これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2019年10月20日「赦しを生きる」(マタイによる福音書6章11~15節)

 主イエスは主の祈りを教えます。前半の部分では、神・天に関する祈りでした(もっとも実はそれ自体が私達の地上の生活と深く関わっていますが)。今日は後半、私達人間・地上のことで、三つの祈りからなります。糧を求める祈り、負い目を赦してくださいという祈り、そして、誘惑を避けて悪い者(サタン、誘惑する者)からの救いを求める祈りです。特に二つ目の赦しということに今日は集中します。この二つ目の祈りは、まず第一に決して特別な特殊な時の祈りなのではなくて、第一の祈り(必要な糧を求める祈り)と同様に、実は私達が信仰者として生きていく上でどうしても必要なことです。神の前で私達は負い目・罪を赦されています。いや、私達が罪を犯すごとに、主イエスの十字架において、この私(達)の負い目・罪が赦され続けています。このことを本当に深く自覚するならば、私達は、赦さないでただ批判的に人の罪を問い続けるだけの歩みが、どれほどキリストの十字架と復活に反することであるかに気が付きます。14・15節は父なる神に赦して頂くための条件のように読めます。確かに素直に読めばそうです。しかし事実は逆です。十字架において自分の罪・負い目が赦されたからこそ、私達は自分への負い目のある(相手はそう思ってさえいないかもしれませんが)方を赦すことができます。少なくとも赦そうとする戦いを自分の心においてなすことができます。赦さない・赦せない限り、私達はいつも、その事柄に縛られ続けて自由になることはできません。十字架のゆえに、私達が、裁きの心から解き放たれて赦しを生きる時にはじめて、私達は救われた自由・解放を生きます。さあ、私達は憎しみや恨みや裁きの心で生きるのをやめて、赦しを生きましょう。赦されたのですから。

2019年10月13日「こう祈りなさい」(マタイによる福音書6章9~10節)

主イエスは祈りについて教える後半で、主の祈りを教えます。今日はその前半の部分、神・天に関する祈りです(次回後半、私達人間・地上のこと)。主イエスは、「こう祈りなさい」と仰って、主の祈りを語ります。9節前半。まず神への呼びかけの言葉です。元のギリシア後の語順では、父よ、私達の、天におられる、です。神への祈りでありながら、「神」という言葉は出てきません。私達は、天の神を「父」と呼んでよいのです(ロマ8・15、ガラテヤ4・6)。あまりにも日常化してしまって、この呼びかけに驚きを感じなくなってしまっているかもしれません。しかしこれはやはり驚くべきことです。また、「私の」ではなくて、「私達の」です。呼びかけから既に、私達は主の祈りを連帯性において祈ります。そして神がおられる場所は、天です。
 9節後半。これは、福音の要約と言われる主の祈りの中でも、日本語では最も誤解されやすい祈りです。元の言葉では、「神の名が聖なるものとされますように」です。もちろん日本語訳のように、「崇められる」という意味もありますが、それ以上に、私達人間の罪によって、汚れてしまっている神の名を、神様ご自身が聖なるものとして聖別していてください、神の名が聖なるものであると私達が分かるようにして下さいと言うことです。神の聖性を見失いがちな私達がきちんとわきまえるように聖霊によって助けて下さい。
 10節前半。これには、二重の意味があります。現在と終末と。主イエスは洗礼者ヨハネと同様、「悔い改めよ。天の国は近づいた」(4章17節)と福音を語り始められました。私達は現在既に私達に到来している神の支配を喜んで生きると共に、完全な形で神の支配の来る終末を待ち望みます。
 10節後半。この祈りの前提となっているのは、天においては、神の意志の通りになっているということ、またこの地上では(私達人間の罪のゆえに)神の意志に反することが起こっていることです。私達は、天における神の意志をどこでどのように知るのでしょうか。ルカ15章に示されているように、私達の救いは天における神の大きな喜びです。「御心」が具体的に分からないときでも、神の決定的な「御心」が既に主イエスの十字架と復活によって示されています。

 

2019年10月6日「真実の祈り」(マタイによる福音書6章5~8節)

