これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2019年3月17日「自信が砕かれるとき」(マルコによる福音書14章66~72節)

 前回の聖書箇所最初のほう、54節にもぺトロは登場します。ですから前回の裁判の記事と、今日のペトロの記事とは、同じ時に近い場所で起こった二つの出来事です。ルカによる福音書では、このときに主イエスがペトロの方を振り向いたという(22章61節)印象的な記事になっています。54節を受けるようにして、66・67節。この女中の意図--告発するつもりなのか、たまたま一緒にいたのを見ましたよという世間話なのか--は、分かりません。ただ、恐れていて不意を衝かれたペトロは、過剰に反応します。68節。出口の方へ行っても、女中はついてきて言います。69・70節前半。ペトロの二度目の否認です。そして更に他の人々からも指摘されます。70節後半・71節。ペトロの否認が段々エスカレートしていって、最後には呪いの言葉さえ口にします。このとき鶏が再び鳴きます。72節。泣きだした後で、いつ頃泣きやんだのか、(書かれていないので)分かりません。色々なことを思いながら、神に祈りながら、朝までペトロは泣いていたのかもしれません。
 ペトロは最後の(晩餐の)夜、私はつまずかない(29節)、たとえ死なねばならなくなっても知らないなどとは言わない(31節)と豪語していました。他の弟子たちもそうです。しかし他の弟子たちは既に逃げ出しています。ペトロもかろうじて大祭司の中庭までついて来ましたが、主イエスが預言なさった通り(30節)になってしまいます。
 私たちはこの記事から何を学ぶのでしょうか。まず第一に、一番弟子のペトロだけではない、私たち自身の弱さではないでしょうか。第二に、ペトロは主イエスに一番についていく弟子なのだという誇り・自信があったであろうと思います。しかし、その自信が完全に砕かれます。そして、「自分の」自信が砕かれた所からはじめて、自分を無にする本当の信仰がはじまるのです。

2019年3月10日「でたらめな裁判」(マルコによる福音書14章53~65節)

 先週フィリピの信徒への手紙を終わりました。今日からマルコに戻ります。昨年の6月、主イエスの逮捕で中断していました。逮捕は大きな区切りではありますが、まだ福音書は終わっていません。むしろこれから、大切な受難物語です。今回、受難節(レント)に逮捕後の出来事を丁寧にみていきましょう。53節は、逮捕直後のこと、54節は次回の記事とでサンドイッチ構造になっています。55節で、この裁判が、最初から死刑を目指した異常なものであったことが分かります。裁判では、二人または三人が別々に証言してその内容が一致している(矛盾がない)ときに、はじめて証言の有効性が立証されたことになる、という決まりがありました。きちんと口裏を合わせていればうまくいくという人もいます。が、今回はユダの裏切りによって、突然の逮捕、そしてその日の内に裁判なのですから、そんな余裕はなかったのでしょう。最初から死刑にするという目的があることも異常ならば、夜裁判を行ったことも、その日の内に判決を出していることもでたらめです。不利な偽証の食い違いの後には、神殿の話になります。57~59節。証言自体が、主イエスの言葉とは異なりますし、この事柄に関しても証言は食い違っています。ついに大祭司自身が立ち上がります。60節61節前半。主イエスはもう死を覚悟して沈黙しておられます。宗教権力者たちとの見事な対照があります。しかし大祭司の次の問いには(マルコでは)答えます。61節後半62節。今までは、主イエスがキリスト・メシアであることを見抜いた者たち(弟子たちを代表するペトロや悪霊など)は、主イエスから沈黙を命じられていました。しかし今や時は満ちて、主イエスご自身が宣言なさいます。その結果、63・64節。でたらめな裁判にでたらめな判決です。日本にも多くの冤罪事件があって人ごとではありませんが、ここまでひどくはないでしょう。主イエスが殺されるまでの一連の出来事は、その最初からすべて、人間の罪によるでたらめなものであり、それを主イエスは静かに耐えて、私たち人間を救おうとする神の意志に従いました。

 

2019年3月3日「キリストの恵みが」(フィリピの信徒への手紙4章21~23節)

