これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2019年11月10日「まず求むべきもの」(マタイによる福音書6章25~34節)

 前回は、神への眼差しに生きる、私達が神と神でない何かに同時に仕えるのではなくて、まっすぐに単純に神に仕える生き方を選びとることが求められていました。今日はそのような生き方の特長である、思い悩まないことについて、です。多くの方が仰るのは、信仰の理屈としてはよく分かっているのだけれども、なかなか難しくて、そうはできないということです。確かにこの世界には、多くの「思い悩め」という力が溢れています。しかしそういう力に屈して、私達がまるで神なきが如くに思い悩んでしまうとき、私達の神との関係はいったいどうなってしまっているでしょうか。私が好きな言葉の一つに、「キリスト者の楽観主義」というのがあります。私が教会へ通うようになりましたきっかけは、「右の頬を打たれたら左の頬を出しなさい」という主イエスの言葉に出会ったことでした。そして、キリスト者として生きるために、最も大切にしていることが、今日の聖書箇所33節です。この言葉にこそ、私達が思い悩まないで生きることのできる秘訣があります。なぜ思い悩むのがよくないことなのでしょうか。それは、私達の中で、そのような思い悩むという出来事が起こると、本来神のために用いられるべき私達の心が、そういう事柄に占められて、神が締め出されてしまいます。それが問題で、マイナスのスパイラルを起してしまいます。
 神の国と神の義を求める生き方は、この世界のあらゆるものから、私達が距離をとることのできる生き方です。「これらのものは(私達が心配なんかしなくても)みな加えて与えられる」のですから。勿論、計画的であることは大切です、神から委託されたものに対する誠実さとして。しかしどのように自分の計画と異なる現実を神がお与えになったとしても、私達は今与えられている現実において、神の国と神の義を求める生き方を貫いていくことはできるのではないでしょうか。

2019年11月3日「あなたは誰に仕えるのか」(マタイによる福音書6章19~24節)

 施し、祈り、断食についての言葉が終わり、次の単元です。新共同訳聖書の表題が三つありますように、三つそれぞれをみていくこともできますが、今回はマタイ福音書記者がこのように並べた意図(ルカと比べると、マタイが一カ所に集めたことがよく分かります)に沿って、この三つを結び付けながらみていきたいと思います。全体のテーマは、神と富とに仕えることはできないのだから、あなたは誰に仕えるのかを鮮明に自覚・意識しなさいということです。これは、人々に見せるためではなくて、ただ隠れたことをみておられる神に焦点を合わせよという、前回までの箇所と繋がっています。
 19~21節。地上に富を積むことはむなしい。誰でも分かっているようでありながら、つい見失ってしまう事実でしょう。ではどうしたらよいのか。22・23節。この箇所は少しだけ解説が必要です。かつて古代においては、目が光を受け止めるのではなくて、目から光が発するという考え方がありました。ですから、目が澄んでいる(単純である、まっすぐであるということ)ことが、明るくあるために大切だということです。これは私達の眼差しを、主イエスのあの眼差しに重ねていくということではないでしょうか。主イエスはこの地上の悲惨も罪も不条理も全てご覧になられました。しかしそれは、常に父なる神に祈りつつ、父なる神へと向ける眼差しにおいて見ておられました。この主イエスの眼差し、濁りのない澄んだ眼差しにおいて、私達は、建前ではなく私達の事実として、地上に富を積むことのむなしさと天に富を積むことの幸いが分かります。
 最後に、24節。天に富を積むことを志し、主イエスの澄んだ眼差しを与えられるならば、神と偶像である富(マモン)の両方に仕えることはできないことは明らかです(イスラエルの背信参照のこと)。そして富ではなくて神にまっすぐに仕えるとき(仕える相手がなくても人間が主体的に生きられるとする近代の誤った発想は論外として)、私達は所有からも自由になることができます。

2019年10月27日「断食」(マタイによる福音書6章16~18節)