 現在私達は山上の説教の中で、施し・祈り・断食についての教えを学んでいます。一つ目の施しと同様に、この二つ目の祈りにおいても、偽善者がするように、見せびらかさないことの大切さが語られています。5節。人々に見せる祈りは、既に人々から報いを受けてしまっている。だから神からの報いは期待できない。だから、6節。人々から隠れて(もしかすると自分さえ隠れて)祈る。そこに真実の祈りがある。
 今日は説教題を「真実の祈り」と致しました。真実の祈りとは何か。説教題を決めました私自身が困惑しています。ともすると私達は、偽善者のように、人々に見せる祈りは神の報いを受けることのない真実でない祈りだということは分かっても、それならば自分の密室の祈りは真実であるのかと問うならば、「確かにそうだ」と傲慢に言い切ることも、「いや全くそうなっていない」とうそぶくことも違うのではないでしょうか。7・8節。当時祈りもまた、施しや断食と並んで、大切な「善行」に数えられていました。だから、自分の功績として、祈りもまた数えてしまいます。しかし主イエスはそのような祈りは、必要ない、と仰います。くどくどと言葉数多い必要はない。なぜならば、父なる神は、私達が願うよりも前に、私達の必要なものをご存じなのだから。私達は、「祈らなければならない」という拘束からこの主の言葉によって自由にされるのです。それではもはや祈りは必要のない、どうでもよいものなのでしょうか。断じてそうではありません。だから主イエスは、この言葉に続いてすぐに(次回の箇所)主の祈りを教えてくださいます。祈りとは、私達の必要を神に知らせ伝えるもの(そこでは多くの場合、神を私達の召使にしてしまう)ではありません。そうではなくて、神が神であられ、私達の罪が確かに十字架において許されていること、神は私達の父として私達の必要を既に知っておられ、備えて下さることを知る、そのような神との生きた交わりです。私達は祈りという事柄に縛られるのではなくて、祈りというところで励まされ力づけられて、キリスト者として歩みましょう。

2019年9月29日「神は報いられる」(マタイによる福音書6章1~4節)

 前回まで幾つもの反対命題でありました。私達が、この世界でキリスト者として生き続けることができるように、厳しくも福音である大きな問いの前に立たされました。今日から、新しい単元に入ります。18節までで、三つの徳・三つの義について教えておられます。施し・祈り・断食です。当時のユダヤでは、この三つの事柄こそが、神の民として大切に行うべき事柄でした。1節は、全体の表題です。善行は善行です。よくキリスト教は御利益宗教ではないから、報いを求めるべきではないという議論がなされます。しかし、本当の報い、消えることのない報い、尊い報いを神様から頂くために、この世界でヒトから与えられる報いを重んじないことが大切であって、報いそのものを主イエスは否定なさいません。
 まず、施しです。2節。このラッパを吹き鳴らすというのは、大げさに見せびらかすことの比喩と読むこともできます。が、当時、実際にそういう風習があったようです。本人が喜べるように、また周りの人々にもそのような施すという気持ちが起こるようにということでしょう。しかし主イエスは仰います(しかも「はっきり」)、既に報いを受けているから、神からの報いは期待できないのだと。隠れたところで、人に知られないように行わなければ、神は報いてくださらない、報いは残っていない。
 最後、3・4節。3節は、様々な読み方がされてきました。物理的には不可能なことだからです。恐らく、自分が行う施しを善行だと意識しないほどに自然に行うということです。神は、隠れたことを見ておられます、善いことも悪いことも全て。私達が施しをはじめとする善行を行い、その報いがあるはずだ、なければ不満だと感じるとき、私達はまだ報いを受けたがる思いから自由になっていません。そういう浅ましい思いから私達が解き放たれて、神の子として生きることができるように、主イエスは十字架に死んでくださったのです。

2019年9月22日「完全な者となれ」(マタイによる福音書5章38~48節)

 今回も反対命題です。今日は五つ目と六つ目、更には反対命題の全体をまとめる、「完全な者となりなさい」という勧めです。今日の聖書箇所は、私自身の教会へ行くようになったきっかけの部分ですが、証ではないのでそれは省きます(いつかそういう機会のときに)。前半は、同害報複法のことです。38~42節。現代の私達からみますと、とても残酷なことのようですが、もちろん、復讐が大きくなっていくのを阻止しようとしています。とても合理的な考え方であって、現代においても、損害賠償という形で基本的にはこの考え方に近いといえるでしょう。しかし主イエスは、そういう損得で生きる所からそもそも抜け出しなさい、私達が福音信仰に生きるならば、抜け出していくことができるのですよ、と、教えて下さいます。もちろん、基本的人権は大切です。ときに、きちんと権利を主張することの大切さを否定するものではありません。しかし倍を与えることによって、「しいて」の窮屈な屈辱的な世界から自由になります。
 更に「敵を愛する」。43~47節。敵をも愛する愛を生きようとしない時、私達は実は自明のことだと思っている仲間・味方への愛さえも不完全で不自然なものです。主イエスはどのような意味で、48節のように「完全な者となれ」と仰っておられるのでしょう。47節までにそのヒントがあります。神は45節です。神は善人にだけ恵みを与えられる方ではない。このことが自分への励まし・慰めだと分かる時(自分が本来は裁かれるはずの罪人だと分かる時)、私達は,神の完全によって救われ、それゆえ私達も(不完全ながらも)この神の完全を生きるのです。反対命題は、律法としてではなくて、福音の言葉として与えられています。私達を、この世界で生き続けるように、おおきな問いの前に立たせて下さいます。