 昨年の 7月 1日から読み始めましたフィリピの信徒への手紙も、34回、今日で終わります。今回は結びの言葉だけです。前回、神がフィリピの教会の人々に必要なものをすべて満たして下さることを確言したパウロは、最後に頌栄、神への栄光を求める祈りの言葉を語って、アーメンと閉じました。今日はその後に、「よろしく」と語り(21・22節)、手紙の最初にあったのと同じように(言葉は少し異なりますが)、祝福の言葉で閉じます。
 21・22節。最初の「よろしく」は、パウロからです。ここは、すべての聖なる者たち一人ひとりに、ということです。この手紙は、フィリピの教会で朗読されたことでしょうから、聞いている一人ひとりが、ああ、自分にもパウロは宛てているのだなと感じることができるように配慮しました。個人名が一切書かれていない(ローマの信徒への手紙とは対照的に)のは、フィリピの教会の人々の間に争いがあったこと(4章2節以下参照)に対する配慮でしょう。「聖なる者」というのは、神抜きにその人の特質として「聖」なのではありません。ただキリストと結ばれているがゆえに「聖」です。次の「よろしく」は、パウロと一緒にいる兄弟たちからですが、私たちが今知っているのは、(手紙の中に出てきた)テモテだけです(恐らくエパフロディトはこの手紙を携えていった)。三つ目(最後)の「よろしく」は、特に「皇帝の家の人たち」が挙げられています。これは、皇帝の親族ということではなくて、ローマ帝国で官憲として働く全ての人を指す言葉です。自由人も奴隷もいました。自分を捕らえている人々の中にもキリスト者・信仰を同じくする者たちがいることを伝えて励まそうとしたのでしょう。最後、23節。私も「あなたがたの霊」は、「あなたがた」と同じ意味ですが、「一つの霊による一致」との関連を考えることもできます。私も今日、この手紙を終えるにあたって、この言葉をもって閉じたいと思います。

2019年2月24日「満たして下さる神」(フィリピの信徒への手紙4章19・20節)

 次回は結びの言葉ですから、今日の箇所でこの手紙はほぼ終わりです。しかも後半は神への讃歌・賛美ですから、19節がほぼ本文の最後の言葉です。前回は私たちの捧げ物(金銭や財産ばかりではなくて、奉仕や祈りも)がどんなに小さく拙いものであっても、神は香ばしい香りとして受け止めて下さる、神が喜んで下さる、パウロへの贈り物をきっかけにして、そういうことが語られていました。これは大きな恵みです。
 今日の箇所では、私たちの必要なものを全て神が満たして下さるというパウロの確信が語られています。19節。パウロが「わたしの神」と述べる箇所はそう多くありません。勿論「私だけの神」という意味ではなくて、(抽象的な概念としての神ではなくて人格的に自分の関わって下さる)「パウロ自身の神」ということでしょう。この手紙は、獄中書簡であるのと同時に喜びの手紙であるということを何回も申し上げてきました。それはどんなに厳しい状況にあっても、パウロと共にいて下さる神が、パウロを喜びと平和とで常に満たして下さるからです。このことが分かりますと、私たちはこの世界における自分の境遇がいかなるものであっても、喜んで生きることができます(12節参照)。それですから、いままさに迫害の危機にあるフィリピの教会の人々が、必要なものを全て満たして下さる神を知っていることの大切さを最後に今一度確認しています。しかし本当に神は全てを満たしてくださるのでしょうか。神の偉大さ(私たちからはかけ離れた高さ)と神の深く広く大きな私たちへの愛が分かりませんと、この事実も分かりません。私たちの全てが満たされている・完成しているという意味でのシャーローム(平和)は、最後の審判・主イエスの再臨を待たなければなりません。しかし今既に神が満たしてくださること知っているならば、今不安や恐れはなくなります。さあ、新しい一週間も、この神と共に生きましょう。
2019

2019年2月17日「香ばしい香り」(フィリピの信徒への手紙4章15~18節)

 今日は特に、18 節を中心にみていきます。何回か申し上げてきましたように、10~20節は、「感謝なき感謝」で、直接的な感謝の言葉はありません。しかしパウロは、単純に感謝を述べるよりも、更に深いことを語っています。その一つ、前回は「共に苦しむ」こと(14節)をみました。単に金銭的・経済的な負担、重荷なのではなくて、パウロに贈り物をしたことは、パウロと苦しみを共にすることであり、神への献げ物なのだといいます。
 まず17節で、パウロは自分にとっての贈り物の意味ではなくて、フィリピの教会の人々にとっての意味を述べます。「あなたがたの益となる豊かな実(あなたがたの帳簿を黒字にする実り、新聖書協会訳)」。彼らは、パウロのために贈り物をすることで、経済的には負担になる、苦しむことになります。しかしそれは、神への献げ物なのだから、神のもとで大きな富を積むことになります。それは彼らの役に立つことです。
 18節。パウロは確かにフィリピの教会の人々からの贈り物でとても助かったようです。そしてこの贈り物を神との関係で、「香ばしい香り(かぐわしい香り、新聖書協会訳)」と述べます。これは旧約聖書からの言葉で、神が喜んで下さるいけにえ・供え物ということです。私たちは小さな取るに足らない存在です。しかし神は、この私たちの捧げ物を喜んで受け入れてくださいます。「神は、私たちに価値があるから愛されるのではない。神に愛されているから私たちには価値があるのだ(ある宗教改革者の言葉)」さあ、惜しむ心からではなくて、感謝と喜びをもって神に献げましょう。

