これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2019年6月23日「洗礼者ヨハネ」(マタイによる福音書3章1~12節)

 洗礼者ヨハネ マタイ3章1~12節 190623
まず前半、1~6節。主イエスに洗礼を授けるヨハネがどのような人物で何をしたのかが紹介されます。ヨハネは、イザヤ書に預言されている通りに、主イエスの道を整える人物です。4節の記述は、特別に敬虔な様子を描いているのではなくて、遊牧民ベドウィンのような様子、隠遁者としては普通の様子です。彼のメッセージ(の総括、2節)は、主イエスの宣教開始のメッセージ(4章17節)と同じであり、先に遣わされたヨハネと主イエスの関係の深さが示されています。前半は、ヨハネの洗礼活動が大成功であったことを語ります。これも4章25節に対応しています。
 後半は、7節前半をきっかけとして、このヨハネがした説教です。7~12節。この説教の前半の部分(9節まで)では、ユダヤ人、ことにファリサイ派やサドカイ派のような人々のもつ、出自についての誇りを打ち砕きます。「神はこんな石からでも…」と。そして後半は、最後の審判と主イエスによる洗礼・救いが複雑に重なり合ってイメージが紡がれています。まず、洗礼者ヨハネは、悔い改めに導く自分のする水による洗礼と異なり、主イエスの洗礼は、聖霊と火によるものであると述べます。そしてこの火こそが、裁きの火、最後の審判の火です。ヨハネが期待していたのは、主イエスが裁くことでした。しかしどうも様子が違うというので、洗礼者ヨハネは自分の弟子たちに確かめに行かせます(11章)。では、「火による洗礼」とは何でしょうか。本来、私たちは神の民ではありません。しかし神は、石ころからでもアブラハムの子どもたちを造り出すことがおできになる力をもって、私たち異邦人を神の民にしてくださいました。そのための裁きの火は、十字架において主イエスを死に至らしめ、そのようにして、私たちには(ヨハネの期待とは異なり)救いがもたらされました。

2019年6月23日「洗礼者ヨハネ」(マタイによる福音書3章1~12節)

 洗礼者ヨハネ マタイ3章1~12節 190623
まず前半、1~6節。主イエスに洗礼を授けるヨハネがどのような人物で何をしたのかが紹介されます。ヨハネは、イザヤ書に預言されている通りに、主イエスの道を整える人物です。4節の記述は、特別に敬虔な様子を描いているのではなくて、遊牧民ベドウィンのような様子、隠遁者としては普通の様子です。彼のメッセージ(の総括、2節)は、主イエスの宣教開始のメッセージ(4章17節)と同じであり、先に遣わされたヨハネと主イエスの関係の深さが示されています。前半は、ヨハネの洗礼活動が大成功であったことを語ります。これも4章25節に対応しています。
 後半は、7節前半をきっかけとして、このヨハネがした説教です。7~12節。この説教の前半の部分(9節まで)では、ユダヤ人、ことにファリサイ派やサドカイ派のような人々のもつ、出自についての誇りを打ち砕きます。「神はこんな石からでも…」と。そして後半は、最後の審判と主イエスによる洗礼・救いが複雑に重なり合ってイメージが紡がれています。まず、洗礼者ヨハネは、悔い改めに導く自分のする水による洗礼と異なり、主イエスの洗礼は、聖霊と火によるものであると述べます。そしてこの火こそが、裁きの火、最後の審判の火です。ヨハネが期待していたのは、主イエスが裁くことでした。しかしどうも様子が違うというので、洗礼者ヨハネは自分の弟子たちに確かめに行かせます(11章)。では、「火による洗礼」とは何でしょうか。本来、私たちは神の民ではありません。しかし神は、石ころからでもアブラハムの子どもたちを造り出すことがおできになる力をもって、私たち異邦人を神の民にしてくださいました。そのための裁きの火は、十字架において主イエスを死に至らしめ、そのようにして、私たちには(ヨハネの期待とは異なり)救いがもたらされました。

2019年6月9日「ナザレの人と」(マタイによる福音書2章19~23節)

