これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2019年9月1日「腹を立てない生き方」(マタイによる福音書5章21~26節)

 前回は、律法に対する主イエスの基本的な姿勢が述べられていました。今日から、反対命題になります。六つの反対命題が述べられた後、当時のユダヤで三つの徳とされた施し・祈り・断食についての教えです。今日は一つ目の反対命題をみます。最初に律法としてよく知られている言葉があげられます。21節。そして主イエスは、「しかし私は言う」と仰って、更に厳しいことを語ります。22節。「殺す」ことは、人間関係の究極的な否定です。相手との関係をただ絶つだけではなくて、相手の存在自体を否定するのですから。しかしそれ以前の事柄として、腹を立てる、「ばか」という、「愚か者」という、の三つを主イエスは語ります。これは、特に段階があるわけではなくて、そういう事柄、心の中で思ったり相手に否定的な言葉を投げかけることがいけないのだと読むこともできます。また、三つの段階を考えることもできます(心の内での否定、人間関係のこと、神関係のこと)。いずれにせよ、主イエスは殺人よりもはるか手前で、神の御心と私たちの現実の乖離・ずれ・違いを教えてくださいます。
 しかし私たちの現実として、他者に「ばか」とか「愚か者」といった言葉を投げかけないことはできるとしても、腹を立てないことなどできるのでしょうか。中にはとても温厚で、そもそも人に腹を立てないモノの考え方のできる方もおられるでしょう。しかし、「それは無理だ」という方が(私もそうですが)多いのではないかと思います。今回、「腹を立てない生き方」という説教題にしました。それで、このことを思い巡らしましたがやはり難しいと思います。後半、23~26節。ここで主イエスはそもそも腹を立てない生き方そのものを求めておられのではなくて、それどころか、兄弟と絶対に波風を立てないで穏便に生きることを求めておられるのでさえなくて、仲直りと和解を求めておられる。義憤や正義の問題でさえ、主イエスがこの箇所で語られている課題ではありません。私たちにできることは、自分自身が腹を立ててしまうときに、神の裁きを思い、悔い改めることです。自分が正義のものさしである神ではないことに思いを馳せることです。

2019年8月25日「完成するために」(マタイによる福音書5章17~20節)

    前回、私たちが、何の功績もなくても、ただ主イエスの弟子であるというだけで、既に地の塩・世の光だという聖書箇所でした。今日から、律法に関する箇所に入ります。私たちはキリスト者になったからといって、ユダヤ教の律法を遵守したりはしません(一部の異端と正統のすれすれにあるキリスト教は別として)。祭儀律法などは、ほぼ無視、それどころか、そもそも知らなかったりするのではないでしょうか。ところが主イエスは、17節。律法や預言者とは、旧約聖書のことですが、中心は律法でしょう。18節。律法は神が与えて下さった掟です。イスラエル・神の民は、この掟を守り、神はその者たちを神の民として恵みの内に置く。そういう契約です。モーセのときに、本格的に律法は与えられましたが、その最初からイスラエルは神に逆らいました(参照、金の子牛の像事件)。旧約聖書は、神の民が神を裏切り、神に叱られて神のもとへ帰る、その繰り返しです。その最後に、神は、イエス・キリストを与えて、律法をどうしても守ることができない私たち人間を救おうとなさいました。しかしそれは、律法を廃止することではないと主イエスは念を押されるのです。19節。ここで注目したいのは、たとえ最も小さな掟を一つでも破り、またそれを勧める者があったとしても、その者は確かに天の国で最も小さい者と呼ばれるとしても、天の国から締め出されてはいない、排除されてはいないことです。むしろ天の国に入れるかどうかの問題は、最後の節が語ります。20節。主イエスが、功績ではなくて、ただ主イエスを信じる信仰によって私たちを義とし救う。この神の救いを信じる信仰による義こそ、律法学者やファリサイ派の人々の義、行いによって獲得しようとする義にまさります。

