これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2018年12月2日「私に倣いなさい」(フィリピの信徒への手紙3章17節)

 今日の聖書箇所は、17節の一節だけです。この言葉はきちんと説明をしなければ、分かりにくい言葉であろうと思うからです。謙遜が美徳とされるこの日本社会で、随分と傲慢なことをパウロは言っていると、誤解されかねません。パウロは自信に溢れているのだなあという感想をもつことになりかねません。しかしパウロは、前回までの箇所で、自分は完全な者となっているのではないと言明しています。キリスト者は、終末の完成まで、「既に」と「未だ」の間を生きる、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、目標を目指してひたすら走る。そういうパウロだからこそ、「私に倣う者となりなさい」と勧めます。敵対者たちが「自分たちはもう完成している」と言い、その自分たちに倣う者となることで、あなたも完成した存在になれと勧めるのに対して、パウロは真逆です。自分はまだ完成してはいないけれども、目標を目指してひたすら走っている、あなたがたもそのようであって欲しい、というのです。そこで倣うべきパウロは、別の手紙でこう語ります、一テサロニケ1章6節。更に、一コリント11章1節。
 私達は、私達キリスト者の生きる姿として、「キリストに倣って」があることを知っています。しかしそれは、一歩間違うととても抽象的なことになってしまいます。だから、身近におられる信仰の先達方を通して、キリストに倣うことを学んでいきます。勿論、CSルイスが語ったような危険もあるでしょう。私達は罪赦された罪人にすぎないのですから。しかしそれでもなお、私達の信仰が生きて働く具体的なものであるためには、信仰の先達に倣うことが大切です。そしてまた、私達は、パウロと共に、「私に倣いなさい」と言える、自分の中から出てくる自信では決してなくて、ただキリストのゆえにそう述べることができる私達でありたいものです。

2018年11月25日「目標を目指して」(フィリピの信徒への手紙3章12~16節)

 前回は同じ聖書箇所で、12節の最後、「キリスト・イエスに捕らえられて」に集中しました。私達が、「既に」と「未だ」の間にあって生きることができるのは、「キリストに捕らえられ」たという「既に」があるからです。だから13・14節。「未だ」の目標を目指してひたすら走ります。ただパウロは自分の考えを押しつけようとはしません。15節前半なのだけれども、15節後半です。自分とは異なる別の考えがあったとしても、神様ご自身が明らかにしてくださるのだとパウロは、神に信頼します。ただパウロは、「後ろのものを忘れ(13節)」と述べました。これは、過去のことはどうでも良い、全て忘れてしまって、ということではありません。だから、16節。どういう歩みをしてきて、今自分の信仰がどうであるのか、その到達したところに基づいて、私達は進む、そこにしっかりと立つべきです。では、「後ろのものを忘れ」とは、何を忘れることでしょうか。それは、例えばパウロの場合には二つのことが考えられます。まず第一にキリスト者・教会を迫害していたような、ユダヤ人としては模範的な?歩みをしていた頃のことです。パウロがもはや、塵あくた、損失とみなしているものに、もはや固執しないことです。更にキリスト者にされてから、今日に至るまでの自分のしてきた伝道活動のことです。事実パウロは、もはや自分が生きるのではない、自分の内にキリストが生きるのだと述べます。また、自分がなしたのではない、聖霊によって神がしてくださったのだ、と語ります。これは私達がキリスト者として、自分自身の体験・実感としてよく分かることではないでしょうか。私達は、パウロの敵対者たちが主張するような「完全」とはほど遠い存在です。それどころか、未だに自分の過去の様々なことを「後ろのものを忘れ」きれない私達です。しかし前のものに全身を向けつつ、目標を目指して生きることは、誰にでもいつからでもできるのではないでしょうか。

2018年11月18日「キリストに捕らえられて」(フィリピの信徒への手紙3章12~16節)

