これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2020年6月7日「殺害の計画と救いの実現」(マタイによる福音書12章9~21節)

 先週から新しい単元に入りました。ファリサイ派の人々と主イエスとの対立が高まっていきます。今日の箇所では、ファリサイ派の人々の目の前で、会堂で安息日規定を破ります。前回の出来事と恐らく同じ日、主イエスは会堂に入られます。安息日です。そこで、問われます。9・10節です。「訴えようと思って」とあります。純粋な質問ではありません。主イエスが普段から安息日にもいやしておられるのは知られていたのでしょう。主イエスは答えます、11・12節です。この羊が穴に落ちる例は、実際に当時議論されていたようです。またほぼ確定した答えもありました。すぐに助けなければ死んでしまうような場合は助けてもよい、しかし安息日が終るまで大丈夫なようならば、餌を与えるなどして待つべきだ、というのです。前回のダビデの場合同様、ここでも主イエスは、例外的な事柄を引き合いに出して、原理原則を批判します。これは本来間違ったことで、私達もしてしまうことがあります。従ってここでは、主イエスはファリサイ派の人々の議論の土俵に乗ることを拒否したといえるでしょう。

   そしていやします。13節です。これは、(ファリサイ派の人々の立場に立てば)明らかに違反です、安息日が終ってからいやせばよいのですから。しかしあえて、主イエスは挑戦するように、いやされます。なぜでしょうか。それは、安息日の本来の意味(仕事をしないで、ひたすらに神・神の言葉に集中すること)を考えた時に、今いやすべきだということです。この片手の萎えた人も共に、心の底から喜んで安息日を守ります。「共に」を大切にされる主イエスです。そしてそれは、自分の命をかけたものでした。14節で、ファリサイ派の人々は、相談します。

   それに対して主イエスは、さらなる挑発をするのではありません。ただ立ち去られ、必要ないやしをなさいます。15・16節です。そしてこの出来事に、マタイ福音書記者は、イザヤ書42章の実現をみます。傷ついた葦を折らない正義がここに実現しています。

2020年5月31日「安息日の主」(マタイによる福音書12章1~8節)

 今日から新しい単元に入ります。ファリサイ派の人々と主イエスとの対立が高まっていきます。今日の出来事の発端は、弟子たちが麦の穂を摘んで食べることです。その行為そのものは何の問題もありません。かつてはこの国もそうでしたし、律法にきちんと書かれています。人の畑を狩り入れしてはならない(それは泥棒です)けれども、麦の穂を摘んで食べることは許されていました。1・2節です。問題は、「安息日にしてはならないことをしている」ことです。当時安息日規定・律法は、とても厳格に考えられていました。その結果、ファリサイ派のような人々も、地の民と呼ばれ差別される人々もおりました。麦の穂を摘む位よいだろうと私達は考えますが、ファリサイ派の人々はそれも労働であって、安息日にしてはならないと考えます。安息日規定をその根本的な考え方を大切にしつつ、自由に生きるのではなくて、細かく内容を定めていきます。その結果、差別や蔑視が生まれてきます。本来安息日は、人間が人間らしく生きることができるように、神の安息にならって、しっかりと休んで神を思うためにあります。しかしそれが全く別のものになってしまいます。ここで主イエスが挙げている二つの例(ダビデと祭司)は、様々な反論ができます。大切なのは、その後の記述です。
 まず6節です。私達は神殿よりも主イエスが偉大であることを知っています。しかしファリサイ派の人々からみれば、何とも傲慢な物言いでしょう。しかし主イエスが仰ったことの意味は、8節です。私達も安息日を大切にしますが、それは安息日の主であるイエス・キリストがおられるからです。主イエスこそ、安息日の規定さえも安息のためではなくて、差別や偏見のために用いてしまう私達の罪を赦して、安息をくださいます。神がいけにえではなくて、憐れみを求めるというとき、それはいけにえはどうでもよいということでありません。いけにえにも勝って、憐れみに生きる、それは主の安息に支えられているからできることです。

2020年5月24日「私の軛(くびき)は」(マタイによる福音書11章25~30節)

 今日の聖書箇所は、「そのとき」とはじまっています。前回見た、町々を叱った、主イエスが「ウーアイ」と嘆かれたときです。まず前半、25~27節をみましょう。まずここで私達のフツウの感覚で不思議なのは、主イエスが父なる神をほめたたえていることではないでしょうか。呪いの言葉や恨み節の方がこの箇所には相応しいでしょう。しかし主イエスは、父なる神をほめたたえます。その理由は、「知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しにな」ったからであり、それが「御心に適うこと」だからです。主イエスの奇跡の業に触れた全ての者が悔い改めるのではありません。「幼子のような者」、ただ主イエスが「示そうと思う」者だけが、父なる神を知ります。それは、この世界に広がっているような差別・選別とは全く異なるものです。神の選びです。どんな立場の方であっても、主イエスと出会うときに、私達は、自分が幼子に過ぎないことに気が付かされます。そのように、自分の力では「神を知る」ことにたどり着けないのだと分かる者だけが、悔い改めて信仰に生きます。
 更に主イエスは、人々を招きます。28節です。この言葉はよく、教会の案内甲板などに書かれています。[ある老牧師の話]。28節だけを読んで、29・30節を無視することは、申し上げるまでもなく、正しい読み方ではありません。主イエスの招きは、何もしないでただ安らぐ所への招きではありません。主イエスの軽い軛を負い、主イエスに学び続ける時に与えられる安らぎです。[神の国のイメージについて]。私達は、本来負わなくてよい重荷を下ろして、十字架の贖いによって、その柔和と謙遜を示して下さった主イエスに従う歩みによって、どんな状況でも安らかに生きましょう。

