これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2020年2月2日「かまわないでくれ」(マタイ8章28~34節)

 今、主イエスの救いの行ないに関する、8・9章の箇所を丁寧に読んでいます。今日は、対岸、ガダラ人の地方です。その前、湖での嵐からも私達は様々なことを学びました。今日の箇所では、説教題を「かまわないでくれ」としました。もちろん、29節からです。しかし以前の口語訳聖書では「神の子よ、あなたはわたしどもとなんの関わりがあるのです」と翻訳されていました。どちらも誤訳ではありません。今回の翻訳のほうがより適切ではあるでしょう。悪霊たちは、主イエスにかまわないで欲しい、放っておいて欲しいのです。関わりがないと言いたいのです。「その時」は終末のことですから、終末が来れば、自分たちは滅びる定めである、新しい天と地に自分たちの居場所がないことはよく分かっています。しかしせめて今は、関わらないで欲しい。終末は、主イエスの十字架と復活をもってはじまりました。しかし終末は主イエスの再臨の時まで、終りません。だから教会は「間の時」を担うのだという自覚をもっています。ここで注目したいのは、ペトロが弟子たちを代表して告白する(マタイ福音書では16章)よりもずっと前に悪霊たちは主イエスの正体、神の子を見抜いていることです。信じ従う者だけが、主イエスの正体が分かるのではありません。むしろ、敵対し滅びへ向かう者たちこそ、その恐れからでしょうか、主イエスの正体を見抜きます。そして彼らは交渉します。31節。人々の邪魔はできないにしても、生き残りたい、今はまだ滅びたくないという悪霊たちの思い。主イエスは彼らの願いを聞き届けつつ、しかし滅ぼします。32節。
 この出来事の終わりをみましょう。33・34節。この町の町中の人々は、何と悪霊たちに似ていることでしょう。なぜ「出て行ってもらいたい」のでしょうか。経済的なこともあるでしょう。しかし何よりも、神の子を受け入れません。こうして主イエスは、自分の町に帰っていかれます。私達は本当に主イエスを受け入れているでしょうか。神に従いたくないために、色々と理由をつけて、主イエスを拒否する、「かまわないでくれ」と言うのでしょうか。あなたは、問われています。

2020年1月26日「風や湖さえも」(マタイによる福音書8章23~27節)

 今、主イエスの救いの行ないに関する、8・9章の箇所を丁寧に読んでいます。今日の箇所は、前回の箇所とまとめて読むべきだという意見もあります。前回、主イエスの弟子として生きることの覚悟が、二つの問答から教えられていました。主イエスは枕する所もない、そういう方に従っていく覚悟です。その流れで、今日の箇所は、主イエスが嵐の中であるにも関わらず眠っておられる姿からはじまります。23・24節。嵐は、地震という言葉です。全てが揺れ動き、自分たちの命さえ危ういと感じる、そういう状況です。しかし主イエスは眠っておられます。父なる神に全てを委ねて、信頼しきって眠っておられます。しかし弟子たちは異なります。25節。皆さんはこの弟子たちの行動をどう思いますか。「嵐で危ないのだから仕方がない」でしょうか。「主イエスが眠っておられるだから、心配しなくてよい、起こす必要はなかった」のでしょうか。
 教会はしばしば船に例えられます。確かに地震・嵐のようなこの世界の中で、主イエスが共にいて下さる船です。地震・嵐のない平安・平和がここにあるのではありません。嵐はあります。しかし、主が共にいて下さるから、私達は平安を生きます。主イエスを起こす弟子たちを主イエスは叱ります。最後をまとめて、26・27節。信仰が「薄い」とは「小さい」です。私達の信仰は確かに小さいのです。しかし「小さくてよいのだ」と開き直るのではない。こんな小さい信仰しかない自分はだめだと悲観的になるのでもない。弟子たち(人々)の驚きと共に、私達はこの方に驚きつつ、たとえ自分の信仰は小さくても、自分たちと共に眠っていて下さる主イエスがおられる、私達はこの方に救われる、この事実に励まされて、日々を歩みましょう。

2020年1月19日「枕する所もない」(マタイによる福音書8章18~22節)

