これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2018年11月4日「あまりのすばらしさに」(フィリピの信徒への手紙3章4~9節)

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 前回から新しい単元に入りました。「犬ども」に警戒すべきことが述べられていました。彼らユダヤ人キリスト者(の中でも偏狭な人々)は、割礼や律法を大事にして、「キリストのみ」でなくなっています。キリスト以外に救いに何か必要だというのは、肉に頼る生き方であって、福音を台無しにしてしまいます。
 今日の箇所では、パウロもまた、頼ろうと思えば頼ることのできる肉の事柄があるければも、あえて頼らないのだという論述です。ここから、肉に頼るということでパウロが何を言おうしているのか、鮮明に分かります。4~6節。「まずユダヤ人にならなければならない(割礼を受けるとか律法を守るとか)」と主張していたユダヤ人キリスト者が、誇っていた・頼っていたのは、こういう事柄です。パウロは、彼ら以上にそういうものはもっていました。
 しかし全てが逆転します。7~8節前半と中(見なしています、まで)。かつてであれば、肉として頼り得たもの、自分にとって有利であったことを、パウロは、損失とみなします。「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに」、一切を損失とみています。ここには、肉にたよって手に入れようとして実際には手に入らない自分の義、律法から生じる自分の義ではなくて、信仰に基づいて神から与えられる義があります(9節)。このようにキリストを知ることの「あまりのすばらしさ」を私達は常に感じ、このすばらしさに生きているでありましょうか。日常の様々な困難や苦難を超越したすばらしさを生きているでしょうか。肉に頼ることと、このすばらしさを生きることは真逆のことです。「自分はまだ肉にたよっている部分があるな」と感じる方は、肉に頼らない努力よりも、この「すばらしさ」をもっともっと深く広く豊かに味わっていきましょう。

2018年10月28日「肉に頼らない生き方」(フィリピの信徒への手紙3章1~3節)

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 前回までに、テモテとエパフロディトを送る計画が述べられていました。今日から、「犬ども」に気をつける、警戒すべきことが述べられます。その最初にパウロが述べるのは、やはり喜びの勧めです。1節前半。この箇所は、前回の締めくくりの言葉であって、前回に繋げて読むべきであるという方々もおられます。1節後半の「同じこと」も喜びの勧めではなくて、警戒のことで、パウロのこの部分の手紙よりも前にも手紙が書かれていて、警戒のことがまた繰り返されていると読みます。どちらの読み方も可能でしょう。ただここで、2節。「あの犬ども、よこしまな働き手、切り傷にすぎない割礼を持つ者たち」が誰なのか考えておきます。1章で語られていた、「ねたみと争いの念にかられて(15節)」の人々、「不純な動機からキリストを告げ知らせている(17節)」人々のことではないでしょう。むしろ、キリストの福音だけでは不十分で、割礼を受けてユダヤ人としても模範的でなければならないとする、ユダヤ人キリスト者のことです。パウロがペトロをアンティオキアで非難した(ガラテヤ2章11~14節)時のことが思い起こされます。問題の焦点は、福音のみ、信仰のみ、なのか、それとも他に何か救いに必要なものがあると思うのか、という点です。3節前半。肉体の割礼(切り傷)があるかどうかが問題ではなくて、もはや主イエスがおられる以上、この方において救いはあるのだという信仰を生きるかどうかが肝心です。そこに真の割礼があります。ユダヤ人はユダヤ人のままで、異邦人は異邦人のままで救われる、大切なのはキリストの十字架と復活だけなのだということです(尤もパウロはとても柔軟で、テモテを伝道に連れて行く時には、割礼を受けさせています、使徒言行録16章)。3節後半。この三つのことは、一つのことの三つの側面と言えるでしょう。私達も「肉」に頼らない生き方をしましょう。

2018年10月21日「キリストの業に命をかけて」(フィリピの信徒への手紙2章25~30節)

