これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2018年11月18日「キリストに捕らえられて」(フィリピの信徒への手紙3章12~16節)

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 前回申し上げましたように、パウロが戦う相手は、ユダヤ人キリスト者です。彼らは、律法遵守や割礼を大切なこととして教えておりました。更に、自分たちは既に完成しているという主張が、彼らの特徴です。それに対して、パウロや私達は、「既に」と「未だ」の間にあって生きます。「既に」キリストを(更には私達を)復活させる神の力を知っているけれども、「未だ」復活には達していない、終末の完成の時を目指して生きます。だからパウロは、11節。
 そのことを更に丁寧にパウロは論じていきます。12節。パウロは、敵対者たちのように「自分は既に完成している」などとうぬぼれません。むしろ捕らえようとして努めています。その根拠が、「キリスト・イエスに捕らえられている」ことです。パウロ自身は、ダマスコにキリスト者を迫害しようとして向かう途中でキリストと出会って回心します。そのときのことを「キリストに捕らえられ」たと述べます。洗礼を受けた方々、キリスト者として生きておられる皆さんにお話をうかがいますと、多くの方がこの「キリストに捕らえられ」たという自覚をもっておられます。私達が先なのではなくて、神・キリストが先に私達を捕らえて下さったから、私達もまた捕らえようと努めます。「既に」キリストに捕らえられている私達が、「未だ」来てはいない終末、私達の救いの完成を目指して努める、これが信仰の姿勢です。神が私達を愛して下さったから、私達は神と隣人とを愛することができます(ヨハネの第一の手紙4章10節)。そのような私達の歩みは、不完全で不十分なものでしょう。それでよいのです。神がキリストがわたしを捕らえて下さっているという事実が先にあります。この確かな「既に」があるので私達は、(自分自身の不完全さに辟易しつつも)確信をもって、「未だ」の将来へ向けて今を生きます。

2018年11月11日「復活の力を知って」(フィリピの信徒への手紙3章8~11節)

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 今日は召天者記念礼拝です。私達は現在フィリピの信徒への手紙を講解で読んでいます。丁度今日の聖書箇所は復活が出てきますので、特別な聖書箇所を選ぶのではなくて、講解説教を続けます。ただ、前回は9節まででしたが、最後の二節だけでは分かりにくいので、8節から読みました。3章からのパウロの論議は、律法遵守や割礼を大切だと主張するユダヤ人キリスト者に対抗するものです。彼らの特徴の一つは、自分たちはもはや完全な知識をもっていて、完成しているという主張です。パウロが復活について一番詳しく書いているのはコリントの信徒への手紙の最後の方ですが、今日の箇所は、福音を無にする(キリスト以前に律法遵守と割礼が必要なのだとする)ユダヤ人キリスト者との対決を通して、復活についてのパウロの意見がよく出ています。
 前回パウロは、主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、すべての価値が逆転することを語りました。そこではもはや、自分が努力して到達する「義」ではなくて、ただ信仰において与えられる義があります(8・9節)。パウロは、自分はキリストを既に知っていると語りますが、同時に完成はまだなのだと語ります。既に十字架と復活の恵みを知ることと、完成は未だしてはいないのだ、この「既に」と「未だ」の間にこそ、私達の信仰の特徴があります。敵対者たちのように「既に完成している」というのは偽りです。パウロの「知ることのすばらしさ」は、更に「キリストとその復活の力」を知ることのすばらしさです。10節は現在のこと、11節は将来の希望です。10節。復活は主イエスが自分の力で復活なさったのではなくて、神が主イエスを復活させました。だから復活の力とは、神の力です。この力を知るとき、私達は苦しみを耐えることができます。それどころか、この苦しみにおいて主イエスの十字架の死の姿にあやかり、より深く十字架と復活の信仰を生きる者とされます。私達の完成・救い・復活は、まだです。11節。ただ神の約束して下さる復活を目当てに今を真剣に生きます。

2018年11月4日「あまりのすばらしさに」(フィリピの信徒への手紙3章4~9節)

