これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2020年4月19日「受け入れる人の報い」(マタイによる福音書10章40~11章1節)

 先週私達はイースターにあたって、命を得る生き方について学びました。今日はその続きとして、そのような生き方をする私達を受け入れる人の報いについてです。そしてまた、主イエスが十二人の弟子たちを送るにあたっての言葉の締めくくりでもあります。
 まず、40節です。ここでは大変なことが言われているのではないでしょうか。弟子達(私達)を受け入れる人は、主イエスを受け入れることになります。そして主イエスを受け入れる人は、主イエスを遣わされる神を受け入れることになります。しかもそれは同じ報いです(41節)。預言者とは、旧約聖書の預言者ともとれます。が、ここでは神の言葉を取り次ぐ者のことでしょう。説教者に限るものではなくて、私達プロテスタントは万人祭司ですから、皆さんがみな、です。更に、正しい者は、「正しい者は一人もいない(パウロ、ローマの信徒への手紙)」のですから、神抜きでその方自体として正しいという意味ではなくて、主イエスにまっすぐに従うという意味でしょう。
 しかもこの「受け入れる」の意味は、主イエスの弟子・教会・キリスト者になることではなくて、「はっきり言っておく」という、大切なことを語る時の、主イエスの決まり文句を用いて、「冷たい水一杯」でももてなすことです。42節です。これは前回の「永遠の命」へ向かって生きる私達の現実と照らし合わせた時に、たった水一杯(これには二通りの読み方がある)でも、永遠の命をいただけるということです。このとき、私達は、「小さな者」に過ぎないにもかかわらず、何と大きな者として神から高く遇していただいていることでしょうか。
 最後の1節は、弟子たちに対して派遣の説教を語られた主イエスが、しかしご自身で宣教されたという記述です。それは今も同じです。私達を遣わす主イエスは、私達の先頭に立って宣教しておられます。

2020年4月12日「命を得る生き方」(マタイによる福音書10章34~39節)

 イースターおめでとうございます。
 現在私達は、主イエスが十二人の弟子たちを派遣するにあたっての言葉をみています。前回は、ただ神のみを恐れることが教えられていました。そこでは、神以外の全てを恐れない生き方があります。
 今日はその続きとして、命を得る生き方が示されています。39節です。大変厳しい言葉です。「そんなに無理なことが求められるならば、キリスト者として教会に連なるのはやめておいた方がよい」、そんな感想が聞こえてきそうです。今日の主イエスの語られる言葉にそって、どういう意味なのか、命を得る生き方とは何なのか、みていきましょう。
 まず主イエスが仰るのは、自分は平和をもたらすためではなくて、剣をもたらすために来たということです。34~36節です。この剣は、どんな剣でしょう。人々を裁いて地獄へ送る剣ではありません(そう捉えるならば、キリスト者の傲慢が起こるでしょう)。主イエスご自身が刺し貫かれた剣、十字架という剣です。私達が真剣に主イエスの後に従って生きるならば、主イエスへの愛に生きるならば、私達もまた刺し貫かれるかもしれない剣です。
 だから「ふさわしさ」ということが言われます。37・38節です。私達は、自分の十字架を担って主イエスに従うことができるでしょうか。そのようにして、自分の命を得る生き方を形作ることができるでしょうか。それが本来私達には無理であったからこそ、主イエスは十字架に死ななければなりませんでした。弟子たちは、誰一人として、逮捕される主イエスに従うことはできないで逃げ出しました。そしてそのようにして殺された主イエスを神は、復活せしめられました。この主の復活があるからこそ、逃げ出した弟子たちは、もはや逃げるのではなくて、たとえ殺されても主イエスに従っていくことができました。私達もそうです。本来の私達は、自分の罪のゆえに主イエスを十字架に殺すことしかできません。しかし今日イースターにおいて、特に年に一度覚えますように、主イエスが復活させられたから、私達は命を得る生き方が可能になります。自分の十字架を担って主イエスに従っていくことができます。(今回からフェイスブックによる礼拝の配信をはじめました。関心のある方はどうぞ)

2020年4月5日「何を恐れるべきか」(マタイによる福音書10章24~33節)

