これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2019年6月2日「エジプト避難」(マタイによる福音書2章13~18節)

 

 今日は、マタイによる福音書の講解説教、二回目です。1章後半から2章前半はクリスマスの季節にとっておきます。また、来週が3章後半なのは、ペンテコステのためです。今日の箇所では、占星術の学者たちが帰った後の一つのエピソードが描かれています。ヘロデが幼児の大量虐殺を行ったことと、そのときに主イエスが両親に連れられてエジプトに避難したことです。この中で、歴史的な事実として恐らく確認できるであろうと考えられているのは、主イエスが幼いときにエジプトに滞在したことです。またそこから、主イエスのエジプト滞在時の様々な出来事も編まれていきました。ただ、幼児虐殺の史実性は疑問視されています。ヘロデが現実に(身近な人々も含めて)大勢を殺しているので不自然ではないのですが、マタイ福音書以外のどこにもこのことは描かれていません。史実として確認されているヘロデの悪行に共通するのは、「王」たりうる者の出現を極端なまでに恐れていたことです。この物語でも、「ユダヤ人の王」(救い主)出現を恐れて虐殺に至ります。それをマタイは、旧約聖書の成就と捕らえます。16~18節。エレミヤ書31章15節です。幼児虐殺と神義論の問題は、影響史的にはあまり問題になりませんでした。現代の問題意識だといえるでしょう。この子どもたちについてよりも、私たちはヘロデと私たち自身の類似性に注目すべきでしょう。ヘロデは自分のために、自分の王位を守ろうとして、幼児を殺します(主イエスを殺す目的で)。私たちも、いとも簡単に、自分の「王国」を守るために、主イエスを排除してしまうのではないでしょうか。しかし神はそのような私たちを救うために、この幼子、主イエスをエジプトへと避難させて救いのご計画を進めます。私たちに今できることは、自己主張ばかりをして主イエスを排除するのではなくて、主イエスを自分の心の中に受け入れることです。

2019年5月19日「系図の女たち」(マタイによる福音書1章1~17節)

 今日からマタイによる福音書の講解説教です。最初に系図があって、「さあ新約聖書を読んでみよう」とはりきった未信者の方が、この最初の頁で挫折してしまうという話はよく聞きます。しかしかつては識字率が低く、書物も高価であったので、あまり問題にはならなかったでしょう。なぜ最初に系図があるのでしょうか。実は、旧約聖書を真似ています。私たちは創世記などを読む時に、系図の部分は流して読んでしまう傾向があります。おもしろくありませんし、私たちではなくて、ユダヤ人の系図だからでしょう。しかし実は、この系図ということ、自分が歴史の中でどんな位置にいるのかということが、旧約聖書の書かれた(編まれた)大切な理由でした。だからこのマタイの系図も、私たちが救い主と信じるキリストの系図をきちんと描くことで、主イエスをイスラエルの歴史の中に位置づけるという明確な目的があります(四つの福音書それぞれのおおまかな特徴)。
 しかしそれだけではありません。実はこの系図には、四人の女性たちがでてきます。3節の「ユダはタマルによって」。5節の「サルモンはラハブによって」。「ボアズはルツによって」。更に6節の「ダビデはウリヤの妻によって」。それぞれの女性たちをみてみると、サラやラケルのようないわゆる模範的な女性は全て省かれていて、私たちが立ち止まって考え込んでしまうような女性たちです。順番にみてみましょう。
 なぜ、マタイはこのような女性たちをあえて主イエスの系図に載せたのでしょう。そこにあるのは、私たち人間の罪にも関わらず、主イエスを遣わして、私たち人間を救おうとなさる、神の強い・激しい意志ではないでしょうか。そして神はこのような女たちを救いへの道筋に用いたという証言です。

2019年5月12日「昇天」(マルコによる福音書16章19・20節)