 今、主イエスの救いの行ないに関する、8・9章の箇所を丁寧に読んでいます。今日の箇所は、主イエスがそういう何かを行う場面ではなくて、二つの問答が記されています。まず、そのきっかけともなる主イエスの命令をみましょう。18節。主イエスはここではっきりと自分を取り囲んでいる群衆を退けます。彼らから離れて、向こう岸に行こうとします。この主イエスの厳しい面も私達は知っておく必要があります。
 そして一つ目の問答です。19・20節。これは厳密に考えると、問答になっていません。律法学者は、従うと宣言しただけです。だから主イエスはそれに対して、肯定的、あるいは否定的な評価をしそうなものですが、「枕する所もない」と人の子(ご自身)のことを語ります。これを否定的な返答だと捉える方もいますが、むしろ、「従う」ことの意味を直接的ではなく教えておられるとみるのがいいでしょう。主イエスの本来の居場所は、神の言葉として、神の子として、天にあります。しかしあえて、神の身分に固執することなく、地上に来てくださった。自分には枕する所もない、本来の居場所ではない地上で、人々の患いを負い、病を担って(前回の17節)、私達に救いをもたらして下さる。この主イエスに従っていくということは、自分もまた、そのように歩むということです。その覚悟があるかと問い返しておられます。
 二つ目の問答では、そのように主イエスに従うことが、命の道であることが示されます。21・22節。死んでいる者が死者を葬るとは、どういうことでしょう。ゾンビのようなことが言われているのではありません。主イエスに従って、まるで「枕する所もない」ような地上での歩みをする時に、私達は命を得ます。本当に生きます。そのように主イエスに従って本当の命を生きていない者は、(厳しい言い方になりますが)死んでいるようなものなのです。そしてそのように主イエスに従って「枕する所もない」旅人として生きる時、私達は本来私達の本国は天にあって、私達もまた実は、「枕する所もない」自分を自覚する中で、主イエスと共に本当の命を見いだします。

2020年1月12日「イザヤの預言を」(マタイによる福音書8章14~17節)

 前回から、主イエスの救いの行ないに関する、8・9章の箇所を丁寧に読んでいます。5~7章の山上の説教と異なり、主に、主イエスの癒しの業と奇跡の業とが記されています。それでは、福音としての意味は今までよりも薄いのかといえば、決してそんなことはありません。前回も、周辺へ来られる主イエスと、信仰の枠からはみ出した(もともと入っていなかったり、追い出されたり)方々の信仰が主イエスによって驚嘆されるという出来事がありました。今日の箇所も、単にぺトロのしゅうとめや大勢の方々がいやされたことだけではありません。特に三つのことをみていきましょう。まず第一に、16節後半です。「言葉によって」です。悪霊を追い出すのも、病人をいやすのも、言葉によるのだということです。マタイ福音書記者は、いやしを言葉と全く別のものとして分けて考えるのではなくて、主イエスのなさる業の全てを「言葉」という視点で捉えます。
 第二に、17節に描かれておりますように、主イエスの業をイザヤ書の預言の成就として捉えます。つまり単にいやしたのではなくて、「負い、担った」ということです。主イエスは、自分のほうは何も変わらないで、高い所にいて、下々にいる人々をいやしたのではありません。自身の身にその全てを担われました。ここで既にマタイ福音書記者は、十字架、更には復活を見据えて語っています。私達の場合は、更にすばらしい救いを頂いているわけですが、基本的な事柄は同じです。主イエスは単に取り去るのではなくて、自分で担っていて下さいます。
 第三に、そのような私達はどうあることが求められているでしょうか。残念ながら主イエスにいやされた多くの人々が、まるでそんなことはなかったかのように振る舞いました(主イエスの十字架の時には、「十字架につけろ」と叫ぶ側になりました)。しかしペトロのしゅうとめは、15節。もてなします。奉仕します。仕えます。私達もそうありたいものです。

2020年1月5日「主は癒される」(マタイによる福音書8章1~13節)

 今日から、主イエスの救いの行ないに関する、8・9章の箇所を丁寧に読んでいきます。この箇所には、主に、主イエスの癒しの業と奇跡の業とが記されています。先ほどお読みいただきましたように今日の箇所では二人の人物が癒されています。重い皮膚病の人物と百人隊長の僕です。
 まず重い皮膚病の人物です。1~4節。重い皮膚病の人は、当時、差別・隔離の対象でした。まず第一に、「清くなる」という言葉が使われています。これは単に病気ではなくて、宗教的な意味があるということです。だからこそ、祭司に見せて証明する(4節)必要があります。更に、カファルナウムの町に入る前です。彼らの隔離が分かります。今日の箇所では、この人の方が百人隊長よりも前に会っていますが、これを一般化することはできないでしょう。しかしより周辺に来られる主イエスというイメージをもつことは大切です。
 今一人をみてみましょう。5~13節。様々なことをこの箇所から語りうると思いますが、今日は一点に集中しましょう。10節を今一度読みます。この福音書で信仰について主イエスが感心して語られるのは今日の箇所がはじめてです(2節の「御心ならば」も)。信仰の枠から追い出されていた重い皮膚病の人、イスラエルの枠にそもそも入っていない異邦人である百人隊長です(クリスマスの学者たち参照)。この二人が主イエスに信仰を認められています。もちろん、信仰と癒しとが必ず一つに繋がっているなどとはいえません(救いと異なって。「あなたの信仰があなたを救った」という言葉については、その箇所でまた)。しかし第一に、こうして本来信仰の民イスラエルではない人々にこそ、主イエスは信仰を見いだしました。そしてこの人々を癒されました。そしてこのような出会いの中で、主イエスは、単に神の民イスラエルにのみ遣わされているのではなくて、全ての人の救いのために来たのだということを自覚していきます。私達もまた、たとえ立ち位置はどうであろうと(周辺にいようと中心にいようと)、主の救いに入れられていることを喜びましょう。

