これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2019年12月1日「命に通じる狭い門」(マタイによる福音書7章13・14節)

 前回、求めることの大切さが教えられました。キリスト者として主イエスの後に従うのはどのような生き方であるかが今まで示されてきましたけれども、私達はなかなかそのように生きることができません。だからこそ、神様ご自身に対して、祈りの内に私達がそのような生き方ができるように求め続けます。そういう私達の生きる道はどのような道、私達が入るべきはどのような門でしょう。13・14節。この「狭い門、細い道」というのは、かなり曲解されてきました。例えば、有名大学や一流企業に入るなど、皆がもしも自分も入れるのならば入りたいけれども難しい、一部のエリートだけが入ることのできる門だという誤解です。そういうものは、広い門の中の、特別な部分に過ぎないのであって、主イエスがここで語っておられる狭い門とは、全く異なります。なぜならば主イエスははっきりと「それを見いだす者は少ない」と語っておられるからです。狭いけれども、栄光に満ちていて,多くの人が憧れる、そのような狭い門ではありません。みすぼらしくて、多くの人は入ろうとも思わない、それどころか門の存在にさえも気が付かない、そういう狭い門です。では私達は、どこでどのように、この狭い門を見いだすのでしょうか。聖書の時代ですと、律法学者やファリサイ派の人々が皆が知っている狭い門から入ろうとし、また自分たちこそは、と、自負していました。それに対して、主イエスは、その道の先に命はないと仰います。そして主イエスだけが、この狭い門から入って、すなわち十字架に死んで、私達にこの門を教えてくださいました。主イエスは確かに十字架に死なれました。誰も望まない(主イエスでさもこの杯を取り除いてくださいと祈ったほどの)狭い門です。しかしこの光の先に、復活という光・命があります。私達がこの狭い門を見いだし、この細い道を歩みたいと願うならば、ただ主イエスの後についていけばよいのです。

2019年11月24日「与えて下さる父なる神」(マタイによる福音書7章7~12節)

 山上の説教も終盤に入ってきましたが、今日もまた、とても有名な箇所です。 7・ 8節。「求めよ、探せ、門をたたけ」。まず問題になるのは、これが何についての言葉なのかということです。私達の欲望に関するものでないことは明らかです。ここで、何よりもまず考えることは、主イエスがこれまで語ってきたような、キリスト者の生き方について、でありましょう。偽善者のようにではなくて、ただ神の眼差しに生きるとか、思い悩まないで生きるとか、人を裁かないとか、そういうことです。それらが大切であることが分かっていながら、なかなかそのように生ききることができない私達を主イエスは励まし、「求めよ」と仰る。古来、この求めるべきものは信仰だとも言われてきました。広い意味ではその通りだと思います。
 その理由づけ、具体的な例えが次に描かれます。9~11節。虐待などが問題になる現代社会においては、素直に頷くことが難しくなってしまっているかもしれません。しかし私達の多くは、自分自身の実感として(親の立場だったり子の立場だったりしますが)よく分かることです。そしてここで肝心なのは、親がただ子の求めるものを子の欲望に従うという仕方で与えるのではなくて、「良い物」を与えることです。勿論、私達人間はいつも不完全ですから、神のように必ず「良い物」とはならない場合もあります。しかし私達の天の父は、与えてくださいます、必ず良い物を。このことを信じることが、まさに信仰です。そしてこのような信仰に生きるとき、12節。律法、福音の黄金律と呼ばれてきたものです。ここには、愛の発露としての行為を考え込まなくて良いという慰めがあります。

2019年11月17日「丸太とおが屑」(マタイによる福音書7章1~6節)

