これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2018年9月30日「不平や理屈を言わずに」(フィリピの信徒への手紙2章14~16節前半)

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 今日の聖書箇所は、以前の口語訳聖書ではこうなっていました…。大きな違いは二つあります。一つは、「命の言葉をしっかり保つでしょう」が、「いのちの言葉を堅く持って」であり、15節に組み込まれていることです。翻訳としては、(章・節の区切りから言えば)今回の新共同訳聖書の方が正しいのですが、口語訳のように訳すことも可能です。いま一つは、最初の「不平や理屈を言わずに」が「つぶやかず疑わないで」であったことです。ここも、「理屈」(疑わないで)と訳された言葉は、もともとマイナスイメージのある言葉ではないので、実に見事な翻訳であると思います。まず最初に、「不平を言わないで・つぶやかず」をみましょう。私達の社会には、何と不平・つぶやきが多いことでしょうか。つぶやきによるカタルシスを考えれば一概に否定もできません。しかし何よりも問題なのは、不平・つぶやきの根っこにあるのが、神への信頼・従順の真逆のものだということです。なぜ自分に不平・つぶやきが起こるのかをよく考えてみて下さい。そこには、自分の思い通りにならない現実に対するいらだちの思いがあるのではないでしょうか。「御心のままに」にはほど遠い、「私の思いのままに」があります。神の恵みの大きさ・深さに対する感謝ではなくて、不満があります。「理屈を言わないで・疑わないで」も同じです。私達はいつも、自分を正当化する理屈をうみだし、神の真実を疑います。その根底にもやはり、神信頼の欠如があって、本当の問題は私達に降りかかる様々な現実ではなくて(それもまた確かに問題なのですが)、私達の神信仰のあり方が問題です。
 そういうところから、信仰・聖霊によって抜け出して、まっすぐに神への信頼と感謝に生きるとき、わたしたちは神の子として星のように輝き、いのちの言葉をしっかりと保ちます。ここで大切なのは、命令形や勧告ではなくて、直接法、事実としてそうだと断言されています。主イエスが、「あなたがたは世の光である」と断言なさったように。

2018年9月23日「救いの達成に努めよ」(フィリピの信徒への手紙2章12.13節)

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 今日の聖書箇所は、「だから」ではじまっています。唐突に違う話になったのではなく、主イエスのへりくだりと高挙とを述べて、それを受けて、今日の勧めです。しかしまた、「わたしの愛する人たち」と呼びかけていますので、新しい勧めでもあります。12節。二つのことが勧められています。従順であることと、救いの達成に努めることです。まず一つ目の従順には、誰・何に対する従順であるかが書かれていません。一つには、神に対する従順であり、今一つには(パウロの伝えた)教えに対する従順です。更に、「お互いに」対する従順を指摘する方もいます。
 次に、救いの達成に努めることが勧められています。これは、「恐れおののきつつ」です。これはどういう意味でしょう。神の前に、ということです。私達は、11節までに語られたような主イエスの事実によって、救いを約束されています。しかしそれは、「ありのままの自分では救われないはずの自分が、しかし神の恵みによって救いに入れられている」ことです。この大きな恵みにあって、私達は、恐怖ということではなく畏敬という意味で、恐れおののかないわけにはいきません。もしも恐れおののきがないとしたら、それは神の救いの恵みを軽く見ていることです。さらに「自分の」は実は複数形なので、「自分たちの」という意味です。「自分一人の」ではなくて、信仰共同体としての教会全体がここでは考えられています。また、救いの達成に努めるといっても、決して神人協同説が主張されているのではありません。次の13節から明らかです。13節。私達の内に意志を生むのも、実際に行わせるのも全て神であられます。だから、私達の中からそういう救いの達成への努力が生まれるのではなく、全て神の恵みです。私達は、この神の恵みの大きさの前で、この神の恵みの大きさをわきまえて生きる、そこにこそ、パウロの求めるキリスト者の生き方が形作られます。

2018年9月16日「キリストの名」(フィリピの信徒への手紙2章6~11節②)

