これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2019年12月22日「東方で見た星」(マタイによる福音書2章1~12節)

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 クリスマスおめでとうございます。
 あと少しで山上の説教が終るのですけれども、前回と今日クリスマス礼拝では、マタイの講解説教をはじめるときにとっておいた箇所です。今日は、占星術の学者たち(今回の新しい翻訳では東方の博士たち)の記事です。
 この記事は、実にたくさんの美しい物語を産み出してきました。四人目の博士の物語などは有名でしょう。しかしこの箇所で、学者たちが何人であるかは描かれていません。贈り物が三つであることから、三人と推定されました(が分かりません)。ユダヤ人の王であるならば、今の王であるヘロデ王のところへ行こうということでしょう。1・2節。これを聞いて、ヘロデ王もエルサレムの人々も皆、不安に感じます。3節。後の皆殺しの記事から分かりますように、ヘロデ王の不安ははっきりしています。自己保身です。それではエルサレムの人々の不安は何でしょう。一番単純には、ヘロデ王と同じ不安であった、ということです。しかしもう少し推察すると、この出来事によって、残忍なヘロデ王が何をするか、不安に感じたのかもしれません。
 今日の記事では、本来神の民であるはずの人々の不安と、学者たち(明らかに異邦人であり、マタイがこの記事を採ったのは特筆に値します)の「喜びにあふれた」ことが、対照的です。主イエスがお生まれになった、この世界に来て下さったことは、「自分こそが王・神」であろうとする者には、ひたすら不安を招くものです。しかし、異邦人であろうとユダヤ人であろうと、救いを求めて、自分の世界に救い主のおられる余地をもつ者には、大きな喜びです。さあ私達は、クリスマスを喜び祝い、喜び歌いましょう。

2019年12月15日「インマヌエル」(マタイによる福音書1章18~25節)

 あと少しで山上の説教が終るのですけれども、今回と次回は、マタイの講解説教をはじめるときにとっておいた箇所です。今日は、主イエスの誕生の場面、次回は占星術の学者たちの記事です。
 この記事から語るべきこと、お伝えすべきことはたくさんあるかと思います。しかし今回は三つのことだけを申し上げましょう。まず第一に、インマヌエル(神は我々と共におられる)です。これは、マタイによる福音書全体の枠組みとなっています。この福音書の最後、主イエスが昇天なさる箇所で、主イエスは仰います、「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(いわゆる大宣教命令の最後)。この福音書全体が語りたいこと、それは、主イエスが(私達がクリスマスにお祝い致しますように)お生まれになられてから、今に至るまで、ずっと共にいて下さるのだという事実です。私達はどんなに困難にしか思えない状況にあっても、いつでも、主イエスが、私達の救い主が、共にいてくださる、この事実に励まされることができます。
 第二に、ヨセフの正しさについてです。19節。私達が陥りがちな過ちは、正しさのゆえに裁いてしまうことではないでしょうか。本当に正しく生きるとは、他者への憐れみに生きることであって、裁くことではありません。多くの方々が勘違いしておられるこのことについて、私達は主イエスにならって、正しくありましょう。
 第三に(最後に)、自分の正しさを越える神の御告げ、神の正しさを生きようとするヨセフの姿から学びましょう。彼は、19節で考えたようにではなくて、神から命じられたように行動します。マリアを妻として迎え入れます。ヨセフの中に、様々な思いがあったことでしょう。しかし、そういう自分の思いを越えて、神を尊重するヨセフです。そんな人物の所に、救い主イエスはお生まれになりました。

2019年12月8日「実で見分けよ」(マタイによる福音書7章15~23節)

 前回までにこの山上の説教で主イエスは、主イエスの御後に従っていく弟子たち、私達キリスト者の生き方を教えてくださいました。その最後にあたって、まず私達は求める(祈る)ことの大切さ、そして多くの人が見落として気が付きもしない狭い門から入ることの大切さを教えられました。
 今日の箇所は、そのように狭い門から入ろうとする私達を邪魔する偽預言者に警戒しなさいという箇所です。15節。一目で分かるものではありません。だから、16~20節。植物の例えを用いて主イエスは、預言者と偽預言者の決定的な違いを語ります。私達は、実で見分ける必要があります。

