これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2019年9月22日「完全な者となれ」(マタイによる福音書5章38~48節)

 今回も反対命題です。今日は五つ目と六つ目、更には反対命題の全体をまとめる、「完全な者となりなさい」という勧めです。今日の聖書箇所は、私自身の教会へ行くようになったきっかけの部分ですが、証ではないのでそれは省きます(いつかそういう機会のときに)。前半は、同害報複法のことです。38~42節。現代の私達からみますと、とても残酷なことのようですが、もちろん、復讐が大きくなっていくのを阻止しようとしています。とても合理的な考え方であって、現代においても、損害賠償という形で基本的にはこの考え方に近いといえるでしょう。しかし主イエスは、そういう損得で生きる所からそもそも抜け出しなさい、私達が福音信仰に生きるならば、抜け出していくことができるのですよ、と、教えて下さいます。もちろん、基本的人権は大切です。ときに、きちんと権利を主張することの大切さを否定するものではありません。しかし倍を与えることによって、「しいて」の窮屈な屈辱的な世界から自由になります。
 更に「敵を愛する」。43~47節。敵をも愛する愛を生きようとしない時、私達は実は自明のことだと思っている仲間・味方への愛さえも不完全で不自然なものです。主イエスはどのような意味で、48節のように「完全な者となれ」と仰っておられるのでしょう。47節までにそのヒントがあります。神は45節です。神は善人にだけ恵みを与えられる方ではない。このことが自分への励まし・慰めだと分かる時(自分が本来は裁かれるはずの罪人だと分かる時)、私達は,神の完全によって救われ、それゆえ私達も(不完全ながらも)この神の完全を生きるのです。反対命題は、律法としてではなくて、福音の言葉として与えられています。私達を、この世界で生き続けるように、おおきな問いの前に立たせて下さいます。

2019年9月15日「誓いを立てない」(マタイによる福音書5章33~37節)

 今回も反対命題です。今日は四つ目です。前回同様、「一切誓いを立ててはならない」と、かなり厳しいことが言われます。最初に今までの命題との二つの違いをみましょう。一つ目は、反対命題のもとになる、「あなたがたも聞いている」ことの中身が旧約聖書には、そのままの形ではないことです。33節。深い理由はなく、当時このように幾つかの戒めがまとめられていたのでしょう。いま一つは、現代においては、今までの反対命題と異なり、あまり切実さがないのではないでしょうか。私たちが誓いを立てるのは、裁判とか洗礼とか結婚とか特別な時であって、日常生活に誓いを立てるような場面はありません。だから、あまり身近ではないと感じるのも無理もないです。主イエスの当時は異なりました。34~36節。自分の語る言葉に重みと信頼をもたせるために、色々なものにかけて誓っていたそうです(誓いには、約束と確言の二つの意味があります)。天、地、エルサレムは、当時、主イエスと同じように否定的に捉える人々もいました。特徴は、36節です。私たち人間もまた、神によって作られた被造物なのだから、かけて誓うことはできません。だから、37節。私たちは誓うのではなくて、肯定か否定、「はい」か「いいえ」のどちらか、です。

 しかし現実には誓わなければならない場面もあります。どうしたらよいのでしょうか。一つは、一部の教派の方々のように、厳密にこの主イエスの言葉を捉えて、誓いを拒否するやり方です。これも立派に筋の通った仕方でしょう。しかし一般的には、誓わないときの私たちの言葉をいい加減なものにしないで、神の僕に相応しく一つひとつの言葉をきちんと語ることだと捉えます。誓いを立てる時と、日常会話の時で、言葉の重さを変えるのではなくて、いつでも主イエスの弟子たちとして、語ることです。そのとき、神は主イエスの十字架のゆえに私たちの罪をお赦しになって、本来軽い私たちの言葉を重く用いてくださいます。

2019年9月8日「健やかに生きる」(マタイによる福音書5章27~32節)