2019年2月10日「苦しみを共に」(フィリピの信徒への手紙4章12~17節)

 今日は特に、14節を中心にみていきましょう。前回申し上げましたように、10~20節は、「感謝なき感謝」と言われますように、直接的な感謝の言葉はありません。しかしパウロは、単純に感謝を述べるよりも、更に深いことを語っています。その一つが14節です。苦しみそのものの意義については、既に1章29節で語られていました。(キリストのために)苦しむことさえも恵みとして与えられています。その苦しみとは、伝道・宣教の戦いの苦しみ、福音・キリストのために戦う苦しみです。今日の箇所では、この苦しみが、更に経済的に負担を負うことにも広げられています。今回のパウロの投獄以前にもフィリピの教会の人々は、パウロの宣教の業に協力して贈り物を送っていました。15・16節にある通りです。その贈り物をパウロは、苦しみを共にしてくれたことなのだと捉えます。教会への献金について語る時によく言われることは、自分の生活に何の影響もないような少額(もちろん、金額の多寡のことではなくて割合です)、苦しみに全くならないような額ではだめなのだといいます。もちろん、キリスト教・教会においては、「全てが自由」(一コリント10章23節)なのですから、「こうでなければならない」ということは全くありません。が、昔から、(ユダヤ教に倣って)教会でも収入の十分の一を献げるという考え方があります。これは一般的にいって、きちんと負担にはなるけれども生活が破綻することはない、知恵に富んだやり方でしょう。フィリピの教会の人々は、そのような十分の一献金とは別に、パウロの宣教活動のために贈り物をしました。これは、パウロと共に苦しむことです。苦しみの連帯は強い絆をうみます。さあ私たちも強制されてではなくて自主的・主体的に様々な宣教の業の何かに関わっていきましょう。

2019年2月3日「いついかなる場合にも」(フィリピの信徒への手紙4章10~13節)

 20節までに、(新共同訳聖書では)「贈り物への感謝」という表題を付けています。今回はこの箇所を4回にわたって、少しずつ聖書箇所をずらしながら、みていきます。この箇所全体の特徴として、多くの方々が指摘するのは、感謝なき感謝ということです。行間から、感謝が伝わってはくるものの、はっきりと「ありがとうございます」とか「あなたがたに感謝しています」という類の言明がありません。一つの解釈としては、この手紙ではエパフロディトを送り返すことが書かれているので、この手紙よりも前(エパフロディトが来たばかりの頃)に既に直接的な感謝の手紙を書いた、というものです。今回は、エパフロディトの派遣(そして可能ならばテモテの派遣)が手紙の中心なのだけれども、やはり、フィリピの教会の人々が自分・パウロにしてくれたことに手紙の最後で触れておくべきだとパウロは感じます。しかもそれが信仰的・神学的・教会的にどういう意義があるのかを今一度伝えておくべきだと思ったのでありましょう。10節。パウロは以前にもフィリピの教会の人々からの援助を受けていました。しかし迫害の困難な時にあって、それが途絶えていたようです。パウロは、フィリピの教会の人々が援助を再開してくれたことを大いに喜びます。しかし、中断していた間のことを責めないように、心配りをしています。思いはあっだが、機会がなかったのだと。私たちの教会への(それは神へのということでこの後の箇所でパウロのそういう理解も出てまいります)献金や奉仕にもそういう面があります。「今は」無理だとしても、そういう願い・思いを持ち続けるならば、神は必ず機会を与えてくださいます。更にパウロは、援助を催促しているのだと誤解されないように筆を進めます。11節前半。そしてその理由も書きます。まとめて、11節後半~13節。いついかなる場合にも対処する秘訣です。これはストア派の哲学に似ていますが、根本的に異なります。パウロを強めてくださる方、主なる神によって、この平和の神が共にいてくださることによって可能になったのであって、パウロの人間的な努力や研鑽によるのではないからです。わたしたちもまっすぐに信仰に生きることでこの秘訣を身に付けていきましょう。