 しかしこれがまた難しいのです。後半をまとめてみてみましょう。21~23節。偽預言者もまた、「主よ、主よ」と言います。更に、主イエスの名によって、預言し、悪霊を追い出し、奇跡を行います。狼がまとっている羊の皮は、それほどに巧みです。このような現実の中で、私達はどのような「実」で見分けるのでしょう。何よりも、主イエスと共にあって、天の国に入ることです。私達が偽預言者に騙されないで、また偽預言者にならないで生きる(偽預言者は自分たちが偽預言者であることにすら気が付いていません)ために必要なことは何でしょう。私達が主イエスを知り、主イエスに私達を知っていただくことです(「あなたたちのことは全然知らない」の逆)。そういう文脈で、「実を」を考えますと、それは、自分の力に頼らないで、ただ主イエスの十字架だけにより頼む姿なのではないでしょうか。それは決して偽善的な見せ掛けのことではありません。茨なのにぶどうが採れるふりをすることではありません。私達は、キリスト者として生きる上で、確かに努力は必要です。しかしそれは、偽善者としての不自然な努力ではなくて、主イエス・キリストの後に従っていこうとする時に自然と沸き起こってくるものなのです。アドベントの今、主イエスの後に従う自分の姿を今一度振り返ってみましょう。

2019年12月1日「命に通じる狭い門」(マタイによる福音書7章13・14節)

 前回、求めることの大切さが教えられました。キリスト者として主イエスの後に従うのはどのような生き方であるかが今まで示されてきましたけれども、私達はなかなかそのように生きることができません。だからこそ、神様ご自身に対して、祈りの内に私達がそのような生き方ができるように求め続けます。そういう私達の生きる道はどのような道、私達が入るべきはどのような門でしょう。13・14節。この「狭い門、細い道」というのは、かなり曲解されてきました。例えば、有名大学や一流企業に入るなど、皆がもしも自分も入れるのならば入りたいけれども難しい、一部のエリートだけが入ることのできる門だという誤解です。そういうものは、広い門の中の、特別な部分に過ぎないのであって、主イエスがここで語っておられる狭い門とは、全く異なります。なぜならば主イエスははっきりと「それを見いだす者は少ない」と語っておられるからです。狭いけれども、栄光に満ちていて,多くの人が憧れる、そのような狭い門ではありません。みすぼらしくて、多くの人は入ろうとも思わない、それどころか門の存在にさえも気が付かない、そういう狭い門です。では私達は、どこでどのように、この狭い門を見いだすのでしょうか。聖書の時代ですと、律法学者やファリサイ派の人々が皆が知っている狭い門から入ろうとし、また自分たちこそは、と、自負していました。それに対して、主イエスは、その道の先に命はないと仰います。そして主イエスだけが、この狭い門から入って、すなわち十字架に死んで、私達にこの門を教えてくださいました。主イエスは確かに十字架に死なれました。誰も望まない(主イエスでさもこの杯を取り除いてくださいと祈ったほどの)狭い門です。しかしこの光の先に、復活という光・命があります。私達がこの狭い門を見いだし、この細い道を歩みたいと願うならば、ただ主イエスの後についていけばよいのです。

2019年11月24日「与えて下さる父なる神」(マタイによる福音書7章7~12節)

 山上の説教も終盤に入ってきましたが、今日もまた、とても有名な箇所です。 7・ 8節。「求めよ、探せ、門をたたけ」。まず問題になるのは、これが何についての言葉なのかということです。私達の欲望に関するものでないことは明らかです。ここで、何よりもまず考えることは、主イエスがこれまで語ってきたような、キリスト者の生き方について、でありましょう。偽善者のようにではなくて、ただ神の眼差しに生きるとか、思い悩まないで生きるとか、人を裁かないとか、そういうことです。それらが大切であることが分かっていながら、なかなかそのように生ききることができない私達を主イエスは励まし、「求めよ」と仰る。古来、この求めるべきものは信仰だとも言われてきました。広い意味ではその通りだと思います。
 その理由づけ、具体的な例えが次に描かれます。9~11節。虐待などが問題になる現代社会においては、素直に頷くことが難しくなってしまっているかもしれません。しかし私達の多くは、自分自身の実感として(親の立場だったり子の立場だったりしますが)よく分かることです。そしてここで肝心なのは、親がただ子の求めるものを子の欲望に従うという仕方で与えるのではなくて、「良い物」を与えることです。勿論、私達人間はいつも不完全ですから、神のように必ず「良い物」とはならない場合もあります。しかし私達の天の父は、与えてくださいます、必ず良い物を。このことを信じることが、まさに信仰です。そしてこのような信仰に生きるとき、12節。律法、福音の黄金律と呼ばれてきたものです。ここには、愛の発露としての行為を考え込まなくて良いという慰めがあります。