 現在私達は、主イエスが十二人の弟子たちを派遣するにあたっての言葉をみています。前回は、狼の群れに送り込まれる羊のように、迫害があるのだという箇所でした。その迫害の現実の中で、最初の24・25節では、主イエスをベルゼブルというような人々は、弟子たち、教会、私達をもひどい扱いをすると。その時に、弟子たち・私達は、主イエスを越えて勝っている必要はありません。主イエスと同じようであれば、充分です。次に主イエスが仰るのは、「恐れるな」(26、28、31節)です。迫害されるならば、迫害する者を恐れるのは、自然な当然のことでしょう。しかし主イエスは、「恐れるな」と仰います。なぜならば、本来恐るべき方である神を恐れる時に、私達はそれ以外の何者も恐れる必要がなく、また事実恐れなくなるからです。新型コロナの関係で、「正しく恐れましょう」と言われます。しかしそもそも恐れることそのものが間違いです。命に関わること(しかも自分の命だけではなくて、無自覚に移せば他者の命をも)ですから、可能な限り注意することは必要かもしれません。しかしそれは、「恐れ」からではないはずです。私達キリスト者の生きる規範としての、「恐れではなくて愛」を今一度振り返りましょう。しかしそうは言っても、恐れてしまうのが私達人間存在の本性でもあります。だから、29~31節です。神は、それほどまでに、私達を知っていて私達を愛して下さっている。この事実にしっかりと立つ時に、私達は恐れを捨て去って、どのような状況にあろうとも、安心して、平安・平和を生きることができます。そのように恐れがなくなるので、人々の前で、主イエスの仲間だと言い表す(信仰告白する)のです。

2020年3月29日「狼の群れの中で」(マタイによる福音書5章

 前回から10章に入りました。今日は、前回の続き、主イエスが十二人の弟子たちを派遣するにあたっての言葉です。特に印象深いのは、最初の16節でしょう。一つは、狼の群れに送り込まれる羊のたとえです。今一つは、「蛇のように賢く、鳩のように素直に」という言葉です。
 もちろん、基本的な行動指針のようにして、何を語るべきかは与えられるから心配しなくてよい(19節)とか、逃げなさい(23節)とか、大切なことが幾つも語られているのですが、中でもこの二つが印象深い。ある大学の総長(キリスト者の方です)が、卒業式の言葉として、このことを語りました。すると、メディアは「自分たちが狼だというののか」と批判したそうです。ですが、わたしは、この総長の気持ちがよく分かります。二重規範を生きるならば別ですが(そしてそれはキリスト者として本来ありえないことですが)、私たちは教会へ来て(否、私たち自身がキリストのからだである教会として)、キリストをまねてキリストの後に従っていきます。それは、私たちの罪のゆえに小羊としてほふられたキリストにならうことです。だから私たちは、自分の欲望に忠実に人を利用する狼のようにではなくて、神に従う羊です。だから私たちをこの世界に遣わすにあたって、主イエスは、「それは狼の群れに…」と仰います。その通りなのです。だとしたら、私たちはこの世界でただ狼に食われてしまうのでしょうか。そうではありません。神が私たちを「蛇のように賢く、鳩のように素直に」してくださることに信頼してよいのです。主イエスがそうお命じになるのだから、主イエスがそうしてくださる、わたしたちはこの事実に信頼して、狼の群れとしかいいようのない(神を知らないとはそういうことでしょう)この世界の只中で、しかし守られて生きます。さあ今週も遣わされていきましょう。

2020年3月22日「平和を願う私たち」(マタイによる福音書10章1~15節)

 今日から10章になります。前回(9章の最後)は、橋渡しの箇所でもありました。最後に、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願う(祈る)べきことが語られていました。そう語られた主イエスは、働き手として用いるためなのでしょうか、十二人の弟子たちを使徒として選び、汚れた霊に対する権能をお授けになります。そしてこの十二人を派遣します。派遣されていく相手が、イスラエルに限定されていることは、カナンの女の記事の主イエスの発言(15章24節)ともよく合っています。主イエスは、まず、神の民イスラエルにこそ派遣されているのだと自覚していました。罪の故に、彼らが「失われた羊」であったからでしょう。彼ら弟子たちがなすべきことは、主イエスのなしてきたことです。7・8節です。主イエスから権能を授かって、主イエスのなさったことを行います。その際の注意事項、9・10節は、最初の弟子たちだけへの言葉なのか、それとも一般原則のようなものなのか、議論されます。
 今日はその次の、平和があるようにという挨拶に注目しましょう。11節以下です。シャーロームという挨拶の言葉は、今でも広く用いられています。しかしここでは挨拶以上の意味があるでしょう。この平和は、主イエスが共におられ、主イエスが造り、主イエスが保ち、主イエスが担って下さる平和です。この平和は、弟子たち(私たち)が造り出すものではなくて、神が与えるものです。だからこそ、受け入れる者たちにはその者を包み込むような大きな平和となり、受け入れない者は、足の埃を払い落として、救い・平和とは無関係であることを示します。受け入れなかった者は、受け入れなかったがゆえに、自分の責任においてソドムやゴモラよりも重い罰があります。私たちは、主イエスの平和を受け入れ、この平和を携えていきましょう。