 前回は、神の国と神の義を求めて生きることの大切さをみました。その中で大切なことは、裁かないことです。1・2節。この、私達を裁くのは誰でしょうか。他者の裁きを恐れる必要はありません。それは前回みました。ただ、神が裁かれます。私達は終わりの日に皆、神の裁きの座につかなければなりません。私達が裁くことの愚かさが、3節。これは極端な例えだといえます。いくらなんでも、丸太・梁が目の中にあって気づかないなどということは考えられません。しかし私達は自分の罪や過ちに関する限り、この例えが自然に感じられるほどに鈍感なのではないでしょうか。そして自分の目の丸太がないかの如くに、ほんの僅かな他者のおが屑が見えてしまいます。4・5節。主イエスは、自分の目の丸太をまず取り除けと仰いますが、どのようにして私達の目の丸太を取り除くことができるでしょう。真剣に考えるほどに、無理です。できません。だから主イエスは、十字架に死ぬよりほかになかったのです。私達は自分の力で丸太を取り除くのではなくて、ただ主イエスの十字架によって私達の全ての罪が赦されたことに気が付くだけです。そして主イエスの十字架によって、丸太を取り除いて頂いた私達は、人を裁くような仕方ではなくて、愛と労りをもって他者のおが屑を取り除いていきます。自分が驕り高ぶって、上から人を裁くような仕方になるはずがありません。本来裁かれるべきは自分だということがよく分かっていますから。
 そのおが屑を取り除く生き方は、伝道の姿です。しかし伝道は、必ずいつも受け入れられるわけではありません。それどころか、拒否されることのほうが多いのではないでしょうか。だから、6節。犬に相手にされない聖なるもの(イヤリングという説も)、豚に踏みにじられた真珠,まさに主イエスの生きた姿です。私達は、伝道の心を生きます。しかし主イエスが十字架に踏みにじられたところまではしなくてもよいのだ、主イエスは私達をそう励まします。

 

2019年11月17日「丸太とおが屑」(マタイによる福音書7章1~6節)

 前回は、神の国と神の義を求めて生きることの大切さをみました。その中で大切なことは、裁かないことです。1・2節。この、私達を裁くのは誰でしょうか。他者の裁きを恐れる必要はありません。それは前回みました。ただ、神が裁かれます。私達は終わりの日に皆、神の裁きの座につかなければなりません。私達が裁くことの愚かさが、3節。これは極端な例えだといえます。いくらなんでも、丸太・梁が目の中にあって気づかないなどということは考えられません。しかし私達は自分の罪や過ちに関する限り、この例えが自然に感じられるほどに鈍感なのではないでしょうか。そして自分の目の丸太がないかの如くに、ほんの僅かな他者のおが屑が見えてしまいます。4・5節。主イエスは、自分の目の丸太をまず取り除けと仰いますが、どのようにして私達の目の丸太を取り除くことができるでしょう。真剣に考えるほどに、無理です。できません。だから主イエスは、十字架に死ぬよりほかになかったのです。私達は自分の力で丸太を取り除くのではなくて、ただ主イエスの十字架によって私達の全ての罪が赦されたことに気が付くだけです。そして主イエスの十字架によって、丸太を取り除いて頂いた私達は、人を裁くような仕方ではなくて、愛と労りをもって他者のおが屑を取り除いていきます。自分が驕り高ぶって、上から人を裁くような仕方になるはずがありません。本来裁かれるべきは自分だということがよく分かっていますから。
 そのおが屑を取り除く生き方は、伝道の姿です。しかし伝道は、必ずいつも受け入れられるわけではありません。それどころか、拒否されることのほうが多いのではないでしょうか。だから、6節。犬に相手にされない聖なるもの(イヤリングという説も)、豚に踏みにじられた真珠,まさに主イエスの生きた姿です。私達は、伝道の心を生きます。しかし主イエスが十字架に踏みにじられたところまではしなくてもよいのだ、主イエスは私達をそう励まします。

 

2019年11月10日「まず求むべきもの」(マタイによる福音書6章25~34節)

 前回は、神への眼差しに生きる、私達が神と神でない何かに同時に仕えるのではなくて、まっすぐに単純に神に仕える生き方を選びとることが求められていました。今日はそのような生き方の特長である、思い悩まないことについて、です。多くの方が仰るのは、信仰の理屈としてはよく分かっているのだけれども、なかなか難しくて、そうはできないということです。確かにこの世界には、多くの「思い悩め」という力が溢れています。しかしそういう力に屈して、私達がまるで神なきが如くに思い悩んでしまうとき、私達の神との関係はいったいどうなってしまっているでしょうか。私が好きな言葉の一つに、「キリスト者の楽観主義」というのがあります。私が教会へ通うようになりましたきっかけは、「右の頬を打たれたら左の頬を出しなさい」という主イエスの言葉に出会ったことでした。そして、キリスト者として生きるために、最も大切にしていることが、今日の聖書箇所33節です。この言葉にこそ、私達が思い悩まないで生きることのできる秘訣があります。なぜ思い悩むのがよくないことなのでしょうか。それは、私達の中で、そのような思い悩むという出来事が起こると、本来神のために用いられるべき私達の心が、そういう事柄に占められて、神が締め出されてしまいます。それが問題で、マイナスのスパイラルを起してしまいます。
 神の国と神の義を求める生き方は、この世界のあらゆるものから、私達が距離をとることのできる生き方です。「これらのものは(私達が心配なんかしなくても)みな加えて与えられる」のですから。勿論、計画的であることは大切です、神から委託されたものに対する誠実さとして。しかしどのように自分の計画と異なる現実を神がお与えになったとしても、私達は今与えられている現実において、神の国と神の義を求める生き方を貫いていくことはできるのではないでしょうか。