 施し、祈り、断食、主イエスは当時善行とされたこの三つのことについて語ります。今日は三つ目の断食です。しかし今までの二つ、施し、祈りに比べて、私達キリスト教会にとって、この「断食」は、少し遠い感じがするのではないでしょうか。勿論、キリスト教会には断食がないということではありません。主イエスとその弟子たちは、あまり断食を重んじなかった様子が福音書から分かりますけれども、主イエスは断食を否定はしませんでした。今は花婿が共にいるのだから断食のときではないが、将来断食する時が来るのだと仰いました。また今日の箇所も、断食するのを前提とした記述になっています。私達は、「全てのことが自由である」という立場から、断食を必須のこととはしていないだけで、私の知り合いにも、週に二日間の断食を行う方もあられます。私は持病の関係で、断食をするとなるとかなり適切な医療的配慮が必要になるでしょう。
 16~18節。基本的には、前の二つと同じです。人に見られたがる「偽善者」のようにするな。隠れたことをみておられる父なる神が全てを知っておられる。「断食を自分はしているのだぞ」とアピールするのではなくて(人が評価してくれることは既に報いを受けてしまっています)、むしろ人に気づかれないように、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。前の二つと同じように、この断食に関しても、人目を気にするのではなく(自分の眼差しさえ気にしないで)、ただ神との交わりという大切なことを大切にする。そこで、私達は、人や自分の評価に縛られた息苦しい生きる姿から全く解き放たれて、福音を自由に生きるキリスト者になっていくことができます。完成は終末、再臨を待たなければならないとしても、今既にそのために私達は戦っていますし、それこそが喜ばしい生き方です。

 

2019年10月20日「赦しを生きる」(マタイによる福音書6章11~15節)

 主イエスは主の祈りを教えます。前半の部分では、神・天に関する祈りでした(もっとも実はそれ自体が私達の地上の生活と深く関わっていますが)。今日は後半、私達人間・地上のことで、三つの祈りからなります。糧を求める祈り、負い目を赦してくださいという祈り、そして、誘惑を避けて悪い者(サタン、誘惑する者)からの救いを求める祈りです。特に二つ目の赦しということに今日は集中します。この二つ目の祈りは、まず第一に決して特別な特殊な時の祈りなのではなくて、第一の祈り(必要な糧を求める祈り)と同様に、実は私達が信仰者として生きていく上でどうしても必要なことです。神の前で私達は負い目・罪を赦されています。いや、私達が罪を犯すごとに、主イエスの十字架において、この私(達)の負い目・罪が赦され続けています。このことを本当に深く自覚するならば、私達は、赦さないでただ批判的に人の罪を問い続けるだけの歩みが、どれほどキリストの十字架と復活に反することであるかに気が付きます。14・15節は父なる神に赦して頂くための条件のように読めます。確かに素直に読めばそうです。しかし事実は逆です。十字架において自分の罪・負い目が赦されたからこそ、私達は自分への負い目のある(相手はそう思ってさえいないかもしれませんが)方を赦すことができます。少なくとも赦そうとする戦いを自分の心においてなすことができます。赦さない・赦せない限り、私達はいつも、その事柄に縛られ続けて自由になることはできません。十字架のゆえに、私達が、裁きの心から解き放たれて赦しを生きる時にはじめて、私達は救われた自由・解放を生きます。さあ、私達は憎しみや恨みや裁きの心で生きるのをやめて、赦しを生きましょう。赦されたのですから。

2019年10月13日「こう祈りなさい」(マタイによる福音書6章9~10節)

主イエスは祈りについて教える後半で、主の祈りを教えます。今日はその前半の部分、神・天に関する祈りです(次回後半、私達人間・地上のこと)。主イエスは、「こう祈りなさい」と仰って、主の祈りを語ります。9節前半。まず神への呼びかけの言葉です。元のギリシア後の語順では、父よ、私達の、天におられる、です。神への祈りでありながら、「神」という言葉は出てきません。私達は、天の神を「父」と呼んでよいのです(ロマ8・15、ガラテヤ4・6)。あまりにも日常化してしまって、この呼びかけに驚きを感じなくなってしまっているかもしれません。しかしこれはやはり驚くべきことです。また、「私の」ではなくて、「私達の」です。呼びかけから既に、私達は主の祈りを連帯性において祈ります。そして神がおられる場所は、天です。
 9節後半。これは、福音の要約と言われる主の祈りの中でも、日本語では最も誤解されやすい祈りです。元の言葉では、「神の名が聖なるものとされますように」です。もちろん日本語訳のように、「崇められる」という意味もありますが、それ以上に、私達人間の罪によって、汚れてしまっている神の名を、神様ご自身が聖なるものとして聖別していてください、神の名が聖なるものであると私達が分かるようにして下さいと言うことです。神の聖性を見失いがちな私達がきちんとわきまえるように聖霊によって助けて下さい。
 10節前半。これには、二重の意味があります。現在と終末と。主イエスは洗礼者ヨハネと同様、「悔い改めよ。天の国は近づいた」(4章17節)と福音を語り始められました。私達は現在既に私達に到来している神の支配を喜んで生きると共に、完全な形で神の支配の来る終末を待ち望みます。
 10節後半。この祈りの前提となっているのは、天においては、神の意志の通りになっているということ、またこの地上では(私達人間の罪のゆえに)神の意志に反することが起こっていることです。私達は、天における神の意志をどこでどのように知るのでしょうか。ルカ15章に示されているように、私達の救いは天における神の大きな喜びです。「御心」が具体的に分からないときでも、神の決定的な「御心」が既に主イエスの十字架と復活によって示されています。

