これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2018年10月14日「テモテを送る計画」(フィリピの信徒への手紙2章19~24節)

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 今日の聖書箇所は、「事務連絡」という表題を付ける方もおられる位、単にテモテを送る計画が書かれているだけです。しかしそれでもなお、この計画自体が、パウロの差し迫った状況を思うと、彼の希望やフィリピの教会の人々への愛が溢れるものとなっています。この箇所の冒頭の言葉は(日本語の翻訳では)「希望しています」です。これは手紙の文末によくパウロが用いる言葉なので、この手紙が幾つかの手紙が編集されて出来上がったものだという根拠の一つになっています。パウロは、テモテを送ることをもう決まったこととしてではなくて、希望・願いとして述べています。パウロは獄中にあります。まだ死刑で殺されるのか、釈放されるのか、分かりません。もしも死刑(前回の17節で、その覚悟が述べられていたように)であれば、テモテには傍にいてほしい。だから、(釈放の)見通しがたったら、すぐにテモテを送る計画を実行しようということでしょう。23節。そしてパウロは、自分の釈放、更にはフィリピの教会への訪問も確信していると述べます。24節。殉教を覚悟しつつも、フィリピの教会の人々のことを思って主が自分を遣わすだろうという確信があります(1章24・25節参照)。
 最初の「力づけられたい」も、利己的な思いではありません。19節。パウロが、フィリピの教会の人々と心が繋がっていて、彼らの労苦を知ることで自分が励まされることがよく分かっています。その背景にあるのは、フィリピの教会の人々もまた、テモテから獄中のパウロの様子を聞くことで励まされるという確信があります。20~22節は、なぜ(送るのが)テモテなのか、テモテがどれほど信頼に値する人物であるかを述べています。こんなに大切なテモテを送ろうとするほど、パウロはフィリピの教会の人々のことを想っています。現代の日本は、(直接の)迫害からはまだ遠いかもしれません。しかし私達幕張教会もこのような信仰にある堅い交わりを生きましょう。

2018年10月7日「わたしの血が注がれるとしても」(フィリピの信徒への手紙2章16前半~18節)

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 この手紙は、今まで繰り返し述べてまいりましたように、獄中書簡であり、また喜びの手紙です。そのことが今日の箇所では如実に表れています。17・18節です。でもその前に、16節後半をみてみましょう。フィリピの教会の人々が、命の言葉をしっかりと保って星のように輝くならば、パウロはキリストの再臨の日に誇る(喜ぶ)ことができます。伝道者、パウロにとっては、教会の人々の救いこそ、自分の誇り・喜び・救いです。この箇所をパウロのエゴと読むことはできません。なぜならば、パウロは、もはや自分が働くのではない、私の内にキリストが働くのだ、全ては神がなさることだと分かっています(例えば、直前の13節。1章6節。また、一コリント15章10節など)。パウロが誇るのは、決して自分個人の成果ではありません。神の恵みの出来事です。皆さんは、自分の人生を「無駄ではない」と誇ることができるでしょうか。できます。なぜならば、皆さんもまた、この救いに入れられているからです。私達の労苦は無駄にならないからです(一コリント15章58節)。だからこそ、パウロは自分の殉教(の可能性)にあってなお、喜ぶし、喜ぶことを勧めます。17・18節。私達伝道者は、皆、この点でパウロと同じです。更に、信仰を同じくする皆さんも、死を超えた喜びに生きることができます。このことは、理屈では簡単な・単純なことです。しかし私達は、単なる罪赦された罪人にすぎませんから、なかなかそうはいきません。同労者の死は、やはり、大きな悲しみと喪失感があることでしょう。だからこそ、パウロは、丁寧に、「わたしと一緒に喜びなさい」と勧めます。私達もまた、聖霊によって、「血が注がれるとしても」喜ぶことのできる喜び・信仰を身に着けましょう。

2018年9月30日「不平や理屈を言わずに」(フィリピの信徒への手紙2章14~16節前半)