2020年3月15日「収穫の主に」(マタイによる福音書9章35~38節)

 今日で9章が終ります。この箇所は8・9章の全体のまとめ、また10章への橋渡しの箇所です。最初の35節は、主イエスの活動の要所にマタイが書く言葉です(4章の最後参照)。そして主イエスが群衆を憐れまれる姿を描きます。[36節]この群衆がどんな人々であるかは、既にみてきました。主イエスに従順に従うような人々ではありません。「悪魔の頭」などと言い出さない分、ファリサイ派の人々よりはましかもしれませんが、無知と無理解の人々です。それでも主イエスは、見捨てるのではなくて、深く憐れみます。これは、「上から目線」などとは全く異なり、自分の内蔵が痛むほどに深く共感する、シンパシーをもつことです。当時の群衆は、植民地支配と頑な宗教的指導者層によって、飼い主のいない羊のようでした。更にもっと深い所で、神の民であるはずなのに、神から遠く離れてしまっていました。だから主イエスは、十二人を選び派遣するにあたってまず、仰います。[37節]収穫とは本来、終末の最後の審判を指し示しています。しかしここでは、そればかりではなく、私たちが自然にそう読みますように、伝道の成果、主イエスの福音を聞いて、神に立ち返って新しく歩みだす人々のことでしょう。「働き手が少ない」としたら、私たちはどうしたらよいのでしょう。私たち自身が働き手になることでしょうか。主イエスは弟子たちに仰います。[38節]せっかく収穫が多いのに働き手が少ないのだから、あなたがたが働き手になりなさいとは仰いません。働き手を送ってくださるように祈ることを求めておられます。
 最後に三つのことだけを確認して終りましょう。まず第一に私たちは、主イエスの眼差し、「収穫が多い」をきちんと共有しているでしょうか。この、主イエスの眼差しにおいて事実である、「収穫が多い」ことを私たち自身も共有してはじめて、収穫が多いことの喜びを生きることができます。第二に、自分の・私(たち)の伝道ではないこと。伝道の主体は三一なる神です。第三に、それゆえ私たちは、いつだってただキリストにのみ頼りますし、それで充分です。

2020年3月8日「驚嘆と頑なさ」(マタイによる福音書9章27~34節)

 次回で9章が終るのですけれども、次回の箇所は全体のまとめ、また10章への橋渡しの箇所ですから、主イエスの奇跡や癒しを中心とする行動は、今日の箇所で締めくくりとなります。前半では、二人の盲人が癒されています。【27~31節】ここには、典型的な癒しの様子が描かれております。「憐れんでください」という言葉や、口止め・メシアの秘密のモティーフ、それにも関わらず広がっていくことなどです。特に三つのことだけに注目すると、まず第一に、盲人の癒しは終末のしるしです。第二に、二人の盲人の「信仰」はいったいどういうものであるか、ここから私たちは信仰について学びうることがあるのか、です。単純で純朴な信仰、ややこしくて難しい理屈ではなくて、ただまっすぐに「主イエスにかける」信仰です。第三に、「ダビデの子」に今一度注目しましょう。
 後半は、【32~34節】。ここには、群衆の驚嘆とファリサイ派の人々の頑なさが描かれています。勿論、群衆の驚嘆・驚きが、直ちに信仰なのではありません。事実、主イエスの十字架の時には、群衆は扇動されてとはいえ、「十字架に掛けろ」と叫びます。しかし前回も見たような、「模範的」な信仰のファリサイ派の人々の頑なさは、大変なものです。12章のベルゼブル論争で扱いますが、このような「信仰」こそが、主イエスを十字架に殺すことになります。私たちは、キリストのからだなる教会として、まっすぐに主イエスに従っていきましょう。私たちの中にもある、救い主、主イエスを否定してでも守ろうとする「自分の信仰」と戦いながら。主イエスが、私たちも守り支え導いてくださるのですから。