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 前回から新しい単元に入りました。「犬ども」に警戒すべきことが述べられていました。彼らユダヤ人キリスト者(の中でも偏狭な人々)は、割礼や律法を大事にして、「キリストのみ」でなくなっています。キリスト以外に救いに何か必要だというのは、肉に頼る生き方であって、福音を台無しにしてしまいます。
 今日の箇所では、パウロもまた、頼ろうと思えば頼ることのできる肉の事柄があるければも、あえて頼らないのだという論述です。ここから、肉に頼るということでパウロが何を言おうしているのか、鮮明に分かります。4~6節。「まずユダヤ人にならなければならない(割礼を受けるとか律法を守るとか)」と主張していたユダヤ人キリスト者が、誇っていた・頼っていたのは、こういう事柄です。パウロは、彼ら以上にそういうものはもっていました。
 しかし全てが逆転します。7~8節前半と中(見なしています、まで)。かつてであれば、肉として頼り得たもの、自分にとって有利であったことを、パウロは、損失とみなします。「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに」、一切を損失とみています。ここには、肉にたよって手に入れようとして実際には手に入らない自分の義、律法から生じる自分の義ではなくて、信仰に基づいて神から与えられる義があります(9節)。このようにキリストを知ることの「あまりのすばらしさ」を私達は常に感じ、このすばらしさに生きているでありましょうか。日常の様々な困難や苦難を超越したすばらしさを生きているでしょうか。肉に頼ることと、このすばらしさを生きることは真逆のことです。「自分はまだ肉にたよっている部分があるな」と感じる方は、肉に頼らない努力よりも、この「すばらしさ」をもっともっと深く広く豊かに味わっていきましょう。

2018年10月28日「肉に頼らない生き方」(フィリピの信徒への手紙3章1~3節)

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 前回までに、テモテとエパフロディトを送る計画が述べられていました。今日から、「犬ども」に気をつける、警戒すべきことが述べられます。その最初にパウロが述べるのは、やはり喜びの勧めです。1節前半。この箇所は、前回の締めくくりの言葉であって、前回に繋げて読むべきであるという方々もおられます。1節後半の「同じこと」も喜びの勧めではなくて、警戒のことで、パウロのこの部分の手紙よりも前にも手紙が書かれていて、警戒のことがまた繰り返されていると読みます。どちらの読み方も可能でしょう。ただここで、2節。「あの犬ども、よこしまな働き手、切り傷にすぎない割礼を持つ者たち」が誰なのか考えておきます。1章で語られていた、「ねたみと争いの念にかられて(15節)」の人々、「不純な動機からキリストを告げ知らせている(17節)」人々のことではないでしょう。むしろ、キリストの福音だけでは不十分で、割礼を受けてユダヤ人としても模範的でなければならないとする、ユダヤ人キリスト者のことです。パウロがペトロをアンティオキアで非難した(ガラテヤ2章11~14節)時のことが思い起こされます。問題の焦点は、福音のみ、信仰のみ、なのか、それとも他に何か救いに必要なものがあると思うのか、という点です。3節前半。肉体の割礼(切り傷)があるかどうかが問題ではなくて、もはや主イエスがおられる以上、この方において救いはあるのだという信仰を生きるかどうかが肝心です。そこに真の割礼があります。ユダヤ人はユダヤ人のままで、異邦人は異邦人のままで救われる、大切なのはキリストの十字架と復活だけなのだということです(尤もパウロはとても柔軟で、テモテを伝道に連れて行く時には、割礼を受けさせています、使徒言行録16章)。3節後半。この三つのことは、一つのことの三つの側面と言えるでしょう。私達も「肉」に頼らない生き方をしましょう。

2018年10月21日「キリストの業に命をかけて」(フィリピの信徒への手紙2章25~30節)

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 前回はテモテを送る計画でした。しかしすぐにテモテを送るわけにはいきません。まずエパフロデトを送ります。そのことについて今日の箇所には書かれており、恐らくエパフロデトがこの手紙をフィリピの教会に届けたのでしょう。25・26節。「帰す」は、「送る」という言葉ですが、文脈上、こう訳したのでしょう。まずパウロは、エパフロデトを高く評価します。自分の「兄弟、協力者、戦友」であると。兄弟は、信仰を同じくする者ということで、キリスト教会一般で使われる言葉ではありますが、パウロはそれ以上の思いを込めて「兄弟」と述べています。更に、協力者は、同労者の意味で、監禁されているパウロに代わって、様々な宣教の業を担ってくれていたことを示します。「戦友」というのは、福音の前進のために共に戦ったということです。具体的には、エパフロデトがフィリピの教会から、パウロの窮乏を助ける(監禁されている時には、最小限の食料しか与えられなかったそうですが、外部からの差し入れは割合に自由だったそうです)ために送られてきて奉仕者となってくれていたことを指します。しかしこのエパフロデトが、今はフィリピの教会の人々にしきりに会いたがっており、彼が病気のために(何の病気かは何も書かれていませんが)心苦しく思っています。自分がパウロの助け手として派遣されたにも関わらず、病気のために働けなくなってしまったことを心苦しく思っています。そして、病気によって弱くなっている心でフィリピの教会の人々に会いたくなっているし、また奉仕できなくなってしまったことを直接謝りたいのでしょう。27節。パウロは病が癒されたことを神の憐れみと捉えます。28~30節。マルコと呼ばれるヨハネのゆえに、バルナバと決別した(使徒言行録15章36節~)時のパウロとはずいぶん違います。「キリストの業に命をかけ」とは、何も殉教を指すこと(だいそれたこと)ではなくて、パウロを通じて神に仕えたことです。日常の普通の奉仕において、私達が「命懸け」であるかどうかが問われています。