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 前回はテモテを送る計画でした。しかしすぐにテモテを送るわけにはいきません。まずエパフロデトを送ります。そのことについて今日の箇所には書かれており、恐らくエパフロデトがこの手紙をフィリピの教会に届けたのでしょう。25・26節。「帰す」は、「送る」という言葉ですが、文脈上、こう訳したのでしょう。まずパウロは、エパフロデトを高く評価します。自分の「兄弟、協力者、戦友」であると。兄弟は、信仰を同じくする者ということで、キリスト教会一般で使われる言葉ではありますが、パウロはそれ以上の思いを込めて「兄弟」と述べています。更に、協力者は、同労者の意味で、監禁されているパウロに代わって、様々な宣教の業を担ってくれていたことを示します。「戦友」というのは、福音の前進のために共に戦ったということです。具体的には、エパフロデトがフィリピの教会から、パウロの窮乏を助ける(監禁されている時には、最小限の食料しか与えられなかったそうですが、外部からの差し入れは割合に自由だったそうです)ために送られてきて奉仕者となってくれていたことを指します。しかしこのエパフロデトが、今はフィリピの教会の人々にしきりに会いたがっており、彼が病気のために(何の病気かは何も書かれていませんが)心苦しく思っています。自分がパウロの助け手として派遣されたにも関わらず、病気のために働けなくなってしまったことを心苦しく思っています。そして、病気によって弱くなっている心でフィリピの教会の人々に会いたくなっているし、また奉仕できなくなってしまったことを直接謝りたいのでしょう。27節。パウロは病が癒されたことを神の憐れみと捉えます。28~30節。マルコと呼ばれるヨハネのゆえに、バルナバと決別した(使徒言行録15章36節~)時のパウロとはずいぶん違います。「キリストの業に命をかけ」とは、何も殉教を指すこと(だいそれたこと)ではなくて、パウロを通じて神に仕えたことです。日常の普通の奉仕において、私達が「命懸け」であるかどうかが問われています。

2018年10月14日「テモテを送る計画」(フィリピの信徒への手紙2章19~24節)

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 今日の聖書箇所は、「事務連絡」という表題を付ける方もおられる位、単にテモテを送る計画が書かれているだけです。しかしそれでもなお、この計画自体が、パウロの差し迫った状況を思うと、彼の希望やフィリピの教会の人々への愛が溢れるものとなっています。この箇所の冒頭の言葉は(日本語の翻訳では)「希望しています」です。これは手紙の文末によくパウロが用いる言葉なので、この手紙が幾つかの手紙が編集されて出来上がったものだという根拠の一つになっています。パウロは、テモテを送ることをもう決まったこととしてではなくて、希望・願いとして述べています。パウロは獄中にあります。まだ死刑で殺されるのか、釈放されるのか、分かりません。もしも死刑(前回の17節で、その覚悟が述べられていたように)であれば、テモテには傍にいてほしい。だから、(釈放の)見通しがたったら、すぐにテモテを送る計画を実行しようということでしょう。23節。そしてパウロは、自分の釈放、更にはフィリピの教会への訪問も確信していると述べます。24節。殉教を覚悟しつつも、フィリピの教会の人々のことを思って主が自分を遣わすだろうという確信があります(1章24・25節参照)。
 最初の「力づけられたい」も、利己的な思いではありません。19節。パウロが、フィリピの教会の人々と心が繋がっていて、彼らの労苦を知ることで自分が励まされることがよく分かっています。その背景にあるのは、フィリピの教会の人々もまた、テモテから獄中のパウロの様子を聞くことで励まされるという確信があります。20~22節は、なぜ(送るのが)テモテなのか、テモテがどれほど信頼に値する人物であるかを述べています。こんなに大切なテモテを送ろうとするほど、パウロはフィリピの教会の人々のことを想っています。現代の日本は、(直接の)迫害からはまだ遠いかもしれません。しかし私達幕張教会もこのような信仰にある堅い交わりを生きましょう。

2018年10月7日「わたしの血が注がれるとしても」(フィリピの信徒への手紙2章16前半~18節)

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 この手紙は、今まで繰り返し述べてまいりましたように、獄中書簡であり、また喜びの手紙です。そのことが今日の箇所では如実に表れています。17・18節です。でもその前に、16節後半をみてみましょう。フィリピの教会の人々が、命の言葉をしっかりと保って星のように輝くならば、パウロはキリストの再臨の日に誇る(喜ぶ)ことができます。伝道者、パウロにとっては、教会の人々の救いこそ、自分の誇り・喜び・救いです。この箇所をパウロのエゴと読むことはできません。なぜならば、パウロは、もはや自分が働くのではない、私の内にキリストが働くのだ、全ては神がなさることだと分かっています(例えば、直前の13節。1章6節。また、一コリント15章10節など)。パウロが誇るのは、決して自分個人の成果ではありません。神の恵みの出来事です。皆さんは、自分の人生を「無駄ではない」と誇ることができるでしょうか。できます。なぜならば、皆さんもまた、この救いに入れられているからです。私達の労苦は無駄にならないからです(一コリント15章58節)。だからこそ、パウロは自分の殉教(の可能性)にあってなお、喜ぶし、喜ぶことを勧めます。17・18節。私達伝道者は、皆、この点でパウロと同じです。更に、信仰を同じくする皆さんも、死を超えた喜びに生きることができます。このことは、理屈では簡単な・単純なことです。しかし私達は、単なる罪赦された罪人にすぎませんから、なかなかそうはいきません。同労者の死は、やはり、大きな悲しみと喪失感があることでしょう。だからこそ、パウロは、丁寧に、「わたしと一緒に喜びなさい」と勧めます。私達もまた、聖霊によって、「血が注がれるとしても」喜ぶことのできる喜び・信仰を身に着けましょう。