 前回は、最初の反対命題でした。今日は二つ目と三つです。前回同様、かなり厳しいことが言われます。一つ目の「姦淫」は、実際にしなくても、みだらな思いで見る者は犯したことになるといいます。27・28節。更につまずきをもたらす、目や手を捨てることが語られます。29・30節。二つ目の離縁についても同様です。31・32節。男尊女卑の社会で、男たちは、妻が気に入らなくなると捨てました。それに対して、福祉的な規定として、単に捨てるのではなくて、きちんと離縁状を出して、女性を自由にすることが求められました。しかしこれも、主イエスは、(別の箇所で)あなた方があまりにも頑なだからそう規定されたのだと言います。離婚について、カトリックでは認められないが、プロテスタントでは自由に離婚できるという理解もあります。しかし、本来キリスト教では離婚はありえないことです。ただ、カトリックが結婚も七つの秘跡(サクラメント)に数えているのに対して、私たちプロテスタントでは結婚は秘跡ではない(洗礼と聖餐のみ)ので、神の前に懺悔しつつ離婚することはあります。なぜ姦淫がだめなのかといえば、女性をモノ扱いする社会において、財産の一つである女性(妻)を奪う、ヒトのものを盗むことになる、からでした。しかし、主イエスは、そうではなくて、神が定めた創造の秩序として、このことを捉えます(19章)。今日は説教題を「健やかに生きる」としました。どこでどのように私たちは健やかに生きることができるのでしょうか。外側にある、私たちを縛る掟としての律法ではなくて、私たち自身が自分の中に神の御心を自分の心とする思いで生きるところではないでしょうか。「殺すな」でも「姦淫するな」でも、全て神の掟は、私たちが自分を外側から縛るものとして捉える時には、窮屈な掟です。しかし、神の御心を思うとき、私たちは喜んで律法を内面化してもっと厳しく語る主イエスの言葉を喜んで受け止めることができます。ここでこそ、私たち人間は本来の神がお造りになった姿で神のものとして生きることができるのですから。

2019年9月1日「腹を立てない生き方」(マタイによる福音書5章21~26節)

 前回は、律法に対する主イエスの基本的な姿勢が述べられていました。今日から、反対命題になります。六つの反対命題が述べられた後、当時のユダヤで三つの徳とされた施し・祈り・断食についての教えです。今日は一つ目の反対命題をみます。最初に律法としてよく知られている言葉があげられます。21節。そして主イエスは、「しかし私は言う」と仰って、更に厳しいことを語ります。22節。「殺す」ことは、人間関係の究極的な否定です。相手との関係をただ絶つだけではなくて、相手の存在自体を否定するのですから。しかしそれ以前の事柄として、腹を立てる、「ばか」という、「愚か者」という、の三つを主イエスは語ります。これは、特に段階があるわけではなくて、そういう事柄、心の中で思ったり相手に否定的な言葉を投げかけることがいけないのだと読むこともできます。また、三つの段階を考えることもできます(心の内での否定、人間関係のこと、神関係のこと)。いずれにせよ、主イエスは殺人よりもはるか手前で、神の御心と私たちの現実の乖離・ずれ・違いを教えてくださいます。
 しかし私たちの現実として、他者に「ばか」とか「愚か者」といった言葉を投げかけないことはできるとしても、腹を立てないことなどできるのでしょうか。中にはとても温厚で、そもそも人に腹を立てないモノの考え方のできる方もおられるでしょう。しかし、「それは無理だ」という方が(私もそうですが)多いのではないかと思います。今回、「腹を立てない生き方」という説教題にしました。それで、このことを思い巡らしましたがやはり難しいと思います。後半、23~26節。ここで主イエスはそもそも腹を立てない生き方そのものを求めておられのではなくて、それどころか、兄弟と絶対に波風を立てないで穏便に生きることを求めておられるのでさえなくて、仲直りと和解を求めておられる。義憤や正義の問題でさえ、主イエスがこの箇所で語られている課題ではありません。私たちにできることは、自分自身が腹を立ててしまうときに、神の裁きを思い、悔い改めることです。自分が正義のものさしである神ではないことに思いを馳せることです。

2019年8月25日「完成するために」(マタイによる福音書5章17~20節)