2019年11月3日「あなたは誰に仕えるのか」(マタイによる福音書6章19~24節)

 施し、祈り、断食についての言葉が終わり、次の単元です。新共同訳聖書の表題が三つありますように、三つそれぞれをみていくこともできますが、今回はマタイ福音書記者がこのように並べた意図(ルカと比べると、マタイが一カ所に集めたことがよく分かります)に沿って、この三つを結び付けながらみていきたいと思います。全体のテーマは、神と富とに仕えることはできないのだから、あなたは誰に仕えるのかを鮮明に自覚・意識しなさいということです。これは、人々に見せるためではなくて、ただ隠れたことをみておられる神に焦点を合わせよという、前回までの箇所と繋がっています。
 19~21節。地上に富を積むことはむなしい。誰でも分かっているようでありながら、つい見失ってしまう事実でしょう。ではどうしたらよいのか。22・23節。この箇所は少しだけ解説が必要です。かつて古代においては、目が光を受け止めるのではなくて、目から光が発するという考え方がありました。ですから、目が澄んでいる(単純である、まっすぐであるということ)ことが、明るくあるために大切だということです。これは私達の眼差しを、主イエスのあの眼差しに重ねていくということではないでしょうか。主イエスはこの地上の悲惨も罪も不条理も全てご覧になられました。しかしそれは、常に父なる神に祈りつつ、父なる神へと向ける眼差しにおいて見ておられました。この主イエスの眼差し、濁りのない澄んだ眼差しにおいて、私達は、建前ではなく私達の事実として、地上に富を積むことのむなしさと天に富を積むことの幸いが分かります。
 最後に、24節。天に富を積むことを志し、主イエスの澄んだ眼差しを与えられるならば、神と偶像である富(マモン)の両方に仕えることはできないことは明らかです(イスラエルの背信参照のこと)。そして富ではなくて神にまっすぐに仕えるとき(仕える相手がなくても人間が主体的に生きられるとする近代の誤った発想は論外として)、私達は所有からも自由になることができます。

2019年10月27日「断食」(マタイによる福音書6章16~18節)

 施し、祈り、断食、主イエスは当時善行とされたこの三つのことについて語ります。今日は三つ目の断食です。しかし今までの二つ、施し、祈りに比べて、私達キリスト教会にとって、この「断食」は、少し遠い感じがするのではないでしょうか。勿論、キリスト教会には断食がないということではありません。主イエスとその弟子たちは、あまり断食を重んじなかった様子が福音書から分かりますけれども、主イエスは断食を否定はしませんでした。今は花婿が共にいるのだから断食のときではないが、将来断食する時が来るのだと仰いました。また今日の箇所も、断食するのを前提とした記述になっています。私達は、「全てのことが自由である」という立場から、断食を必須のこととはしていないだけで、私の知り合いにも、週に二日間の断食を行う方もあられます。私は持病の関係で、断食をするとなるとかなり適切な医療的配慮が必要になるでしょう。
 16~18節。基本的には、前の二つと同じです。人に見られたがる「偽善者」のようにするな。隠れたことをみておられる父なる神が全てを知っておられる。「断食を自分はしているのだぞ」とアピールするのではなくて(人が評価してくれることは既に報いを受けてしまっています)、むしろ人に気づかれないように、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。前の二つと同じように、この断食に関しても、人目を気にするのではなく(自分の眼差しさえ気にしないで)、ただ神との交わりという大切なことを大切にする。そこで、私達は、人や自分の評価に縛られた息苦しい生きる姿から全く解き放たれて、福音を自由に生きるキリスト者になっていくことができます。完成は終末、再臨を待たなければならないとしても、今既にそのために私達は戦っていますし、それこそが喜ばしい生き方です。