これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2019年7月21日「主の幸いを生きる」(マタイによる5章1~12節①)

 前回、最初の弟子たちが招かれました。そして後半は、9章の最後と共に、5~7章(主の教え)と8.9章(主の行い)とを囲んでいます。今回は、山上の説教の最初にあります山上の祝福を三回で読みます。1・2節。ラビが弟子たちに教える時のように主イエスは語ります。しかし弟子たちだけが対象なのではなくて、更に主イエスと弟子たちとを囲むようにして、群衆もまたいたことでしょう。この山上の祝福、幸いである、を聴く時にまず気を付けたいことは、ここで異常なこと、非常識なことが言われていることです。「心の貧しい人々」や「悲しむ人々」がなぜ幸いなのでしょうか。「心の」とは「霊において」であってそれ自体幸いであるはずがありません。悲しむ人々もそうです。悲しみそのものに幸いの根拠は何もないのです。また、「柔和な」も、今日の交読詩編の11節の「貧しい」です。主イエスがそういうことを分からないでいい加減なことを語っておられるのではありません。既にこのとき、主イエスはご自身が十字架にかかって、私たちの罪を償うことを分かっておられたのではないでしょうか。悲しみも貧しさもすべてをひっくり返すようにして、主イエスは神からの愛・恵みをわたしたちに伝えて下さいました。だからわたしたちは、遠く及ばない倫理規範などとしてではなくて、わたしたち自身の実感として、「幸いなるかな」という現実を、主の実現してくださり、再臨のときへと約束してくださる現実を生きているのです。「幸いなるかな」と語りつつ、事実幸いを形作ってくださった主イエス・キリストの恵みに生きましょう。

2019年7月14日「最初の弟子たち」(マタイによる福音書4章18~25節)

 

 前回は宣教開始でした。今日の箇所から具体的にその内容が記されていきます。今日の箇所は、前半と後半の二つに大きく分かれています。「最初の弟子たち」(今日の説教題)は、厳密にいうと、前半だけのことです。しかしこの前半と後半とが密接に結びついており、全体にこの説教題をつけることができるのも事実です。
 まず前半をみましょう。18~22節。他の福音書と比べてみますと、マタイでは簡単に記されています。その目的を二つ申しましょう。まず第一に、主イエスの召命、招き、召しが、その本質において、とても単純であることを(他の福音書よりも更に明確に)示すためです。二番目に、二組の兄弟の差異を省くことによって、やはり、召命の本質にのみ目を向けさせます。人間をとる漁師になること。これは魚をとる漁師とは全く逆に、新しい命に生かします。実はこの箇所に(後で付けた表題を除いては)弟子という言葉はでてきません。従うという言葉だけです。ここから分かることは、主イエスの弟子になるとは、従うことであり、自分だけの救いなどということではなくて、漁師・伝道者になることです。確かに牧師や神父のように献身者はおりますが、本質的にはキリスト者になる、主イエスの弟子になるとは、主イエスの後に従って生きることです。これは、最初の弟子たちも、今のところ最後の弟子たちである私たちも同じです。このことが分からないと、自分の信仰もはっきりしません。
 後半は、23~25節。これは、9章の最後の箇所と共に枠構造になっています。この箇所で最も注目したいのは、最後の「従った」です。群衆も弟子たちと同様に従います。ここに信仰があります。

2019年7月7日「宣教開始」(マタイによる福音書4章12~17節)

前回までの箇所で、主イエスの誕生と子ども時代、更に、ヨハネから洗礼を受けて悪魔の誘惑を受けました。それでいわば、準備は終わったのですが、直ちに宣教開始ではありません。12節。まず第一に、ヨハネの逮捕が宣教開始のきっかけになります。それは当然で、主イエスの先触れ、道を整えるために現れたヨハネの活動が終わって主イエスが動き出します。第二に、捕らえられたという、主イエスの受難で頻繁に出てくる言葉が使われています。宣教開始から既に、十字架への道がはじまっています。そして第三に、「退かれた」。ヨハネを捕らえたのは、領主ヘロデですから、少し不思議な言葉が使われています。エジプト避難の時にも使われた言葉で、主イエスが人間的に前面に出て行かれたのではなくて、神の元へと退くことからはじまります。13節。地理的には幾つか面倒なことがありますが、今日は省きます。ただ、主イエスが緑豊かな村、ナザレを去って、ガリラヤ湖畔の大きな町、カファルナウムに移り住みます。このことをマタイは、旧約聖書の成就、イザヤ書の成就と捉えます。14~16節。元の文脈を気にしなければ、実に適切な引用です。洞穴の中の人々の例えを思い起こします。暗闇に住む者は、光を知りませんし、自分が暗闇に住んでいることさえ、分かりません。主イエスが来てくださった、そして今も共にいてくださるということは、光が差し込む出来事です。最後は、17節。3章2節のヨハネの言葉がそのまま用いられています。もっともその意味は、3章前半の時に申しましたように、ヨハネと主イエスでは違います。わたしたちは、ヨハネが語るような裁きを恐れる必要はありません。ただ、主イエスがくださる恵みをしっかりと生きましょう。