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 前回申し上げましたように、パウロが戦う相手は、ユダヤ人キリスト者です。彼らは、律法遵守や割礼を大切なこととして教えておりました。更に、自分たちは既に完成しているという主張が、彼らの特徴です。それに対して、パウロや私達は、「既に」と「未だ」の間にあって生きます。「既に」キリストを(更には私達を)復活させる神の力を知っているけれども、「未だ」復活には達していない、終末の完成の時を目指して生きます。だからパウロは、11節。
 そのことを更に丁寧にパウロは論じていきます。12節。パウロは、敵対者たちのように「自分は既に完成している」などとうぬぼれません。むしろ捕らえようとして努めています。その根拠が、「キリスト・イエスに捕らえられている」ことです。パウロ自身は、ダマスコにキリスト者を迫害しようとして向かう途中でキリストと出会って回心します。そのときのことを「キリストに捕らえられ」たと述べます。洗礼を受けた方々、キリスト者として生きておられる皆さんにお話をうかがいますと、多くの方がこの「キリストに捕らえられ」たという自覚をもっておられます。私達が先なのではなくて、神・キリストが先に私達を捕らえて下さったから、私達もまた捕らえようと努めます。「既に」キリストに捕らえられている私達が、「未だ」来てはいない終末、私達の救いの完成を目指して努める、これが信仰の姿勢です。神が私達を愛して下さったから、私達は神と隣人とを愛することができます(ヨハネの第一の手紙4章10節)。そのような私達の歩みは、不完全で不十分なものでしょう。それでよいのです。神がキリストがわたしを捕らえて下さっているという事実が先にあります。この確かな「既に」があるので私達は、(自分自身の不完全さに辟易しつつも)確信をもって、「未だ」の将来へ向けて今を生きます。

2018年11月11日「復活の力を知って」(フィリピの信徒への手紙3章8~11節)

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 今日は召天者記念礼拝です。私達は現在フィリピの信徒への手紙を講解で読んでいます。丁度今日の聖書箇所は復活が出てきますので、特別な聖書箇所を選ぶのではなくて、講解説教を続けます。ただ、前回は9節まででしたが、最後の二節だけでは分かりにくいので、8節から読みました。3章からのパウロの論議は、律法遵守や割礼を大切だと主張するユダヤ人キリスト者に対抗するものです。彼らの特徴の一つは、自分たちはもはや完全な知識をもっていて、完成しているという主張です。パウロが復活について一番詳しく書いているのはコリントの信徒への手紙の最後の方ですが、今日の箇所は、福音を無にする(キリスト以前に律法遵守と割礼が必要なのだとする)ユダヤ人キリスト者との対決を通して、復活についてのパウロの意見がよく出ています。
 前回パウロは、主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、すべての価値が逆転することを語りました。そこではもはや、自分が努力して到達する「義」ではなくて、ただ信仰において与えられる義があります(8・9節)。パウロは、自分はキリストを既に知っていると語りますが、同時に完成はまだなのだと語ります。既に十字架と復活の恵みを知ることと、完成は未だしてはいないのだ、この「既に」と「未だ」の間にこそ、私達の信仰の特徴があります。敵対者たちのように「既に完成している」というのは偽りです。パウロの「知ることのすばらしさ」は、更に「キリストとその復活の力」を知ることのすばらしさです。10節は現在のこと、11節は将来の希望です。10節。復活は主イエスが自分の力で復活なさったのではなくて、神が主イエスを復活させました。だから復活の力とは、神の力です。この力を知るとき、私達は苦しみを耐えることができます。それどころか、この苦しみにおいて主イエスの十字架の死の姿にあやかり、より深く十字架と復活の信仰を生きる者とされます。私達の完成・救い・復活は、まだです。11節。ただ神の約束して下さる復活を目当てに今を真剣に生きます。

2018年11月4日「あまりのすばらしさに」(フィリピの信徒への手紙3章4~9節)

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 前回から新しい単元に入りました。「犬ども」に警戒すべきことが述べられていました。彼らユダヤ人キリスト者(の中でも偏狭な人々)は、割礼や律法を大事にして、「キリストのみ」でなくなっています。キリスト以外に救いに何か必要だというのは、肉に頼る生き方であって、福音を台無しにしてしまいます。
 今日の箇所では、パウロもまた、頼ろうと思えば頼ることのできる肉の事柄があるければも、あえて頼らないのだという論述です。ここから、肉に頼るということでパウロが何を言おうしているのか、鮮明に分かります。4~6節。「まずユダヤ人にならなければならない(割礼を受けるとか律法を守るとか)」と主張していたユダヤ人キリスト者が、誇っていた・頼っていたのは、こういう事柄です。パウロは、彼ら以上にそういうものはもっていました。
 しかし全てが逆転します。7~8節前半と中(見なしています、まで)。かつてであれば、肉として頼り得たもの、自分にとって有利であったことを、パウロは、損失とみなします。「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに」、一切を損失とみています。ここには、肉にたよって手に入れようとして実際には手に入らない自分の義、律法から生じる自分の義ではなくて、信仰に基づいて神から与えられる義があります(9節)。このようにキリストを知ることの「あまりのすばらしさ」を私達は常に感じ、このすばらしさに生きているでありましょうか。日常の様々な困難や苦難を超越したすばらしさを生きているでしょうか。肉に頼ることと、このすばらしさを生きることは真逆のことです。「自分はまだ肉にたよっている部分があるな」と感じる方は、肉に頼らない努力よりも、この「すばらしさ」をもっともっと深く広く豊かに味わっていきましょう。

