これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2020年1月5日「主は癒される」(マタイによる福音書8章1~13節)

 今日から、主イエスの救いの行ないに関する、8・9章の箇所を丁寧に読んでいきます。この箇所には、主に、主イエスの癒しの業と奇跡の業とが記されています。先ほどお読みいただきましたように今日の箇所では二人の人物が癒されています。重い皮膚病の人物と百人隊長の僕です。
 まず重い皮膚病の人物です。1~4節。重い皮膚病の人は、当時、差別・隔離の対象でした。まず第一に、「清くなる」という言葉が使われています。これは単に病気ではなくて、宗教的な意味があるということです。だからこそ、祭司に見せて証明する(4節)必要があります。更に、カファルナウムの町に入る前です。彼らの隔離が分かります。今日の箇所では、この人の方が百人隊長よりも前に会っていますが、これを一般化することはできないでしょう。しかしより周辺に来られる主イエスというイメージをもつことは大切です。
 今一人をみてみましょう。5~13節。様々なことをこの箇所から語りうると思いますが、今日は一点に集中しましょう。10節を今一度読みます。この福音書で信仰について主イエスが感心して語られるのは今日の箇所がはじめてです(2節の「御心ならば」も)。信仰の枠から追い出されていた重い皮膚病の人、イスラエルの枠にそもそも入っていない異邦人である百人隊長です(クリスマスの学者たち参照)。この二人が主イエスに信仰を認められています。もちろん、信仰と癒しとが必ず一つに繋がっているなどとはいえません(救いと異なって。「あなたの信仰があなたを救った」という言葉については、その箇所でまた)。しかし第一に、こうして本来信仰の民イスラエルではない人々にこそ、主イエスは信仰を見いだしました。そしてこの人々を癒されました。そしてこのような出会いの中で、主イエスは、単に神の民イスラエルにのみ遣わされているのではなくて、全ての人の救いのために来たのだということを自覚していきます。私達もまた、たとえ立ち位置はどうであろうと(周辺にいようと中心にいようと)、主の救いに入れられていることを喜びましょう。

2019年12月29日「岩を土台に」(マタイによる福音書7章24~29節)

 今日は今年最後の礼拝です。そしてまたそのように意図したわけではありませんが、山上の説教の最後でもあります。次回(新年最初の礼拝)から、主イエスの救いの行ないに関する、8章からの箇所を今まで同様丁寧に読んでいきます。
 既に7章全体が纏めの箇所だともいえるのですが、その一番最後に主イエスは大切なこととして何を語るのでしょうか。24~27節。とても有名なたとえ話です。以前休暇中に海外の教会の礼拝に参加した時に、この箇所の模型を使って、子どもたちに、岩の上に建てることの大切さを教えていました。また私自身、横須賀と名古屋の体験を通して、現実の建物で岩の上に建てることを目の当たりにしました。岩の上に建てても、砂の上に建てても、平時は変わりません。建てる時に費用が余分にかかるので、わざわざ岩の所まで掘り進めて土台にする(ルカ福音書の平行箇所参照)のは、無駄なことのようにも見えます。しかし、二重の意味での川の氾濫、強い風があります。一人ひとりの人生におけるそれは、あるいはない方もおられるかもしれません。しかし二つ目の終末論的な意味での氾濫(ノアの洪水から、それは水よりも火のイメージがありますけれども)は、誰にでも必ずやってきます。再臨・終末の時に裁きの座に立たない者は誰もいません。そのときに、弁護者として主イエスが立って下さるかどうか、そこにかかっています(前回の箇所を参照)。だからこそ、岩の上に土台を置くことの大切さがあります。ではそれは、具体的にはどうすることなのでしょうか。この山上の説教で今まで教えられた生き方を実際に自分が生きることです。山上の説教の教えを憧れや諦めで捉える(それが聞いても行わないありかた、むしろ本当は聞いてもいないありかたでしょう)のではなくて、実際に自分が生きるのです。最後の箇所に、主イエスの話を聞いた人々の驚きが描かれます。28~29節。私達の力、私達の栄光、私達の某かでそれをするのではなくて、ただこの主イエスの権威によってのみ(私達はひたすら三一なる神に頼ることによってのみ)このようなキリスト者としての生き方が形作られていきます。