2019年6月30日「荒れ野の誘惑」(マタイによる福音書4章1~11節)

1節。ここに荒れ野の誘惑の意味が示されます。聖霊に導かれて。悪魔から誘惑を受けるために。ヘブライ人への手紙4章15節。その誘惑は三つです。順にみていきましょう。2~4節。霊肉二元論に陥って、「肉的なものはどうでもよい、霊的ものが大切だ」と主張しているのではありません。パンもまた必要です(主の祈りで日々祈っておりますように)。しかし、神の国から出る一つ一つの言葉によって生きることが見失われる時に、私たちは私たちの命にとって最も大切なものを失います。主イエスがここで戦われたのは、神を便利な神にしてしまう誘惑です。第二の誘惑、5~7節。「神を試みる」誘惑との戦いです。当時の社会で宗教的指導者であった律法学者とファリサイ派の人々がしるしを求める記事があります(12章38節以下)。神を試みることは、私たちが神になって、神でさえも裁く姿勢です。試みる心からは、信仰も愛も生じることはできません。第三の誘惑、8~10節。全てが手に入ったとしても、自分の命を失うならば、何の意味もありません。はたから見れば明らかなことです。しかし私たちは、何と愚かなことに、神の栄光ではなくてこの世の栄光に惑わされることでしょう。
 三つの誘惑、便利な神を求める誘惑、神を試みる誘惑、この世の栄光を求めて悪魔にひれ伏す誘惑、私たちは、弱く罪深い人間であって、これらの誘惑にいつも打ち勝つことなど、到底できません。だからこそ、こんな私たちのために主イエスは誘惑に打ち勝ち、11節。主イエスが十字架に死ななければならないほどに強く深い私たちの罪が、この出来事においても、はっきりと示されています。だからこそ、私たちの信仰によって救いに入るのではなくて、ただ主イエスの信仰、神の恵みによって救いに入るのです。

2019年6月23日「洗礼者ヨハネ」(マタイによる福音書3章1~12節)

 洗礼者ヨハネ マタイ3章1~12節 190623
まず前半、1~6節。主イエスに洗礼を授けるヨハネがどのような人物で何をしたのかが紹介されます。ヨハネは、イザヤ書に預言されている通りに、主イエスの道を整える人物です。4節の記述は、特別に敬虔な様子を描いているのではなくて、遊牧民ベドウィンのような様子、隠遁者としては普通の様子です。彼のメッセージ(の総括、2節)は、主イエスの宣教開始のメッセージ(4章17節)と同じであり、先に遣わされたヨハネと主イエスの関係の深さが示されています。前半は、ヨハネの洗礼活動が大成功であったことを語ります。これも4章25節に対応しています。
 後半は、7節前半をきっかけとして、このヨハネがした説教です。7~12節。この説教の前半の部分(9節まで)では、ユダヤ人、ことにファリサイ派やサドカイ派のような人々のもつ、出自についての誇りを打ち砕きます。「神はこんな石からでも…」と。そして後半は、最後の審判と主イエスによる洗礼・救いが複雑に重なり合ってイメージが紡がれています。まず、洗礼者ヨハネは、悔い改めに導く自分のする水による洗礼と異なり、主イエスの洗礼は、聖霊と火によるものであると述べます。そしてこの火こそが、裁きの火、最後の審判の火です。ヨハネが期待していたのは、主イエスが裁くことでした。しかしどうも様子が違うというので、洗礼者ヨハネは自分の弟子たちに確かめに行かせます(11章)。では、「火による洗礼」とは何でしょうか。本来、私たちは神の民ではありません。しかし神は、石ころからでもアブラハムの子どもたちを造り出すことがおできになる力をもって、私たち異邦人を神の民にしてくださいました。そのための裁きの火は、十字架において主イエスを死に至らしめ、そのようにして、私たちには(ヨハネの期待とは異なり)救いがもたらされました。