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 前回と同じ聖書箇所です。前回は主に8節まで、主イエスご自身のへりくだりをみました。この主のへりくだりこそ、私達の大切な模範です。勿論、前回申し上げましたように、私達が主イエスと全く同じことをすることなど、不可能です。ただ、私達は主イエスのなさったことに思いを馳せ、深く思い巡らす中で、少しでも主イエスのなさりように近づこうとすることができるだけです。それが可能なのは、主イエスの出来事があるからです。主イエスは、十字架の死に至るまで、従順であられました。そうして、私達全ての者の罪を裁き、私達を赦し贖って下さいました。だから、私達は主イエスに似た者になろうとして生きることができます。
 その主イエスはただ、十字架の死へ至るまでへりくだりました。しかし神は主イエスをそのまま死の中に置き去りにはなさいませんでした。天にまで挙げられました。これを高挙と言います。多くの方が指摘なさるのは、8節までのへりくだりの主語・主体はイエス・キリストであるのに対して、9節からの高挙の主語・主体は神であることです。9節。キリストご自身が自分で高く上がられたのではない、神がへりくだる主イエスを高く挙げられました。そしてあらゆる名にまさる名をお与えになりました。これには、三つの意味があります。まず第一に、主イエスが(たとえそれが全ての人に分かるのは終末を待たなければならないとしても)、全てのものの上に立つ主であることです。そして第二に、それゆえ、どんな「主」を自称するものも、真実には「主」ではないということです。この世界には、「主」であろうとする多くのものが蠢いています。しかし全て偽物であって、私達は真実の主を知るがゆえに、偽物を偽物と見抜きます。そして第三に、主イエスのへりくだりがどれほど父なる神にとって意義深い大切なものであるかを示すことです。10・11節。このことが誰にでも明らかになるのは、終末を待たなければなりません。しかし既に私達教会は、この終末的出来事を今、生き始めています。キリストの名において神をたたえましょう。

2018年9月9日「十字架の死に至るまで」(フィリピの信徒への手紙2章6~11節)

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 前回、パウロは、見せ掛けではない真実のへりくだりを勧めました。そしてその根拠がキリストにもこのへりくだりがあるのだということです。5節。今日の箇所でパウロは、そのことを更に丁寧に述べます。今日の箇所でパウロが語ろうとしていることは、主に二つあります。一つは、キリストのへりくだりに眼差しを向けさせることです。そしていま一つは、私達がそのようにへりくだることのできる根拠・理由である、主イエスの出来事です。ここには、受肉と高挙の両方が語られています。今日は、8節まで、受肉・主イエスのへりくだりの部分をみます。次回9節からの高挙をみましょう。
 6・7節前半。神であられることに固執しないで、私達と全く同じように弱さや苦しみを負われました。(罪は犯さなかったけれども)私達と同じように様々な誘惑に遭い、苦しみました。7節後半・8節。実はこの箇所は、当時のよく知られた讃美歌か告白文を用いて書いていると思われます(この箇所については様々な面倒な議論がありますが、この点ではおおむね一致しています)。しかしパウロの文章で特徴的なのは、「それも十字架の死に至るまで」が書き加えられていることです。告白文であれ讃美歌であれ、普通は韻をふむのですが、この言葉だけ、韻を壊しています。つまりパウロは、どうしても十字架のことを(単に「死」ではなくて)述べたかったのです。
 さて、このキリストに倣う時に、私達はどのようであるのでしょうか。キリストと全く同じに自分のせいではなくて、他者のために死ぬことなど、私達にはできません。たとえできたとしても、私達はキリストと異なり罪人ですから、やはり自分のせいに過ぎません。キリストと同じことは、私達にはできません。しかしキリストの十字架、十字架の死を一心に見つめるときに、私達は真実のへりくだりを生き始めるのではないでしょうか。

2018年9月2日「真実のへりくだり」(フィリピの信徒への手紙2章3~5節)

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 前回の中心は、思いを一つにすることでした。一つの目当てに集中することで、それぞれが異なるとしても一致できます。そしてそのために必要なことは、「へりくだり」です。へりくだりには、見せ掛けのへりくだりと真実のへりくだりがあります。見せ掛けのへりくだりとは、態度だけで中身のないものです。実際には、自分は優秀だ、たいしたものだと思いながら、謙遜な態度が高く評価されることから(ギリシャにはそういう言葉の使い方はないそうです)、そういう態度だけをしてみせます。ここでパウロが勧めている「真実のへりくだり」は、そのようなものとは全く異なります。3節。最初の二つは、否定的な言葉で、後の二つは積極的なものです。利己心や虚栄心は、神のおられない所(もしくはまるで神なきがごとくに思う所)にある心です。逆に、真実のへりくだりは、神の恵みの事実(十字架と復活において示された)に立つ時に、当然起こってくるものです。「わたしは」、神の前に自分の力でそもそも立つことができるでしょうか。ただ、神が十字架においてわたしの罪を赦して下さったゆえに、私達は立つことができます。神の恵みを真剣に受け止めるならば、「真実のへりくだり(決して見せ掛けではない)」に生きる他ありません。そしてそれは、「相手を自分よりも優れた者と考え」ることになります。優秀な方ほど、これは難しいことであるかもしれません。しかし人間全てに点数をつけて序列化する発想でなければ、誰でも神から与えられた特別な賜物があること、そしてその賜物に目を止める時に、自分よりも優れた者と考えることができます。4節。ここでは特に賜物のことが考えられているといってよいでしょう。そしてこの真実のへりくだりは、決して私達の中から出てくるものではありません。ただキリストを模範として学ぶものです。5節。キリスト・イエスにもみられる。 6節からそれを具体的に見ていくことになります。私達は、信仰のゆえに真実のへりくだりを生き、それだから、思いを一つにしましょう。