 

2019年10月6日「真実の祈り」(マタイによる福音書6章5~8節)

 現在私達は山上の説教の中で、施し・祈り・断食についての教えを学んでいます。一つ目の施しと同様に、この二つ目の祈りにおいても、偽善者がするように、見せびらかさないことの大切さが語られています。5節。人々に見せる祈りは、既に人々から報いを受けてしまっている。だから神からの報いは期待できない。だから、6節。人々から隠れて(もしかすると自分さえ隠れて)祈る。そこに真実の祈りがある。
 今日は説教題を「真実の祈り」と致しました。真実の祈りとは何か。説教題を決めました私自身が困惑しています。ともすると私達は、偽善者のように、人々に見せる祈りは神の報いを受けることのない真実でない祈りだということは分かっても、それならば自分の密室の祈りは真実であるのかと問うならば、「確かにそうだ」と傲慢に言い切ることも、「いや全くそうなっていない」とうそぶくことも違うのではないでしょうか。7・8節。当時祈りもまた、施しや断食と並んで、大切な「善行」に数えられていました。だから、自分の功績として、祈りもまた数えてしまいます。しかし主イエスはそのような祈りは、必要ない、と仰います。くどくどと言葉数多い必要はない。なぜならば、父なる神は、私達が願うよりも前に、私達の必要なものをご存じなのだから。私達は、「祈らなければならない」という拘束からこの主の言葉によって自由にされるのです。それではもはや祈りは必要のない、どうでもよいものなのでしょうか。断じてそうではありません。だから主イエスは、この言葉に続いてすぐに(次回の箇所)主の祈りを教えてくださいます。祈りとは、私達の必要を神に知らせ伝えるもの(そこでは多くの場合、神を私達の召使にしてしまう)ではありません。そうではなくて、神が神であられ、私達の罪が確かに十字架において許されていること、神は私達の父として私達の必要を既に知っておられ、備えて下さることを知る、そのような神との生きた交わりです。私達は祈りという事柄に縛られるのではなくて、祈りというところで励まされ力づけられて、キリスト者として歩みましょう。

2019年9月29日「神は報いられる」(マタイによる福音書6章1~4節)

 前回まで幾つもの反対命題でありました。私達が、この世界でキリスト者として生き続けることができるように、厳しくも福音である大きな問いの前に立たされました。今日から、新しい単元に入ります。18節までで、三つの徳・三つの義について教えておられます。施し・祈り・断食です。当時のユダヤでは、この三つの事柄こそが、神の民として大切に行うべき事柄でした。1節は、全体の表題です。善行は善行です。よくキリスト教は御利益宗教ではないから、報いを求めるべきではないという議論がなされます。しかし、本当の報い、消えることのない報い、尊い報いを神様から頂くために、この世界でヒトから与えられる報いを重んじないことが大切であって、報いそのものを主イエスは否定なさいません。
 まず、施しです。2節。このラッパを吹き鳴らすというのは、大げさに見せびらかすことの比喩と読むこともできます。が、当時、実際にそういう風習があったようです。本人が喜べるように、また周りの人々にもそのような施すという気持ちが起こるようにということでしょう。しかし主イエスは仰います(しかも「はっきり」)、既に報いを受けているから、神からの報いは期待できないのだと。隠れたところで、人に知られないように行わなければ、神は報いてくださらない、報いは残っていない。
 最後、3・4節。3節は、様々な読み方がされてきました。物理的には不可能なことだからです。恐らく、自分が行う施しを善行だと意識しないほどに自然に行うということです。神は、隠れたことを見ておられます、善いことも悪いことも全て。私達が施しをはじめとする善行を行い、その報いがあるはずだ、なければ不満だと感じるとき、私達はまだ報いを受けたがる思いから自由になっていません。そういう浅ましい思いから私達が解き放たれて、神の子として生きることができるように、主イエスは十字架に死んでくださったのです。