2019年8月11日「地の塩である」(マタイによる福音書5章13~16節)

p>今日の聖書箇所で、まず大切なことは、主イエスが「あなたがたは地の塩(世の光)である」と断言しておられることです。ここに理想や目標を見いだすのは間違っています。主イエスは、「地の塩(世の光)になりなさい」とは、仰いません。これはどういう意味でしょうか。私たちは、自分が地の塩だとか世の光だなどと考えることはとてもできません。しかし主イエスはそう宣言してくださいます。このギャップ、私たちが私たち自身をみて評価する現実と、主イエスが私たちを見て宣言してくださる現実のギャップをきちんとわきまえることが大切です。そうでないと、罪を犯すことになります。私はとても自分を地の塩(世の光)などとは思えないけれども、主イエスはそのようにみてくださっている、主イエスの眼差しにおいてはそうなのだ、この現実に生きるときに、私たちは、まさに地の塩(世の光)として生きることになるのです。
 塩は目立ってはいけません。光は(まぶしさに目が眩むほどに輝いてはいけませんが)輝いて闇に光をもたらします。私たちの現実が塩のように目立たないが大切なものであれ、光のように目立つものであれ、それはどちらでもよい。この世界に、よい働きをなすものであればよい(例えばコロサイ4章6節)。
 その結果は、16節。私たちの立派な(良い・美しい)行いは、それによって私たちがほめたたえられるようでは間違っています。私たちの行いの根底にある、神をほめたたえ、あがめる。ここで前回の「迫害」との緊張関係を見ておきましょう…。世の反応がどちらであれ、私たちが地の塩・世の光として生きることができるように十字架に至るこの地上の歩みを生きられた主イエスを証する私たちでありましょう。

2019年8月4日「平和を実現する」(イザヤ書2章1~4節、マタイによる福音書5章9節)

 今日は日本基督教団では平和聖日です。そして丁度山上の説教の最初、山上の祝福をみていますので、今日は9節の御言葉に集中しましょう。また、神の与えてくださる平和がどのようなものであるのか、イザヤ書からも聴きます。
 この9節の祝福を聞いて、「ああこれは私のことだ」と思える方は少ないのではないかと思います。「平和の大切さは分かっている、しかし自分は無力で『平和を実現する』ことなどできない」。では主イエスは、私たちの多くが、「それは私のことではない」と感じるしかないごく少数の方々のためにこの祝福を語ったのでしょうか。もちろんそうではありません。まず、主イエスご自身が、柔和な方として、この平和を--決して人を滅ぼそうとしない、力によらない歩みとして--実現して下さいました。この世界で多くの方が信じている「力による平和」の脆さ・弱さをよく分かってらして、神の与えてくださる真実の平和を生き抜きました。神はどのような平和をどのようにして与えてくださるのでしょう。イザヤ書2章1~4節。これは終末・再臨のときのことです。剣を鋤に、槍を鎌に打ち直すような歩みは、まだできていません。しかしそれならば、私たちは、終末・再臨の時をただ待つのでしょうか。待ち続けることも確かにとても大切なことです。しかしそれだけではありません。主イエスが事実、神の与えてくださる平和を生き抜いたように、私たちもまた、どんなに小さいたどたどしい歩みでしかないとしても、「平和を実現する」歩みを、主イエスに倣ってなしていくことができます。その第一歩は、自分の中にある罪・悪と戦うことです。自分の中から平和ではなくて争いが起こってしまうのをとめることです。さあ、平和を実現しましょう。神が望んでおられるのですから。

2019年7月28日「迫害の喜び」(マタイによる福音書5章1~12節)