 今日でそれなりに長かったマルコによる福音書の講解説教も最終回です。来週からはマタイです。今日の箇所は、福音書に描かれてきたような出来事の後で、主イエスが昇天なさった記事と、弟子たちの世界宣教の記事です。19節。まず、「昇天」と「召天」の違いを述べておきましょう。そして、実は主イエスの昇天に関しては、その時期がどうであったのかが議論されています。教会の暦では、復活から40日経って、昇天なさった(使徒言行録1章の記事による)のですが、福音書の記事は復活の後それほど時間が経っていない印象を受けます(これは続編として使徒言行録を書いたルカでさえそうです)。いずれにせよ、私たちが使徒信条で毎週告白しておりますように、神の右の座に着かれました。これは「天」とは何か・どこかという問題とも関係しますが、神の権能を与えられていることの象徴でしょう。更に、主イエスご自身が裁判の時に仰った言葉(14章62節)とも一致しています。そしてそれは、主が共に働いていて下さることと矛盾しません(人間的にみると矛盾するかのようですが)。20節以下。信じなかった弟子たちが、いまや世界に出て行きます、福音を宣べ伝えるために。私たちもまた、その最後に連なる者たちとして、主のご委託に応えていきましょう。

 

2019年5月5日「かたくなな心と宣教命令」(マルコによる福音書16章14~18節)

 8節までで本来のマルコ福音書は、終わっています。前回の箇所では二つの「信じなかった」がありました。復活の主に出会った人々の証言を信じない弟子たちの姿です。それだから14節。不信仰とかたくなな心をとがめられます。そしてマルコ福音書では、この叱責にすぐに続いて宣教命令です。15~18節。マタイ福音書の最後の宣教命令とは少し異なりますが、おおむね同じです。大きく異なるのは、マタイにある「世の終わりまで…共にいる」という約束がないことです。これは、マタイ福音書全体のテーマが、インマヌエルであることから説明できます。マルコの特徴は、主イエスの叱責に直ちに続いて、宣教命令があることです。弟子たちは、復活の主に出会って悔い改めたとか反省したとか、そういう記述が一切なくて、いきなり、宣教命令があることです。つまりマルコ福音書では、私たち人間の側の意欲や考えではなくて、ただ主イエスからの命令です。
 このことは何を意味するのでしょうか。三つのことを申し上げましょう。まず第一に、主イエスは信仰や態度がとてもしっかりしている人々に宣教を委ねたのではなくて、私たちのような信仰の小さな者に委ねて下さっているということです、「信じなかった」ような。自分の信仰の小ささを奉仕や宣教を断る言い訳にするわけにはいきません。第二に、私たちが信仰を育てられるのは、私たちの信仰の小ささにも関わらず委ねて下さる主イエスに信頼して、実際に宣教の業をなしていくときなのではないでしょうか。そして第三に、そのような弟子たち(私たち)の宣教によって、福音は前進していき、二千年経った今、キリストを信じる者が増え続けてきたことです。なお最後にこのいわゆる「大宣教命令」が注目されるようになったのは、(中世の時代ではなくて)近代になるのと共にでありました。新しい世界がみえてきたときに、昔の宣教命令が再び注目されたのです。

2019年4月28日「信じなかった」(マルコによる福音書16章9~13節)

 前回の箇所までで本来のマルコ福音書は、終わっています。しかし聖書が編まれた時点で既に、9節以下は付加されていました。他の三つの福音書では、復活の告知と顕現の両方がありますから、告知しかないマルコ福音書に付加するのは、顕現です。しかも勝手に付け加えたのではなくて、他の福音書(あるいは資料)を引用したり要約したりしています。
 特徴的なのは、「信じなかった」ことです。11節、13節。そのことの解決は、次回(来週)の聖書箇所を待たなければなりません。今日は、この「信じなかった」ことの意味を掘り下げてみましょう。一つ目のマグダラのマリアに現れた記事をマタイとヨハネが描いているのをみますと、聞いた者たちが信じなかったという記事にはなっていません。また二つ目ルカ福音書のエマオへの途上の話でも、そうです。マルコは、最初に聞いた人々が信じない、そして主イエスは更に顕現されたという描き方をしています。
 ここに描かれているのは、私たち人間の頑なさなのではないでしょうか。イスラエルを描く旧約聖書自体が、イスラエルの頑なさを描いています。新約聖書(特に福音書)でも、弟子たちの頑なさ(物分かりの悪さ)が描かれています。そして私たちも決してこの「信じなかった」頑なさと無縁ではありません。「復活」(それ自体は前回も申し上げましたように神固有の事柄であって、私たち人間の関与はありません)が「信じられなかった」のは、現代が科学の時代だから現代に限ったことなのではなくて、主イエスの時代からそうでした。主イエスが十字架の死以前に何回も語っておられたのに、人々(男の弟子たちも女の弟子たちも)理解しませんでした。私たちもそうです。「信じなかった」のが、私たち人間の自然の性・姿です。一人ひとりに神の特別な力が働いて、希望の源である復活を「信じる」ことができます。