    前回、私たちが、何の功績もなくても、ただ主イエスの弟子であるというだけで、既に地の塩・世の光だという聖書箇所でした。今日から、律法に関する箇所に入ります。私たちはキリスト者になったからといって、ユダヤ教の律法を遵守したりはしません(一部の異端と正統のすれすれにあるキリスト教は別として)。祭儀律法などは、ほぼ無視、それどころか、そもそも知らなかったりするのではないでしょうか。ところが主イエスは、17節。律法や預言者とは、旧約聖書のことですが、中心は律法でしょう。18節。律法は神が与えて下さった掟です。イスラエル・神の民は、この掟を守り、神はその者たちを神の民として恵みの内に置く。そういう契約です。モーセのときに、本格的に律法は与えられましたが、その最初からイスラエルは神に逆らいました(参照、金の子牛の像事件)。旧約聖書は、神の民が神を裏切り、神に叱られて神のもとへ帰る、その繰り返しです。その最後に、神は、イエス・キリストを与えて、律法をどうしても守ることができない私たち人間を救おうとなさいました。しかしそれは、律法を廃止することではないと主イエスは念を押されるのです。19節。ここで注目したいのは、たとえ最も小さな掟を一つでも破り、またそれを勧める者があったとしても、その者は確かに天の国で最も小さい者と呼ばれるとしても、天の国から締め出されてはいない、排除されてはいないことです。むしろ天の国に入れるかどうかの問題は、最後の節が語ります。20節。主イエスが、功績ではなくて、ただ主イエスを信じる信仰によって私たちを義とし救う。この神の救いを信じる信仰による義こそ、律法学者やファリサイ派の人々の義、行いによって獲得しようとする義にまさります。

2019年8月11日「地の塩である」(マタイによる福音書5章13~16節)

p>今日の聖書箇所で、まず大切なことは、主イエスが「あなたがたは地の塩(世の光)である」と断言しておられることです。ここに理想や目標を見いだすのは間違っています。主イエスは、「地の塩(世の光)になりなさい」とは、仰いません。これはどういう意味でしょうか。私たちは、自分が地の塩だとか世の光だなどと考えることはとてもできません。しかし主イエスはそう宣言してくださいます。このギャップ、私たちが私たち自身をみて評価する現実と、主イエスが私たちを見て宣言してくださる現実のギャップをきちんとわきまえることが大切です。そうでないと、罪を犯すことになります。私はとても自分を地の塩(世の光)などとは思えないけれども、主イエスはそのようにみてくださっている、主イエスの眼差しにおいてはそうなのだ、この現実に生きるときに、私たちは、まさに地の塩(世の光)として生きることになるのです。
 塩は目立ってはいけません。光は(まぶしさに目が眩むほどに輝いてはいけませんが)輝いて闇に光をもたらします。私たちの現実が塩のように目立たないが大切なものであれ、光のように目立つものであれ、それはどちらでもよい。この世界に、よい働きをなすものであればよい(例えばコロサイ4章6節)。
 その結果は、16節。私たちの立派な(良い・美しい)行いは、それによって私たちがほめたたえられるようでは間違っています。私たちの行いの根底にある、神をほめたたえ、あがめる。ここで前回の「迫害」との緊張関係を見ておきましょう…。世の反応がどちらであれ、私たちが地の塩・世の光として生きることができるように十字架に至るこの地上の歩みを生きられた主イエスを証する私たちでありましょう。

2019年8月4日「平和を実現する」(イザヤ書2章1~4節、マタイによる福音書5章9節)

 今日は日本基督教団では平和聖日です。そして丁度山上の説教の最初、山上の祝福をみていますので、今日は9節の御言葉に集中しましょう。また、神の与えてくださる平和がどのようなものであるのか、イザヤ書からも聴きます。
 この9節の祝福を聞いて、「ああこれは私のことだ」と思える方は少ないのではないかと思います。「平和の大切さは分かっている、しかし自分は無力で『平和を実現する』ことなどできない」。では主イエスは、私たちの多くが、「それは私のことではない」と感じるしかないごく少数の方々のためにこの祝福を語ったのでしょうか。もちろんそうではありません。まず、主イエスご自身が、柔和な方として、この平和を--決して人を滅ぼそうとしない、力によらない歩みとして--実現して下さいました。この世界で多くの方が信じている「力による平和」の脆さ・弱さをよく分かってらして、神の与えてくださる真実の平和を生き抜きました。神はどのような平和をどのようにして与えてくださるのでしょう。イザヤ書2章1~4節。これは終末・再臨のときのことです。剣を鋤に、槍を鎌に打ち直すような歩みは、まだできていません。しかしそれならば、私たちは、終末・再臨の時をただ待つのでしょうか。待ち続けることも確かにとても大切なことです。しかしそれだけではありません。主イエスが事実、神の与えてくださる平和を生き抜いたように、私たちもまた、どんなに小さいたどたどしい歩みでしかないとしても、「平和を実現する」歩みを、主イエスに倣ってなしていくことができます。その第一歩は、自分の中にある罪・悪と戦うことです。自分の中から平和ではなくて争いが起こってしまうのをとめることです。さあ、平和を実現しましょう。神が望んでおられるのですから。