 前回大まかに「山上の祝福」の全体をみました。今日は最後の迫害の話に集中しましょう。10節。まず注目すべきは、3節との関連です。後半が同じです。それだから、3節と10節は同じ中身だという方もおられます。しかし、(確かに山上の祝福全体が同じ人物--主イエス・キリスト、そしてその御後に従う私たちを指しているのは事実ですが)、3節が神との関わりにおける、貧しさ・乏しさ(とその自覚)を指しているのに対して、10節は、この神の義のために迫害されることです。どちらも天の国(神の支配、永遠の命)を与えられることは同じです。また神との関係の貧しさは、神の義に飢え渇くことになり(6節)、それゆえに、迫害に繋がるかもしれませんが、それ自体は異なる事柄でしょう。しかもこの最後の祝福は、更に2節も言葉が紡がれています。11・12節。今まで、「その人たちは」と三人称で語られてきたものが、ここで「あなたがたは」と二人称になります。「自分は…だろうか」と考えるよりも前に、「これはあなた(がた)自身のことだ」と迫られます。主イエスから福音を聞き、この福音を無視して、なかったように生きるのではなくて、この福音に生きようとするときに、それは迫害されることになります(今日の説教題に関して)。なぜなら、神の言葉・福音・神の義は、それ自体力をもって迫ってくるものだからです。毒にも薬にもならないコトバであれば、だれも反発して迫害などしません。本当に現実を変えていく力があるから、「身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる」のです。そのとき、私たちは嘆き悲しむのではなくて、大いに喜ぶべきです。この世的・人間的には異常なことです。しかし神の国を視野に入れるとき、それは喜びとなります。

2019年7月21日「主の幸いを生きる」(マタイによる5章1~12節①)

 前回、最初の弟子たちが招かれました。そして後半は、9章の最後と共に、5~7章(主の教え)と8.9章(主の行い)とを囲んでいます。今回は、山上の説教の最初にあります山上の祝福を三回で読みます。1・2節。ラビが弟子たちに教える時のように主イエスは語ります。しかし弟子たちだけが対象なのではなくて、更に主イエスと弟子たちとを囲むようにして、群衆もまたいたことでしょう。この山上の祝福、幸いである、を聴く時にまず気を付けたいことは、ここで異常なこと、非常識なことが言われていることです。「心の貧しい人々」や「悲しむ人々」がなぜ幸いなのでしょうか。「心の」とは「霊において」であってそれ自体幸いであるはずがありません。悲しむ人々もそうです。悲しみそのものに幸いの根拠は何もないのです。また、「柔和な」も、今日の交読詩編の11節の「貧しい」です。主イエスがそういうことを分からないでいい加減なことを語っておられるのではありません。既にこのとき、主イエスはご自身が十字架にかかって、私たちの罪を償うことを分かっておられたのではないでしょうか。悲しみも貧しさもすべてをひっくり返すようにして、主イエスは神からの愛・恵みをわたしたちに伝えて下さいました。だからわたしたちは、遠く及ばない倫理規範などとしてではなくて、わたしたち自身の実感として、「幸いなるかな」という現実を、主の実現してくださり、再臨のときへと約束してくださる現実を生きているのです。「幸いなるかな」と語りつつ、事実幸いを形作ってくださった主イエス・キリストの恵みに生きましょう。

2019年7月14日「最初の弟子たち」(マタイによる福音書4章18~25節)

 

 前回は宣教開始でした。今日の箇所から具体的にその内容が記されていきます。今日の箇所は、前半と後半の二つに大きく分かれています。「最初の弟子たち」(今日の説教題)は、厳密にいうと、前半だけのことです。しかしこの前半と後半とが密接に結びついており、全体にこの説教題をつけることができるのも事実です。
 まず前半をみましょう。18~22節。他の福音書と比べてみますと、マタイでは簡単に記されています。その目的を二つ申しましょう。まず第一に、主イエスの召命、招き、召しが、その本質において、とても単純であることを(他の福音書よりも更に明確に)示すためです。二番目に、二組の兄弟の差異を省くことによって、やはり、召命の本質にのみ目を向けさせます。人間をとる漁師になること。これは魚をとる漁師とは全く逆に、新しい命に生かします。実はこの箇所に(後で付けた表題を除いては)弟子という言葉はでてきません。従うという言葉だけです。ここから分かることは、主イエスの弟子になるとは、従うことであり、自分だけの救いなどということではなくて、漁師・伝道者になることです。確かに牧師や神父のように献身者はおりますが、本質的にはキリスト者になる、主イエスの弟子になるとは、主イエスの後に従って生きることです。これは、最初の弟子たちも、今のところ最後の弟子たちである私たちも同じです。このことが分からないと、自分の信仰もはっきりしません。
 後半は、23~25節。これは、9章の最後の箇所と共に枠構造になっています。この箇所で最も注目したいのは、最後の「従った」です。群衆も弟子たちと同様に従います。ここに信仰があります。