2018年10月14日「テモテを送る計画」(フィリピの信徒への手紙2章19~24節)

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 今日の聖書箇所は、「事務連絡」という表題を付ける方もおられる位、単にテモテを送る計画が書かれているだけです。しかしそれでもなお、この計画自体が、パウロの差し迫った状況を思うと、彼の希望やフィリピの教会の人々への愛が溢れるものとなっています。この箇所の冒頭の言葉は(日本語の翻訳では)「希望しています」です。これは手紙の文末によくパウロが用いる言葉なので、この手紙が幾つかの手紙が編集されて出来上がったものだという根拠の一つになっています。パウロは、テモテを送ることをもう決まったこととしてではなくて、希望・願いとして述べています。パウロは獄中にあります。まだ死刑で殺されるのか、釈放されるのか、分かりません。もしも死刑(前回の17節で、その覚悟が述べられていたように)であれば、テモテには傍にいてほしい。だから、(釈放の)見通しがたったら、すぐにテモテを送る計画を実行しようということでしょう。23節。そしてパウロは、自分の釈放、更にはフィリピの教会への訪問も確信していると述べます。24節。殉教を覚悟しつつも、フィリピの教会の人々のことを思って主が自分を遣わすだろうという確信があります(1章24・25節参照)。
 最初の「力づけられたい」も、利己的な思いではありません。19節。パウロが、フィリピの教会の人々と心が繋がっていて、彼らの労苦を知ることで自分が励まされることがよく分かっています。その背景にあるのは、フィリピの教会の人々もまた、テモテから獄中のパウロの様子を聞くことで励まされるという確信があります。20~22節は、なぜ(送るのが)テモテなのか、テモテがどれほど信頼に値する人物であるかを述べています。こんなに大切なテモテを送ろうとするほど、パウロはフィリピの教会の人々のことを想っています。現代の日本は、(直接の)迫害からはまだ遠いかもしれません。しかし私達幕張教会もこのような信仰にある堅い交わりを生きましょう。

2018年10月7日「わたしの血が注がれるとしても」(フィリピの信徒への手紙2章16前半~18節)

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 この手紙は、今まで繰り返し述べてまいりましたように、獄中書簡であり、また喜びの手紙です。そのことが今日の箇所では如実に表れています。17・18節です。でもその前に、16節後半をみてみましょう。フィリピの教会の人々が、命の言葉をしっかりと保って星のように輝くならば、パウロはキリストの再臨の日に誇る(喜ぶ)ことができます。伝道者、パウロにとっては、教会の人々の救いこそ、自分の誇り・喜び・救いです。この箇所をパウロのエゴと読むことはできません。なぜならば、パウロは、もはや自分が働くのではない、私の内にキリストが働くのだ、全ては神がなさることだと分かっています(例えば、直前の13節。1章6節。また、一コリント15章10節など)。パウロが誇るのは、決して自分個人の成果ではありません。神の恵みの出来事です。皆さんは、自分の人生を「無駄ではない」と誇ることができるでしょうか。できます。なぜならば、皆さんもまた、この救いに入れられているからです。私達の労苦は無駄にならないからです(一コリント15章58節)。だからこそ、パウロは自分の殉教(の可能性)にあってなお、喜ぶし、喜ぶことを勧めます。17・18節。私達伝道者は、皆、この点でパウロと同じです。更に、信仰を同じくする皆さんも、死を超えた喜びに生きることができます。このことは、理屈では簡単な・単純なことです。しかし私達は、単なる罪赦された罪人にすぎませんから、なかなかそうはいきません。同労者の死は、やはり、大きな悲しみと喪失感があることでしょう。だからこそ、パウロは、丁寧に、「わたしと一緒に喜びなさい」と勧めます。私達もまた、聖霊によって、「血が注がれるとしても」喜ぶことのできる喜び・信仰を身に着けましょう。