 前回ペンテコステのために講解説教の順番からいいますと少し先になります、主イエスの洗礼の箇所をみました。今日は、少しだけ遡って、元の流れに戻ります。ヘロデは(史実として認められるかどうかは微妙ですが)二歳以下の男の子を皆殺しにします。このヘロデの治世の間にイスラエルに戻りますと危険ですから、ヘロデが死ぬまでは、主イエスはエジプトにいます。19・20節。ヘロデが亡くなったのは、紀元前四年と分かっていますから、主イエスがお生まれになったのは、それよりも前です。何年エジプトにおられたのかは(書いていないので)分かりません。主イエスの命を狙っていたのはヘロデですから、なぜ複数形(者ども)なのでしょうか。一つには、ヘロデが権力者であって、ヘロデを中心とする勢力だから複数です。しかしいま一つには、出エジプト記を模しています。主イエスがエジプトに行ったのも帰って来たのも、実は出エジプトの体験に重ね合わせることができるということです。
しかしただまっすぐにイスラエルへ、というわけにはいきません。21~23節前半。ヘロデの後を継いだのは、(ユダヤ地方に関しては)アルケラオでした。この人物は、ヘロデ大王とどちらが残酷な人かと議論になるほどひどい人物で、様々な逸話が残っています。だからヨセフは主イエスとマリアを連れてナザレ(という町?)へ行きます。
しかし最後の23節後半がよく分かりません。旧約聖書を様々な人々が一所懸命に探しましたが、該当する個所がないのです。エレミヤ書など幾つかの候補はありますし、またナザレが、神への捧げ物として聖別されたナジル人を指すという説などありますが、本当の所は分かりません。だから今日は最後に三つのことだけを申し上げて終わります。まず第一に、マタイ福音書記者は、典拠が示せなくても書いてしまう位、旧約聖書の成就としての主イエス・キリストという視点を大切にしました。第二に夢の御告げ(天使)は、主にここまでです。そして最後に、ナザレとは、都エルサレムなどと比較するとかなり田舎で、差別されていた、下に見られていた、そういう所で主イエスは育たれました(家畜小屋に生まれただけではなくて)。私たちは、主イエスが神によってどこに立たせられていたかをきちんとわきまえましょう。

2019年6月9日「イエスの洗礼」(マタイによる福音書3章13~17節)

 今日は、マタイによる福音書の講解説教、三回目です。前回申し上げました通り、今日はペンテコステ礼拝ですので、この箇所にしました。主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになられる。すると、神の霊、聖霊が降る。旧約聖書の時代から、神の霊、聖霊が降ることは、特別な神からのメッセージ・召しでした(例えばダビデ参照)。主イエスが洗礼を受けたときにも、まだ公の生涯は4章12節のヨハネの逮捕を待つことになりますが、神の声が聞こえます。最初からみていきましょう。13節。主イエスは自分の意志で洗礼を受けようとします。私たちの洗礼の原型です。勿論主イエスは、罪なき神の小羊ですから、本当は洗礼を受ける必要はありません(罪の悔い改めとしては)。だからヨハネも言います。14節。しかし、15節。「正しいこと」というのは、別の訳し方をしますと、「義」です。マタイ福音書では、「まず神の国と神の義を求めなさい」(6章33節)とありますように、この「義」が、とても大切な鍵になる言葉・概念です。主イエスは、初めから終わり(十字架、本当の終わりではない)まで、神の義をまっとうなさいました。そしてこの出来事の結末は、16.17節。ここで起きた出来事は、私たちの救いの最初の一歩とも言えるでしょう。私たちと天との間には、私たちの罪によって、決定的な隔絶があります。しかし、その天が開かれました。主イエスは、神によって「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と宣言されます。こうして、私たちと神との間を繋いでくださっています。私たち自身はどうあがいても、神の「心に適う者」ではありえません。ただ主イエスがとりなしてくださるがゆえに、私たちにも聖霊が降り、神の「心に適う者」としての歩みがなされるように、今日ペンテコステに祈りましょう。

2019年6月2日「エジプト避難」(マタイによる福音書2章13~18節)

 