2018年8月26日「思いを一つにして」(フィリピの信徒への手紙2章1・2節)

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 今日から2章に入りますが、1章27節から新しい単元に入りましたから、前回と今日の箇所とは密接に結びついています。前回、「一つの霊によってよってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦」(27節)うことが勧められていました。前者(一つの霊…)は、神のしてくださることですから所与の事実であり、後者(心を合わせて)は、確かに究極的には「神によること」ですが、私達キリスト者の努力・関与の必要なことでもあります。そこでパウロは、今日の箇所で、この「心を合わせて」をもっと丁寧に勧めていきます。まず、1節は、2節の前提としての事実を述べます。1節。「…なら」と言われますと、私達は、そうではない可能性を考えます。しかしこの箇所は、「…なのだから」と読むべきです。あなた方には、四つのものがある。だから、…(2節の勧め)、です。まず一つ目は、イエス・キリストの十字架と復活とに基づくキリストの励まし(慰め)です。信仰を生きるならば、この励ましに生きていないはずもありません。そして二つ目は、神の愛です。神は、独り子イエス・キリストを下さるという仕方で、私達を愛しておられます。この愛の慰めです。三つ目は、(神の、またキリストの)霊の交わりです。私達は、このような神との交わりに生きるので、互いの間でも、慈しみや憐れみの心をもつことができます。この四つ(三位一体の神のものと、その結果)を根拠としてパウロは勧めます。2節。この場合、パウロの喜びは、利己的なものではないので、同時にフィリピの教会の人々の喜びでもあり、更には神の喜びです。パウロの当時係わっていた教会にも、フィリピの教会にも(4章2節以下)、また後の教会にも不一致はありました。私達人間の弱さ、罪深さがどれほど根深いものであるかがよく分かります。真剣に真面目に取り組むからこそ、どうしても譲れないものがでてきます(プロテスタント三派が一致できなかったのもそうです)。だからこそ、思いを一つにすることを目指します。そしてその大切な根拠が(次回の)キリストに倣うへりくだりなのです。私達一人ひとりがどれほど異なっていようと、ただ信仰の故に思いを一つにしていきましょう。

 

2018年8月19日「その壁を超えて――境界線のない教会」 (ローマの信徒への手紙16章1~16節)

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 ローマの信徒への手紙は何か難しいイメージがあります。しかし、多くの人が思っているような教義的な部分だけではなく、パウロの思いが熱く記されることもあります。

 今日の個所にはたくさんの人の名前が登場します。パウロもまた普段からこの一人一人の名を挙げて祈っていたのではないかと思うのです。フィリピの信徒への手紙の冒頭には「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、 あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています」(1:3、4)と記されていますが、パウロもいろいろな人々の名を挙げて、祈っていたのでしょう。

 教会にはユダヤ人もいました。ギリシア人も、ローマ市民もいました。奴隷になっている人も解放されている人もいました。ここには貧しい人も、世の中で地位のある人たちもいましたが、一切の「肩書き」が書いてありません。どんな仕事に就いていたのか、誰かに雇われているのか、反対に誰かを雇っているのか、パウロは記していないのです。キリストに結ばれた者たちとは、こういうことではないかと思うのです。

 ガラテヤの信徒への手紙には、最初期の教会での洗礼式で使われたのではないかとされる「式文」が記されています。

   あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。(ガラテヤ3:26~28)

  このように最初の教会は本来、多様な人々の生き様を受け入れ、キリストにおいて一つだと宣言してきました。しかしながらいつの間にか、教会の中にも自分たちと考え方の違う者を排除したり、差別をする風潮が出てきたのです。私たちは今日、教会の原点に立ち戻る決意をしなければならないでしょう。