前回と同じ聖書箇所です。前回は「恵みとしての苦しみ」という視点でみてみました。今日は「同じ戦いを」です。今日の箇所から2章18(16)節までが一固まりですが、その核心にあるのが、「キリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」という勧告です。その一つのポイントが(前回みた)恵みとしての苦しみです。いま一つパウロが大切にしているのは、「戦い」という視点です。パウロが聞くことを望んでいるフィリピの教会の人々の状況は、27節後半~28節前半。一つ目は前回みました。二つ目と三つ目をみましょう。三つ目は、(実際には弱さの中でたじろぐことの多いわたしたちであるかもしれませんが)、一つ目と二つ目ができていれば、当然そうです。今日は特に二つ目に注目しましょう。心を合わせて福音の信仰のために共に戦っているであろうか。前回の一つの霊(神の霊、キリストの霊)によってしっかり立つことは、私達人間の業ではなくて、神がそうして下さる事柄でした。そしてその流れで、私達が心を一つに合わせます。何のためかという目標・目的が、「福音の信仰のために」という一つだから、心を合わせることができます。勿論、様々な人間が集まっている「教会」ですから、細かいところで意見が様々であることは仕方ありません。仕方ないどころか、一人でも多くの方に福音を伝えるために、この違いは「多様性」として、私達は受け入れます。しかし「戦い」においては一つです。この戦いは、血肉に対するものではなくて、福音の前進を阻もうとする(福音自体に前進する力があるのですから無理なのですが)力との戦いです。まず第一に、自分の中の怠惰や利己心、恐れ、弱さなどとの戦いです。第二に、福音の前進を恐れて(福音が前進すれば、悪の力は力を失っていきますから)うごめく諸力との戦いです。
 最後に30節。フィリピの教会の信徒たちだけではなくて、私達もまたパウロや彼らと同じ戦いを戦っているはずです。この戦う生き方こそが、キリストの福音にふさわしい生活を形作っていきます。

2018年8月5日「恵みとしての苦しみ」(フィリピの信徒への手紙1章27~30節)

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 前回で本文の最初の一固まりが終わりました。今日から2章18節までが、次の一固まりです。そして今日の箇所の最初の言葉は、この箇所全体を指しています。27節前半。いったいどういう意味でしょう。前回までは、ひたすら福音の前進という視点からパウロは述べていました。そしてその中で、自分の釈放の希望もまた(ただフィリピの教会の人々のためという意味で)述べました。今日の箇所は、勧告です。30節までを二つの側面から二回に渡ってみましょう。一つ目は、「恵みとしての苦しみ」という視点で、次回は「同じ戦いを」です。
 27節真ん中(二つ目の文章)でもって、彼らがパウロの勧告に従って生活するならば、どうなるかが描かれています。パウロは、彼らの「良い知らせ」を聞くことを望んでいます。釈放されるにせよ、そうでないにせよ。その中身は、27節後半~28節前半です。三つのことがいわれています。まず第一に、一つの霊によってしっかり立つこと。27節前半の「キリストの福音にふさわしい生活を送ること」が、人間的な努力によるものではなくて、神の霊・神の恵み・キリストによるものだということが分かります。私達は自分の力では立ち得ません。ただ神の霊によってのみ立ちます。「ふさわしい生活」を自分の努力で何とかしようなどとすれば、失敗と失望、あるいは偽善しかないでしょう。私達にできることは、私達が既に与えられている恵みにしっかりと立ち続けようとすることであり、それで十分です。二番目の「戦い」と「たじろぐことはない」は次回みます。ただ、このような三つの出来事において、明らかになるのは、28節後半。終末の時に反対者たちの滅びと、フィリピの教会の人々の救いがなる、そのことがこの事実から明らかになります。その全ては神によります。最後に29節。福音信仰に立ち続けることには、苦しみがあります。しかしその苦しみも他の多くの恵みと同じように実は恵みです。キリストの苦しみに連なることなのですから。