2019年9月15日「誓いを立てない」(マタイによる福音書5章33~37節)

 今回も反対命題です。今日は四つ目です。前回同様、「一切誓いを立ててはならない」と、かなり厳しいことが言われます。最初に今までの命題との二つの違いをみましょう。一つ目は、反対命題のもとになる、「あなたがたも聞いている」ことの中身が旧約聖書には、そのままの形ではないことです。33節。深い理由はなく、当時このように幾つかの戒めがまとめられていたのでしょう。いま一つは、現代においては、今までの反対命題と異なり、あまり切実さがないのではないでしょうか。私たちが誓いを立てるのは、裁判とか洗礼とか結婚とか特別な時であって、日常生活に誓いを立てるような場面はありません。だから、あまり身近ではないと感じるのも無理もないです。主イエスの当時は異なりました。34~36節。自分の語る言葉に重みと信頼をもたせるために、色々なものにかけて誓っていたそうです(誓いには、約束と確言の二つの意味があります)。天、地、エルサレムは、当時、主イエスと同じように否定的に捉える人々もいました。特徴は、36節です。私たち人間もまた、神によって作られた被造物なのだから、かけて誓うことはできません。だから、37節。私たちは誓うのではなくて、肯定か否定、「はい」か「いいえ」のどちらか、です。

 しかし現実には誓わなければならない場面もあります。どうしたらよいのでしょうか。一つは、一部の教派の方々のように、厳密にこの主イエスの言葉を捉えて、誓いを拒否するやり方です。これも立派に筋の通った仕方でしょう。しかし一般的には、誓わないときの私たちの言葉をいい加減なものにしないで、神の僕に相応しく一つひとつの言葉をきちんと語ることだと捉えます。誓いを立てる時と、日常会話の時で、言葉の重さを変えるのではなくて、いつでも主イエスの弟子たちとして、語ることです。そのとき、神は主イエスの十字架のゆえに私たちの罪をお赦しになって、本来軽い私たちの言葉を重く用いてくださいます。

2019年9月8日「健やかに生きる」(マタイによる福音書5章27~32節)

 前回は、最初の反対命題でした。今日は二つ目と三つです。前回同様、かなり厳しいことが言われます。一つ目の「姦淫」は、実際にしなくても、みだらな思いで見る者は犯したことになるといいます。27・28節。更につまずきをもたらす、目や手を捨てることが語られます。29・30節。二つ目の離縁についても同様です。31・32節。男尊女卑の社会で、男たちは、妻が気に入らなくなると捨てました。それに対して、福祉的な規定として、単に捨てるのではなくて、きちんと離縁状を出して、女性を自由にすることが求められました。しかしこれも、主イエスは、(別の箇所で)あなた方があまりにも頑なだからそう規定されたのだと言います。離婚について、カトリックでは認められないが、プロテスタントでは自由に離婚できるという理解もあります。しかし、本来キリスト教では離婚はありえないことです。ただ、カトリックが結婚も七つの秘跡(サクラメント)に数えているのに対して、私たちプロテスタントでは結婚は秘跡ではない(洗礼と聖餐のみ)ので、神の前に懺悔しつつ離婚することはあります。なぜ姦淫がだめなのかといえば、女性をモノ扱いする社会において、財産の一つである女性(妻)を奪う、ヒトのものを盗むことになる、からでした。しかし、主イエスは、そうではなくて、神が定めた創造の秩序として、このことを捉えます(19章)。今日は説教題を「健やかに生きる」としました。どこでどのように私たちは健やかに生きることができるのでしょうか。外側にある、私たちを縛る掟としての律法ではなくて、私たち自身が自分の中に神の御心を自分の心とする思いで生きるところではないでしょうか。「殺すな」でも「姦淫するな」でも、全て神の掟は、私たちが自分を外側から縛るものとして捉える時には、窮屈な掟です。しかし、神の御心を思うとき、私たちは喜んで律法を内面化してもっと厳しく語る主イエスの言葉を喜んで受け止めることができます。ここでこそ、私たち人間は本来の神がお造りになった姿で神のものとして生きることができるのですから。