2019年11月17日「丸太とおが屑」(マタイによる福音書7章1~6節)

 前回は、神の国と神の義を求めて生きることの大切さをみました。その中で大切なことは、裁かないことです。1・2節。この、私達を裁くのは誰でしょうか。他者の裁きを恐れる必要はありません。それは前回みました。ただ、神が裁かれます。私達は終わりの日に皆、神の裁きの座につかなければなりません。私達が裁くことの愚かさが、3節。これは極端な例えだといえます。いくらなんでも、丸太・梁が目の中にあって気づかないなどということは考えられません。しかし私達は自分の罪や過ちに関する限り、この例えが自然に感じられるほどに鈍感なのではないでしょうか。そして自分の目の丸太がないかの如くに、ほんの僅かな他者のおが屑が見えてしまいます。4・5節。主イエスは、自分の目の丸太をまず取り除けと仰いますが、どのようにして私達の目の丸太を取り除くことができるでしょう。真剣に考えるほどに、無理です。できません。だから主イエスは、十字架に死ぬよりほかになかったのです。私達は自分の力で丸太を取り除くのではなくて、ただ主イエスの十字架によって私達の全ての罪が赦されたことに気が付くだけです。そして主イエスの十字架によって、丸太を取り除いて頂いた私達は、人を裁くような仕方ではなくて、愛と労りをもって他者のおが屑を取り除いていきます。自分が驕り高ぶって、上から人を裁くような仕方になるはずがありません。本来裁かれるべきは自分だということがよく分かっていますから。
 そのおが屑を取り除く生き方は、伝道の姿です。しかし伝道は、必ずいつも受け入れられるわけではありません。それどころか、拒否されることのほうが多いのではないでしょうか。だから、6節。犬に相手にされない聖なるもの(イヤリングという説も)、豚に踏みにじられた真珠,まさに主イエスの生きた姿です。私達は、伝道の心を生きます。しかし主イエスが十字架に踏みにじられたところまではしなくてもよいのだ、主イエスは私達をそう励まします。

 

2019年11月17日「丸太とおが屑」(マタイによる福音書7章1~6節)

 前回は、神の国と神の義を求めて生きることの大切さをみました。その中で大切なことは、裁かないことです。1・2節。この、私達を裁くのは誰でしょうか。他者の裁きを恐れる必要はありません。それは前回みました。ただ、神が裁かれます。私達は終わりの日に皆、神の裁きの座につかなければなりません。私達が裁くことの愚かさが、3節。これは極端な例えだといえます。いくらなんでも、丸太・梁が目の中にあって気づかないなどということは考えられません。しかし私達は自分の罪や過ちに関する限り、この例えが自然に感じられるほどに鈍感なのではないでしょうか。そして自分の目の丸太がないかの如くに、ほんの僅かな他者のおが屑が見えてしまいます。4・5節。主イエスは、自分の目の丸太をまず取り除けと仰いますが、どのようにして私達の目の丸太を取り除くことができるでしょう。真剣に考えるほどに、無理です。できません。だから主イエスは、十字架に死ぬよりほかになかったのです。私達は自分の力で丸太を取り除くのではなくて、ただ主イエスの十字架によって私達の全ての罪が赦されたことに気が付くだけです。そして主イエスの十字架によって、丸太を取り除いて頂いた私達は、人を裁くような仕方ではなくて、愛と労りをもって他者のおが屑を取り除いていきます。自分が驕り高ぶって、上から人を裁くような仕方になるはずがありません。本来裁かれるべきは自分だということがよく分かっていますから。
 そのおが屑を取り除く生き方は、伝道の姿です。しかし伝道は、必ずいつも受け入れられるわけではありません。それどころか、拒否されることのほうが多いのではないでしょうか。だから、6節。犬に相手にされない聖なるもの(イヤリングという説も)、豚に踏みにじられた真珠,まさに主イエスの生きた姿です。私達は、伝道の心を生きます。しかし主イエスが十字架に踏みにじられたところまではしなくてもよいのだ、主イエスは私達をそう励まします。