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 今日の聖書箇所は、以前の口語訳聖書ではこうなっていました…。大きな違いは二つあります。一つは、「命の言葉をしっかり保つでしょう」が、「いのちの言葉を堅く持って」であり、15節に組み込まれていることです。翻訳としては、(章・節の区切りから言えば)今回の新共同訳聖書の方が正しいのですが、口語訳のように訳すことも可能です。いま一つは、最初の「不平や理屈を言わずに」が「つぶやかず疑わないで」であったことです。ここも、「理屈」(疑わないで)と訳された言葉は、もともとマイナスイメージのある言葉ではないので、実に見事な翻訳であると思います。まず最初に、「不平を言わないで・つぶやかず」をみましょう。私達の社会には、何と不平・つぶやきが多いことでしょうか。つぶやきによるカタルシスを考えれば一概に否定もできません。しかし何よりも問題なのは、不平・つぶやきの根っこにあるのが、神への信頼・従順の真逆のものだということです。なぜ自分に不平・つぶやきが起こるのかをよく考えてみて下さい。そこには、自分の思い通りにならない現実に対するいらだちの思いがあるのではないでしょうか。「御心のままに」にはほど遠い、「私の思いのままに」があります。神の恵みの大きさ・深さに対する感謝ではなくて、不満があります。「理屈を言わないで・疑わないで」も同じです。私達はいつも、自分を正当化する理屈をうみだし、神の真実を疑います。その根底にもやはり、神信頼の欠如があって、本当の問題は私達に降りかかる様々な現実ではなくて(それもまた確かに問題なのですが)、私達の神信仰のあり方が問題です。
 そういうところから、信仰・聖霊によって抜け出して、まっすぐに神への信頼と感謝に生きるとき、わたしたちは神の子として星のように輝き、いのちの言葉をしっかりと保ちます。ここで大切なのは、命令形や勧告ではなくて、直接法、事実としてそうだと断言されています。主イエスが、「あなたがたは世の光である」と断言なさったように。

2018年9月23日「救いの達成に努めよ」(フィリピの信徒への手紙2章12.13節)

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 今日の聖書箇所は、「だから」ではじまっています。唐突に違う話になったのではなく、主イエスのへりくだりと高挙とを述べて、それを受けて、今日の勧めです。しかしまた、「わたしの愛する人たち」と呼びかけていますので、新しい勧めでもあります。12節。二つのことが勧められています。従順であることと、救いの達成に努めることです。まず一つ目の従順には、誰・何に対する従順であるかが書かれていません。一つには、神に対する従順であり、今一つには(パウロの伝えた)教えに対する従順です。更に、「お互いに」対する従順を指摘する方もいます。
 次に、救いの達成に努めることが勧められています。これは、「恐れおののきつつ」です。これはどういう意味でしょう。神の前に、ということです。私達は、11節までに語られたような主イエスの事実によって、救いを約束されています。しかしそれは、「ありのままの自分では救われないはずの自分が、しかし神の恵みによって救いに入れられている」ことです。この大きな恵みにあって、私達は、恐怖ということではなく畏敬という意味で、恐れおののかないわけにはいきません。もしも恐れおののきがないとしたら、それは神の救いの恵みを軽く見ていることです。さらに「自分の」は実は複数形なので、「自分たちの」という意味です。「自分一人の」ではなくて、信仰共同体としての教会全体がここでは考えられています。また、救いの達成に努めるといっても、決して神人協同説が主張されているのではありません。次の13節から明らかです。13節。私達の内に意志を生むのも、実際に行わせるのも全て神であられます。だから、私達の中からそういう救いの達成への努力が生まれるのではなく、全て神の恵みです。私達は、この神の恵みの大きさの前で、この神の恵みの大きさをわきまえて生きる、そこにこそ、パウロの求めるキリスト者の生き方が形作られます。

2018年9月16日「キリストの名」(フィリピの信徒への手紙2章6~11節②)

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 前回と同じ聖書箇所です。前回は主に8節まで、主イエスご自身のへりくだりをみました。この主のへりくだりこそ、私達の大切な模範です。勿論、前回申し上げましたように、私達が主イエスと全く同じことをすることなど、不可能です。ただ、私達は主イエスのなさったことに思いを馳せ、深く思い巡らす中で、少しでも主イエスのなさりように近づこうとすることができるだけです。それが可能なのは、主イエスの出来事があるからです。主イエスは、十字架の死に至るまで、従順であられました。そうして、私達全ての者の罪を裁き、私達を赦し贖って下さいました。だから、私達は主イエスに似た者になろうとして生きることができます。
 その主イエスはただ、十字架の死へ至るまでへりくだりました。しかし神は主イエスをそのまま死の中に置き去りにはなさいませんでした。天にまで挙げられました。これを高挙と言います。多くの方が指摘なさるのは、8節までのへりくだりの主語・主体はイエス・キリストであるのに対して、9節からの高挙の主語・主体は神であることです。9節。キリストご自身が自分で高く上がられたのではない、神がへりくだる主イエスを高く挙げられました。そしてあらゆる名にまさる名をお与えになりました。これには、三つの意味があります。まず第一に、主イエスが(たとえそれが全ての人に分かるのは終末を待たなければならないとしても)、全てのものの上に立つ主であることです。そして第二に、それゆえ、どんな「主」を自称するものも、真実には「主」ではないということです。この世界には、「主」であろうとする多くのものが蠢いています。しかし全て偽物であって、私達は真実の主を知るがゆえに、偽物を偽物と見抜きます。そして第三に、主イエスのへりくだりがどれほど父なる神にとって意義深い大切なものであるかを示すことです。10・11節。このことが誰にでも明らかになるのは、終末を待たなければなりません。しかし既に私達教会は、この終末的出来事を今、生き始めています。キリストの名において神をたたえましょう。