2019年12月22日「東方で見た星」(マタイによる福音書2章1~12節)

https://www.dropbox.com/s/?dl=0

 クリスマスおめでとうございます。
 あと少しで山上の説教が終るのですけれども、前回と今日クリスマス礼拝では、マタイの講解説教をはじめるときにとっておいた箇所です。今日は、占星術の学者たち(今回の新しい翻訳では東方の博士たち)の記事です。
 この記事は、実にたくさんの美しい物語を産み出してきました。四人目の博士の物語などは有名でしょう。しかしこの箇所で、学者たちが何人であるかは描かれていません。贈り物が三つであることから、三人と推定されました(が分かりません)。ユダヤ人の王であるならば、今の王であるヘロデ王のところへ行こうということでしょう。1・2節。これを聞いて、ヘロデ王もエルサレムの人々も皆、不安に感じます。3節。後の皆殺しの記事から分かりますように、ヘロデ王の不安ははっきりしています。自己保身です。それではエルサレムの人々の不安は何でしょう。一番単純には、ヘロデ王と同じ不安であった、ということです。しかしもう少し推察すると、この出来事によって、残忍なヘロデ王が何をするか、不安に感じたのかもしれません。
 今日の記事では、本来神の民であるはずの人々の不安と、学者たち(明らかに異邦人であり、マタイがこの記事を採ったのは特筆に値します)の「喜びにあふれた」ことが、対照的です。主イエスがお生まれになった、この世界に来て下さったことは、「自分こそが王・神」であろうとする者には、ひたすら不安を招くものです。しかし、異邦人であろうとユダヤ人であろうと、救いを求めて、自分の世界に救い主のおられる余地をもつ者には、大きな喜びです。さあ私達は、クリスマスを喜び祝い、喜び歌いましょう。

2019年12月15日「インマヌエル」(マタイによる福音書1章18~25節)

 あと少しで山上の説教が終るのですけれども、今回と次回は、マタイの講解説教をはじめるときにとっておいた箇所です。今日は、主イエスの誕生の場面、次回は占星術の学者たちの記事です。
 この記事から語るべきこと、お伝えすべきことはたくさんあるかと思います。しかし今回は三つのことだけを申し上げましょう。まず第一に、インマヌエル(神は我々と共におられる)です。これは、マタイによる福音書全体の枠組みとなっています。この福音書の最後、主イエスが昇天なさる箇所で、主イエスは仰います、「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(いわゆる大宣教命令の最後)。この福音書全体が語りたいこと、それは、主イエスが(私達がクリスマスにお祝い致しますように)お生まれになられてから、今に至るまで、ずっと共にいて下さるのだという事実です。私達はどんなに困難にしか思えない状況にあっても、いつでも、主イエスが、私達の救い主が、共にいてくださる、この事実に励まされることができます。
 第二に、ヨセフの正しさについてです。19節。私達が陥りがちな過ちは、正しさのゆえに裁いてしまうことではないでしょうか。本当に正しく生きるとは、他者への憐れみに生きることであって、裁くことではありません。多くの方々が勘違いしておられるこのことについて、私達は主イエスにならって、正しくありましょう。
 第三に(最後に)、自分の正しさを越える神の御告げ、神の正しさを生きようとするヨセフの姿から学びましょう。彼は、19節で考えたようにではなくて、神から命じられたように行動します。マリアを妻として迎え入れます。ヨセフの中に、様々な思いがあったことでしょう。しかし、そういう自分の思いを越えて、神を尊重するヨセフです。そんな人物の所に、救い主イエスはお生まれになりました。

2019年12月8日「実で見分けよ」(マタイによる福音書7章15~23節)

 前回までにこの山上の説教で主イエスは、主イエスの御後に従っていく弟子たち、私達キリスト者の生き方を教えてくださいました。その最後にあたって、まず私達は求める(祈る)ことの大切さ、そして多くの人が見落として気が付きもしない狭い門から入ることの大切さを教えられました。
 今日の箇所は、そのように狭い門から入ろうとする私達を邪魔する偽預言者に警戒しなさいという箇所です。15節。一目で分かるものではありません。だから、16~20節。植物の例えを用いて主イエスは、預言者と偽預言者の決定的な違いを語ります。私達は、実で見分ける必要があります。