2018年9月30日「不平や理屈を言わずに」(フィリピの信徒への手紙2章14~16節前半)

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 今日の聖書箇所は、以前の口語訳聖書ではこうなっていました…。大きな違いは二つあります。一つは、「命の言葉をしっかり保つでしょう」が、「いのちの言葉を堅く持って」であり、15節に組み込まれていることです。翻訳としては、(章・節の区切りから言えば)今回の新共同訳聖書の方が正しいのですが、口語訳のように訳すことも可能です。いま一つは、最初の「不平や理屈を言わずに」が「つぶやかず疑わないで」であったことです。ここも、「理屈」(疑わないで)と訳された言葉は、もともとマイナスイメージのある言葉ではないので、実に見事な翻訳であると思います。まず最初に、「不平を言わないで・つぶやかず」をみましょう。私達の社会には、何と不平・つぶやきが多いことでしょうか。つぶやきによるカタルシスを考えれば一概に否定もできません。しかし何よりも問題なのは、不平・つぶやきの根っこにあるのが、神への信頼・従順の真逆のものだということです。なぜ自分に不平・つぶやきが起こるのかをよく考えてみて下さい。そこには、自分の思い通りにならない現実に対するいらだちの思いがあるのではないでしょうか。「御心のままに」にはほど遠い、「私の思いのままに」があります。神の恵みの大きさ・深さに対する感謝ではなくて、不満があります。「理屈を言わないで・疑わないで」も同じです。私達はいつも、自分を正当化する理屈をうみだし、神の真実を疑います。その根底にもやはり、神信頼の欠如があって、本当の問題は私達に降りかかる様々な現実ではなくて(それもまた確かに問題なのですが)、私達の神信仰のあり方が問題です。
 そういうところから、信仰・聖霊によって抜け出して、まっすぐに神への信頼と感謝に生きるとき、わたしたちは神の子として星のように輝き、いのちの言葉をしっかりと保ちます。ここで大切なのは、命令形や勧告ではなくて、直接法、事実としてそうだと断言されています。主イエスが、「あなたがたは世の光である」と断言なさったように。

2018年9月23日「救いの達成に努めよ」(フィリピの信徒への手紙2章12.13節)

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 今日の聖書箇所は、「だから」ではじまっています。唐突に違う話になったのではなく、主イエスのへりくだりと高挙とを述べて、それを受けて、今日の勧めです。しかしまた、「わたしの愛する人たち」と呼びかけていますので、新しい勧めでもあります。12節。二つのことが勧められています。従順であることと、救いの達成に努めることです。まず一つ目の従順には、誰・何に対する従順であるかが書かれていません。一つには、神に対する従順であり、今一つには(パウロの伝えた)教えに対する従順です。更に、「お互いに」対する従順を指摘する方もいます。
 次に、救いの達成に努めることが勧められています。これは、「恐れおののきつつ」です。これはどういう意味でしょう。神の前に、ということです。私達は、11節までに語られたような主イエスの事実によって、救いを約束されています。しかしそれは、「ありのままの自分では救われないはずの自分が、しかし神の恵みによって救いに入れられている」ことです。この大きな恵みにあって、私達は、恐怖ということではなく畏敬という意味で、恐れおののかないわけにはいきません。もしも恐れおののきがないとしたら、それは神の救いの恵みを軽く見ていることです。さらに「自分の」は実は複数形なので、「自分たちの」という意味です。「自分一人の」ではなくて、信仰共同体としての教会全体がここでは考えられています。また、救いの達成に努めるといっても、決して神人協同説が主張されているのではありません。次の13節から明らかです。13節。私達の内に意志を生むのも、実際に行わせるのも全て神であられます。だから、私達の中からそういう救いの達成への努力が生まれるのではなく、全て神の恵みです。私達は、この神の恵みの大きさの前で、この神の恵みの大きさをわきまえて生きる、そこにこそ、パウロの求めるキリスト者の生き方が形作られます。