2018年9月9日「十字架の死に至るまで」(フィリピの信徒への手紙2章6~11節)

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 前回、パウロは、見せ掛けではない真実のへりくだりを勧めました。そしてその根拠がキリストにもこのへりくだりがあるのだということです。5節。今日の箇所でパウロは、そのことを更に丁寧に述べます。今日の箇所でパウロが語ろうとしていることは、主に二つあります。一つは、キリストのへりくだりに眼差しを向けさせることです。そしていま一つは、私達がそのようにへりくだることのできる根拠・理由である、主イエスの出来事です。ここには、受肉と高挙の両方が語られています。今日は、8節まで、受肉・主イエスのへりくだりの部分をみます。次回9節からの高挙をみましょう。
 6・7節前半。神であられることに固執しないで、私達と全く同じように弱さや苦しみを負われました。(罪は犯さなかったけれども)私達と同じように様々な誘惑に遭い、苦しみました。7節後半・8節。実はこの箇所は、当時のよく知られた讃美歌か告白文を用いて書いていると思われます(この箇所については様々な面倒な議論がありますが、この点ではおおむね一致しています)。しかしパウロの文章で特徴的なのは、「それも十字架の死に至るまで」が書き加えられていることです。告白文であれ讃美歌であれ、普通は韻をふむのですが、この言葉だけ、韻を壊しています。つまりパウロは、どうしても十字架のことを(単に「死」ではなくて)述べたかったのです。
 さて、このキリストに倣う時に、私達はどのようであるのでしょうか。キリストと全く同じに自分のせいではなくて、他者のために死ぬことなど、私達にはできません。たとえできたとしても、私達はキリストと異なり罪人ですから、やはり自分のせいに過ぎません。キリストと同じことは、私達にはできません。しかしキリストの十字架、十字架の死を一心に見つめるときに、私達は真実のへりくだりを生き始めるのではないでしょうか。

2018年9月2日「真実のへりくだり」(フィリピの信徒への手紙2章3~5節)

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 前回の中心は、思いを一つにすることでした。一つの目当てに集中することで、それぞれが異なるとしても一致できます。そしてそのために必要なことは、「へりくだり」です。へりくだりには、見せ掛けのへりくだりと真実のへりくだりがあります。見せ掛けのへりくだりとは、態度だけで中身のないものです。実際には、自分は優秀だ、たいしたものだと思いながら、謙遜な態度が高く評価されることから(ギリシャにはそういう言葉の使い方はないそうです)、そういう態度だけをしてみせます。ここでパウロが勧めている「真実のへりくだり」は、そのようなものとは全く異なります。3節。最初の二つは、否定的な言葉で、後の二つは積極的なものです。利己心や虚栄心は、神のおられない所(もしくはまるで神なきがごとくに思う所)にある心です。逆に、真実のへりくだりは、神の恵みの事実(十字架と復活において示された)に立つ時に、当然起こってくるものです。「わたしは」、神の前に自分の力でそもそも立つことができるでしょうか。ただ、神が十字架においてわたしの罪を赦して下さったゆえに、私達は立つことができます。神の恵みを真剣に受け止めるならば、「真実のへりくだり(決して見せ掛けではない)」に生きる他ありません。そしてそれは、「相手を自分よりも優れた者と考え」ることになります。優秀な方ほど、これは難しいことであるかもしれません。しかし人間全てに点数をつけて序列化する発想でなければ、誰でも神から与えられた特別な賜物があること、そしてその賜物に目を止める時に、自分よりも優れた者と考えることができます。4節。ここでは特に賜物のことが考えられているといってよいでしょう。そしてこの真実のへりくだりは、決して私達の中から出てくるものではありません。ただキリストを模範として学ぶものです。5節。キリスト・イエスにもみられる。 6節からそれを具体的に見ていくことになります。私達は、信仰のゆえに真実のへりくだりを生き、それだから、思いを一つにしましょう。