2018年10月28日「肉に頼らない生き方」(フィリピの信徒への手紙3章1~3節)

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 前回までに、テモテとエパフロディトを送る計画が述べられていました。今日から、「犬ども」に気をつける、警戒すべきことが述べられます。その最初にパウロが述べるのは、やはり喜びの勧めです。1節前半。この箇所は、前回の締めくくりの言葉であって、前回に繋げて読むべきであるという方々もおられます。1節後半の「同じこと」も喜びの勧めではなくて、警戒のことで、パウロのこの部分の手紙よりも前にも手紙が書かれていて、警戒のことがまた繰り返されていると読みます。どちらの読み方も可能でしょう。ただここで、2節。「あの犬ども、よこしまな働き手、切り傷にすぎない割礼を持つ者たち」が誰なのか考えておきます。1章で語られていた、「ねたみと争いの念にかられて(15節)」の人々、「不純な動機からキリストを告げ知らせている(17節)」人々のことではないでしょう。むしろ、キリストの福音だけでは不十分で、割礼を受けてユダヤ人としても模範的でなければならないとする、ユダヤ人キリスト者のことです。パウロがペトロをアンティオキアで非難した(ガラテヤ2章11~14節)時のことが思い起こされます。問題の焦点は、福音のみ、信仰のみ、なのか、それとも他に何か救いに必要なものがあると思うのか、という点です。3節前半。肉体の割礼(切り傷)があるかどうかが問題ではなくて、もはや主イエスがおられる以上、この方において救いはあるのだという信仰を生きるかどうかが肝心です。そこに真の割礼があります。ユダヤ人はユダヤ人のままで、異邦人は異邦人のままで救われる、大切なのはキリストの十字架と復活だけなのだということです(尤もパウロはとても柔軟で、テモテを伝道に連れて行く時には、割礼を受けさせています、使徒言行録16章)。3節後半。この三つのことは、一つのことの三つの側面と言えるでしょう。私達も「肉」に頼らない生き方をしましょう。

2018年10月21日「キリストの業に命をかけて」(フィリピの信徒への手紙2章25~30節)

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 前回はテモテを送る計画でした。しかしすぐにテモテを送るわけにはいきません。まずエパフロデトを送ります。そのことについて今日の箇所には書かれており、恐らくエパフロデトがこの手紙をフィリピの教会に届けたのでしょう。25・26節。「帰す」は、「送る」という言葉ですが、文脈上、こう訳したのでしょう。まずパウロは、エパフロデトを高く評価します。自分の「兄弟、協力者、戦友」であると。兄弟は、信仰を同じくする者ということで、キリスト教会一般で使われる言葉ではありますが、パウロはそれ以上の思いを込めて「兄弟」と述べています。更に、協力者は、同労者の意味で、監禁されているパウロに代わって、様々な宣教の業を担ってくれていたことを示します。「戦友」というのは、福音の前進のために共に戦ったということです。具体的には、エパフロデトがフィリピの教会から、パウロの窮乏を助ける(監禁されている時には、最小限の食料しか与えられなかったそうですが、外部からの差し入れは割合に自由だったそうです)ために送られてきて奉仕者となってくれていたことを指します。しかしこのエパフロデトが、今はフィリピの教会の人々にしきりに会いたがっており、彼が病気のために(何の病気かは何も書かれていませんが)心苦しく思っています。自分がパウロの助け手として派遣されたにも関わらず、病気のために働けなくなってしまったことを心苦しく思っています。そして、病気によって弱くなっている心でフィリピの教会の人々に会いたくなっているし、また奉仕できなくなってしまったことを直接謝りたいのでしょう。27節。パウロは病が癒されたことを神の憐れみと捉えます。28~30節。マルコと呼ばれるヨハネのゆえに、バルナバと決別した(使徒言行録15章36節~)時のパウロとはずいぶん違います。「キリストの業に命をかけ」とは、何も殉教を指すこと(だいそれたこと)ではなくて、パウロを通じて神に仕えたことです。日常の普通の奉仕において、私達が「命懸け」であるかどうかが問われています。