 しかしこれがまた難しいのです。後半をまとめてみてみましょう。21~23節。偽預言者もまた、「主よ、主よ」と言います。更に、主イエスの名によって、預言し、悪霊を追い出し、奇跡を行います。狼がまとっている羊の皮は、それほどに巧みです。このような現実の中で、私達はどのような「実」で見分けるのでしょう。何よりも、主イエスと共にあって、天の国に入ることです。私達が偽預言者に騙されないで、また偽預言者にならないで生きる(偽預言者は自分たちが偽預言者であることにすら気が付いていません)ために必要なことは何でしょう。私達が主イエスを知り、主イエスに私達を知っていただくことです(「あなたたちのことは全然知らない」の逆)。そういう文脈で、「実を」を考えますと、それは、自分の力に頼らないで、ただ主イエスの十字架だけにより頼む姿なのではないでしょうか。それは決して偽善的な見せ掛けのことではありません。茨なのにぶどうが採れるふりをすることではありません。私達は、キリスト者として生きる上で、確かに努力は必要です。しかしそれは、偽善者としての不自然な努力ではなくて、主イエス・キリストの後に従っていこうとする時に自然と沸き起こってくるものなのです。アドベントの今、主イエスの後に従う自分の姿を今一度振り返ってみましょう。

2019年12月1日「命に通じる狭い門」(マタイによる福音書7章13・14節)

 前回、求めることの大切さが教えられました。キリスト者として主イエスの後に従うのはどのような生き方であるかが今まで示されてきましたけれども、私達はなかなかそのように生きることができません。だからこそ、神様ご自身に対して、祈りの内に私達がそのような生き方ができるように求め続けます。そういう私達の生きる道はどのような道、私達が入るべきはどのような門でしょう。13・14節。この「狭い門、細い道」というのは、かなり曲解されてきました。例えば、有名大学や一流企業に入るなど、皆がもしも自分も入れるのならば入りたいけれども難しい、一部のエリートだけが入ることのできる門だという誤解です。そういうものは、広い門の中の、特別な部分に過ぎないのであって、主イエスがここで語っておられる狭い門とは、全く異なります。なぜならば主イエスははっきりと「それを見いだす者は少ない」と語っておられるからです。狭いけれども、栄光に満ちていて,多くの人が憧れる、そのような狭い門ではありません。みすぼらしくて、多くの人は入ろうとも思わない、それどころか門の存在にさえも気が付かない、そういう狭い門です。では私達は、どこでどのように、この狭い門を見いだすのでしょうか。聖書の時代ですと、律法学者やファリサイ派の人々が皆が知っている狭い門から入ろうとし、また自分たちこそは、と、自負していました。それに対して、主イエスは、その道の先に命はないと仰います。そして主イエスだけが、この狭い門から入って、すなわち十字架に死んで、私達にこの門を教えてくださいました。主イエスは確かに十字架に死なれました。誰も望まない(主イエスでさもこの杯を取り除いてくださいと祈ったほどの)狭い門です。しかしこの光の先に、復活という光・命があります。私達がこの狭い門を見いだし、この細い道を歩みたいと願うならば、ただ主イエスの後についていけばよいのです。

2019年11月24日「与えて下さる父なる神」(マタイによる福音書7章7~12節)

 山上の説教も終盤に入ってきましたが、今日もまた、とても有名な箇所です。 7・ 8節。「求めよ、探せ、門をたたけ」。まず問題になるのは、これが何についての言葉なのかということです。私達の欲望に関するものでないことは明らかです。ここで、何よりもまず考えることは、主イエスがこれまで語ってきたような、キリスト者の生き方について、でありましょう。偽善者のようにではなくて、ただ神の眼差しに生きるとか、思い悩まないで生きるとか、人を裁かないとか、そういうことです。それらが大切であることが分かっていながら、なかなかそのように生ききることができない私達を主イエスは励まし、「求めよ」と仰る。古来、この求めるべきものは信仰だとも言われてきました。広い意味ではその通りだと思います。
 その理由づけ、具体的な例えが次に描かれます。9~11節。虐待などが問題になる現代社会においては、素直に頷くことが難しくなってしまっているかもしれません。しかし私達の多くは、自分自身の実感として(親の立場だったり子の立場だったりしますが)よく分かることです。そしてここで肝心なのは、親がただ子の求めるものを子の欲望に従うという仕方で与えるのではなくて、「良い物」を与えることです。勿論、私達人間はいつも不完全ですから、神のように必ず「良い物」とはならない場合もあります。しかし私達の天の父は、与えてくださいます、必ず良い物を。このことを信じることが、まさに信仰です。そしてこのような信仰に生きるとき、12節。律法、福音の黄金律と呼ばれてきたものです。ここには、愛の発露としての行為を考え込まなくて良いという慰めがあります。