2019年6月23日「洗礼者ヨハネ」(マタイによる福音書3章1~12節)

 洗礼者ヨハネ マタイ3章1~12節 190623
まず前半、1~6節。主イエスに洗礼を授けるヨハネがどのような人物で何をしたのかが紹介されます。ヨハネは、イザヤ書に預言されている通りに、主イエスの道を整える人物です。4節の記述は、特別に敬虔な様子を描いているのではなくて、遊牧民ベドウィンのような様子、隠遁者としては普通の様子です。彼のメッセージ(の総括、2節)は、主イエスの宣教開始のメッセージ(4章17節)と同じであり、先に遣わされたヨハネと主イエスの関係の深さが示されています。前半は、ヨハネの洗礼活動が大成功であったことを語ります。これも4章25節に対応しています。
 後半は、7節前半をきっかけとして、このヨハネがした説教です。7~12節。この説教の前半の部分(9節まで)では、ユダヤ人、ことにファリサイ派やサドカイ派のような人々のもつ、出自についての誇りを打ち砕きます。「神はこんな石からでも…」と。そして後半は、最後の審判と主イエスによる洗礼・救いが複雑に重なり合ってイメージが紡がれています。まず、洗礼者ヨハネは、悔い改めに導く自分のする水による洗礼と異なり、主イエスの洗礼は、聖霊と火によるものであると述べます。そしてこの火こそが、裁きの火、最後の審判の火です。ヨハネが期待していたのは、主イエスが裁くことでした。しかしどうも様子が違うというので、洗礼者ヨハネは自分の弟子たちに確かめに行かせます(11章)。では、「火による洗礼」とは何でしょうか。本来、私たちは神の民ではありません。しかし神は、石ころからでもアブラハムの子どもたちを造り出すことがおできになる力をもって、私たち異邦人を神の民にしてくださいました。そのための裁きの火は、十字架において主イエスを死に至らしめ、そのようにして、私たちには(ヨハネの期待とは異なり)救いがもたらされました。

2019年6月9日「ナザレの人と」(マタイによる福音書2章19~23節)

 前回ペンテコステのために講解説教の順番からいいますと少し先になります、主イエスの洗礼の箇所をみました。今日は、少しだけ遡って、元の流れに戻ります。ヘロデは(史実として認められるかどうかは微妙ですが)二歳以下の男の子を皆殺しにします。このヘロデの治世の間にイスラエルに戻りますと危険ですから、ヘロデが死ぬまでは、主イエスはエジプトにいます。19・20節。ヘロデが亡くなったのは、紀元前四年と分かっていますから、主イエスがお生まれになったのは、それよりも前です。何年エジプトにおられたのかは(書いていないので)分かりません。主イエスの命を狙っていたのはヘロデですから、なぜ複数形(者ども)なのでしょうか。一つには、ヘロデが権力者であって、ヘロデを中心とする勢力だから複数です。しかしいま一つには、出エジプト記を模しています。主イエスがエジプトに行ったのも帰って来たのも、実は出エジプトの体験に重ね合わせることができるということです。
しかしただまっすぐにイスラエルへ、というわけにはいきません。21~23節前半。ヘロデの後を継いだのは、(ユダヤ地方に関しては)アルケラオでした。この人物は、ヘロデ大王とどちらが残酷な人かと議論になるほどひどい人物で、様々な逸話が残っています。だからヨセフは主イエスとマリアを連れてナザレ(という町?)へ行きます。
しかし最後の23節後半がよく分かりません。旧約聖書を様々な人々が一所懸命に探しましたが、該当する個所がないのです。エレミヤ書など幾つかの候補はありますし、またナザレが、神への捧げ物として聖別されたナジル人を指すという説などありますが、本当の所は分かりません。だから今日は最後に三つのことだけを申し上げて終わります。まず第一に、マタイ福音書記者は、典拠が示せなくても書いてしまう位、旧約聖書の成就としての主イエス・キリストという視点を大切にしました。第二に夢の御告げ(天使)は、主にここまでです。そして最後に、ナザレとは、都エルサレムなどと比較するとかなり田舎で、差別されていた、下に見られていた、そういう所で主イエスは育たれました(家畜小屋に生まれただけではなくて)。私たちは、主イエスが神によってどこに立たせられていたかをきちんとわきまえましょう。