2019年12月29日「岩を土台に」(マタイによる福音書7章24~29節)

 今日は今年最後の礼拝です。そしてまたそのように意図したわけではありませんが、山上の説教の最後でもあります。次回(新年最初の礼拝)から、主イエスの救いの行ないに関する、8章からの箇所を今まで同様丁寧に読んでいきます。
 既に7章全体が纏めの箇所だともいえるのですが、その一番最後に主イエスは大切なこととして何を語るのでしょうか。24~27節。とても有名なたとえ話です。以前休暇中に海外の教会の礼拝に参加した時に、この箇所の模型を使って、子どもたちに、岩の上に建てることの大切さを教えていました。また私自身、横須賀と名古屋の体験を通して、現実の建物で岩の上に建てることを目の当たりにしました。岩の上に建てても、砂の上に建てても、平時は変わりません。建てる時に費用が余分にかかるので、わざわざ岩の所まで掘り進めて土台にする(ルカ福音書の平行箇所参照)のは、無駄なことのようにも見えます。しかし、二重の意味での川の氾濫、強い風があります。一人ひとりの人生におけるそれは、あるいはない方もおられるかもしれません。しかし二つ目の終末論的な意味での氾濫(ノアの洪水から、それは水よりも火のイメージがありますけれども)は、誰にでも必ずやってきます。再臨・終末の時に裁きの座に立たない者は誰もいません。そのときに、弁護者として主イエスが立って下さるかどうか、そこにかかっています(前回の箇所を参照)。だからこそ、岩の上に土台を置くことの大切さがあります。ではそれは、具体的にはどうすることなのでしょうか。この山上の説教で今まで教えられた生き方を実際に自分が生きることです。山上の説教の教えを憧れや諦めで捉える(それが聞いても行わないありかた、むしろ本当は聞いてもいないありかたでしょう)のではなくて、実際に自分が生きるのです。最後の箇所に、主イエスの話を聞いた人々の驚きが描かれます。28~29節。私達の力、私達の栄光、私達の某かでそれをするのではなくて、ただこの主イエスの権威によってのみ(私達はひたすら三一なる神に頼ることによってのみ)このようなキリスト者としての生き方が形作られていきます。

2019年12月22日「東方で見た星」(マタイによる福音書2章1~12節)

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 クリスマスおめでとうございます。
 あと少しで山上の説教が終るのですけれども、前回と今日クリスマス礼拝では、マタイの講解説教をはじめるときにとっておいた箇所です。今日は、占星術の学者たち(今回の新しい翻訳では東方の博士たち)の記事です。
 この記事は、実にたくさんの美しい物語を産み出してきました。四人目の博士の物語などは有名でしょう。しかしこの箇所で、学者たちが何人であるかは描かれていません。贈り物が三つであることから、三人と推定されました(が分かりません)。ユダヤ人の王であるならば、今の王であるヘロデ王のところへ行こうということでしょう。1・2節。これを聞いて、ヘロデ王もエルサレムの人々も皆、不安に感じます。3節。後の皆殺しの記事から分かりますように、ヘロデ王の不安ははっきりしています。自己保身です。それではエルサレムの人々の不安は何でしょう。一番単純には、ヘロデ王と同じ不安であった、ということです。しかしもう少し推察すると、この出来事によって、残忍なヘロデ王が何をするか、不安に感じたのかもしれません。
 今日の記事では、本来神の民であるはずの人々の不安と、学者たち(明らかに異邦人であり、マタイがこの記事を採ったのは特筆に値します)の「喜びにあふれた」ことが、対照的です。主イエスがお生まれになった、この世界に来て下さったことは、「自分こそが王・神」であろうとする者には、ひたすら不安を招くものです。しかし、異邦人であろうとユダヤ人であろうと、救いを求めて、自分の世界に救い主のおられる余地をもつ者には、大きな喜びです。さあ私達は、クリスマスを喜び祝い、喜び歌いましょう。