 今日は、マタイによる福音書の講解説教、二回目です。1章後半から2章前半はクリスマスの季節にとっておきます。また、来週が3章後半なのは、ペンテコステのためです。今日の箇所では、占星術の学者たちが帰った後の一つのエピソードが描かれています。ヘロデが幼児の大量虐殺を行ったことと、そのときに主イエスが両親に連れられてエジプトに避難したことです。この中で、歴史的な事実として恐らく確認できるであろうと考えられているのは、主イエスが幼いときにエジプトに滞在したことです。またそこから、主イエスのエジプト滞在時の様々な出来事も編まれていきました。ただ、幼児虐殺の史実性は疑問視されています。ヘロデが現実に(身近な人々も含めて)大勢を殺しているので不自然ではないのですが、マタイ福音書以外のどこにもこのことは描かれていません。史実として確認されているヘロデの悪行に共通するのは、「王」たりうる者の出現を極端なまでに恐れていたことです。この物語でも、「ユダヤ人の王」(救い主)出現を恐れて虐殺に至ります。それをマタイは、旧約聖書の成就と捕らえます。16~18節。エレミヤ書31章15節です。幼児虐殺と神義論の問題は、影響史的にはあまり問題になりませんでした。現代の問題意識だといえるでしょう。この子どもたちについてよりも、私たちはヘロデと私たち自身の類似性に注目すべきでしょう。ヘロデは自分のために、自分の王位を守ろうとして、幼児を殺します(主イエスを殺す目的で)。私たちも、いとも簡単に、自分の「王国」を守るために、主イエスを排除してしまうのではないでしょうか。しかし神はそのような私たちを救うために、この幼子、主イエスをエジプトへと避難させて救いのご計画を進めます。私たちに今できることは、自己主張ばかりをして主イエスを排除するのではなくて、主イエスを自分の心の中に受け入れることです。

2019年5月19日「系図の女たち」(マタイによる福音書1章1~17節)

 今日からマタイによる福音書の講解説教です。最初に系図があって、「さあ新約聖書を読んでみよう」とはりきった未信者の方が、この最初の頁で挫折してしまうという話はよく聞きます。しかしかつては識字率が低く、書物も高価であったので、あまり問題にはならなかったでしょう。なぜ最初に系図があるのでしょうか。実は、旧約聖書を真似ています。私たちは創世記などを読む時に、系図の部分は流して読んでしまう傾向があります。おもしろくありませんし、私たちではなくて、ユダヤ人の系図だからでしょう。しかし実は、この系図ということ、自分が歴史の中でどんな位置にいるのかということが、旧約聖書の書かれた(編まれた)大切な理由でした。だからこのマタイの系図も、私たちが救い主と信じるキリストの系図をきちんと描くことで、主イエスをイスラエルの歴史の中に位置づけるという明確な目的があります(四つの福音書それぞれのおおまかな特徴)。
 しかしそれだけではありません。実はこの系図には、四人の女性たちがでてきます。3節の「ユダはタマルによって」。5節の「サルモンはラハブによって」。「ボアズはルツによって」。更に6節の「ダビデはウリヤの妻によって」。それぞれの女性たちをみてみると、サラやラケルのようないわゆる模範的な女性は全て省かれていて、私たちが立ち止まって考え込んでしまうような女性たちです。順番にみてみましょう。
 なぜ、マタイはこのような女性たちをあえて主イエスの系図に載せたのでしょう。そこにあるのは、私たち人間の罪にも関わらず、主イエスを遣わして、私たち人間を救おうとなさる、神の強い・激しい意志ではないでしょうか。そして神はこのような女たちを救いへの道筋に用いたという証言です。

2019年5月12日「昇天」(マルコによる福音書16章19・20節)

 今日でそれなりに長かったマルコによる福音書の講解説教も最終回です。来週からはマタイです。今日の箇所は、福音書に描かれてきたような出来事の後で、主イエスが昇天なさった記事と、弟子たちの世界宣教の記事です。19節。まず、「昇天」と「召天」の違いを述べておきましょう。そして、実は主イエスの昇天に関しては、その時期がどうであったのかが議論されています。教会の暦では、復活から40日経って、昇天なさった(使徒言行録1章の記事による)のですが、福音書の記事は復活の後それほど時間が経っていない印象を受けます(これは続編として使徒言行録を書いたルカでさえそうです)。いずれにせよ、私たちが使徒信条で毎週告白しておりますように、神の右の座に着かれました。これは「天」とは何か・どこかという問題とも関係しますが、神の権能を与えられていることの象徴でしょう。更に、主イエスご自身が裁判の時に仰った言葉(14章62節)とも一致しています。そしてそれは、主が共に働いていて下さることと矛盾しません(人間的にみると矛盾するかのようですが)。20節以下。信じなかった弟子たちが、いまや世界に出て行きます、福音を宣べ伝えるために。私たちもまた、その最後に連なる者たちとして、主のご委託に応えていきましょう。