 

2019年4月21日「復活の恐れ」(マルコによる福音書16章1~8節)

 

 前回の箇所で十字架上の死、そして埋葬がありました。今日の箇所はマルコ福音書の(本来の)最後の箇所です。しかしその終わり方はあまりにも唐突です。8節。主の復活の顕現もありません。ギリシャ語では、「ガル」で終わっているのも不自然です。だからかつてよくなされた推測は、最後の部分がなくなってしまったというものです。実際に昔の本は巻物ですから、最後の部分がちぎれてなくなるということはありました。恐らく本来の福音書は、主イエスの顕現までを描いていたのだが、なくなってしまった。だから、9節から先が書き足されたのだというのです。確かにそういう読み方もできますが、最近は、この福音書は実際に最初からこのように終わっていたという学説の方が有力になっています。最初からみていきましょう。1~3節。安息日には買い物もできませんから、日が暮れて安息日が終わってすぐに買いにいったのでしょう。日曜日に私たちが礼拝をしているのは、安息日だからではなくて、主イエスの復活の日だからです(週の初めの日)。お墓の入り口の石は、何人かの女たちでは、動かせないものだったのでしょう。先に(行く前に)なぜ気が付かなかったのか、不自然だ、という方もいますが、私たち人間の行動というのは案外こういうものではないでしょうか。4節。神の受動態です。5節。女たちの驚きは、当然でしょう。主イエスのご遺体があるはずなのに、若者が座っていたのですから。6・7節。あの方はここにはおられない。先にガリラヤへ行かれた。主イエスは、私たちの誰よりも先に、いつだって、私たちのガリラヤへ行って下さる方です。この福音書は不自然な終わり方をすることで、私たちに問いかけています。あなたがたは、復活の恐れを超えて、先にガリラヤへ行かれた主イエスの後についていくのか、それとも、逃げ去ったままなのか、と。

2019年4月14日「死と墓と」(マルコによる福音書15章33~47節)

 

 主イエスは前回の箇所で十字架につけられました。午前九時のことです。マルコによる福音書では、特に、主イエスに対する人々のののしりが印象的に描かれています。そして、今日の箇所では、昼の十二時です。33節。神の子が十字架につけられたことを悲しむかのように、全地が暗くなります。34節から主イエスが逝去される時の、午後三時の様子が描かれています。34~37節。十字架の上での七つの言葉ということがよく言われます。ルカに三つとヨハネに三つ、それにマタイとマルコで同じこの一つの言葉です。「わが神、わが神、なぜ…」と主イエスが大声で叫ばれた時、いったいどのような思いであられたのでしょうか。一つの読み方は、これは明らかに詩編22編の最初の言葉なので、主イエスは神への信頼と感謝を叫ぼうとされた、その最初の言葉とするものです。確かにそれも可能ですし、神の子にふさわしいことでしょう。しかしまた、実際に、「人間」として主イエスは、神に見捨てられるという、最大の最低の絶望をなさった。本来、神に見捨てられて滅びるべきなのは、罪を犯して神から離れている私たちなのに、この私たちを救うために主イエスが絶望の叫びをなさった。そして主イエスが息を引き取られたとき、二つの出来事が起こります。一つは、38節。これは聖と俗の境目がもはやないということです。更に、39節。百人隊長(以前に出てきたかどうかは分かりません)の告白です。弟子たちが逃げ出してしまった中で、女性たちこそが、(遠くからとはいえ)見守っていました。40・41節。
 そして主イエスは墓に葬られます。42~47節。三つのことを見ておきましょう。まず第一にアリマタヤのヨセフこと。第二に、主イエスは(仮死状態などではなくて)本当に死んだのだということ。そして第三、最後に、この場所をじっと見つめていたのは、女たちであったことです。