2020年5月17日「悔い改めない町々を」(マタイによる福音書11章20~24節)

 前回、洗礼者ヨハネを巡ってのお話しが終りました。そして、今日の箇所は、12章からの、イスラエル当局と主イエスとの対立が激しくなっていく箇所の先触れです。主イエスの多くの奇跡にもかかわらず、悔い改めない町々への叱責の言葉です。これは前回の「今の時代」に対する主イエスの批判の言葉に繋がっています。福音書の中で最も厳しい主イエスの言葉の一つです。だからこそ、私達はこの箇所をないがしろにするわけにはいきません。
 まず、20節です。私達はここで、三つのことに注目しましょう。まず第一に、奇跡は直ちに悔い改め・信仰を呼び起こし・呼び覚ますものではありません。奇跡が呼び覚ますのは、驚きです。そして驚きは疑問をうみます。それが悔い改めに繋がるとは限りません。第二に、悔い改めとは何か。そして第三に、私達の場合は、どうなのかということです。たかだか数年(しかも十字架と復活以前に)主イエスが活動なされた町々と、その後、主イエスが共にいてくださった二千年の歩みをなす私達とどちらが(悔い改めないとしたら)罪が大きいでしょう。
 21~24節は、まとめてみてみましょう。ここでも三つのことだけをみきおきます。まず第一に、主イエスの語られる「不幸だ」ということばについて。これは、もとのギリシャ語で、「ウーアイ」という言葉です。嘆きの呻きの言葉であって、上から目線の裁きなどではありません。次に主イエスが活動拠点となさったカファルナウムの町の奢りについて。活動拠点になさっていたからの奢りだとか、商業などの中心地であった奢りだとか、様々な推測がなされます。本当の所は分かりません。ただ、他の町々と同じく、「悔い改めなかった」ことが何よりも問題です。そして第三に(最後に)この主イエスの言葉で終っているとしたら、ひたすらに厳しい裁きの言葉だけになってしまいます。実際には、次回の、神を崇める言葉と大いなる招きの言葉に繋がっていきます。このように、悔い改めない町々・私達であるからこそ、主イエスは十字架に死ななければなりませんでした。そしてこの主イエスの十字架によってようやく私達は悔い改めます。

2020年5月10日「洗礼者ヨハネを語る②」(マタイによる福音書11章15~19節)

 先週、弟子たちを主イエスのもとに遣わした洗礼者ヨハネが誰であるのか、主イエスは群衆に語りました。このヨハネこそ、最も偉大な人であり、主イエスの先触れである(道を備える)エリヤです。しかしそのヨハネでさえも、天の国では、私達の最も小さな者よりも小さい。そのように私達への大きな約束が語られていました。
 最初の15節は、前の箇所へも後の箇所へも掛けることができます。主イエスがとても大事なことを語る時の言葉です。
 そして16・17節は例えです。この例えについては、様々な解釈があります。今日、それらの解釈について丁寧に議論することは致しません。後半18~19節前半に最も合致すると考えられる解釈は、主イエスが結婚式の笛を吹いたのに、人々が踊ってくれなかった、ヨハネが葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかったという解釈です。現代のおままごとのように、当時は、結婚式ごっこ、葬式ごっこがありました。この二つは当時のあまり刺激がない村社会でとても大きな出来事ですから、ごっこ遊びがあったようです。そのようなごっこ遊びに、洗礼者ヨハネや主イエスの活動をなぞらえています。天の国の訪れを厳しい裁きとして伝えたヨハネ、結婚式のような喜びの訪れとして伝えた主イエス。しかし、当時の人々(主イエスの「今の時代」の人々)は、否定的にしか反応しません。次回の悔い改めない町々を叱ることに通じています。ヨハネが語りかけても、主イエスが語りかけてもだめでした。だから主イエスは、十字架に死ぬほかなかったのです。主イエスが私達の罪を担って死んでくださったのですから、私達は結婚式のような喜びの内を--確かに今は大変な状況ですが--生きましょう。

2020年5月3日「洗礼者ヨハネを語る①」(マタイによる福音書11章7~14節)

 先週、主イエスのもとに洗礼者ヨハネの弟子たちが「来るべき方は、あなたでしょうか」と尋ねにきました。前回、彼らに対する主イエスの答えがありました。今日はヨハネの弟子たちが帰った後で、主イエスが群衆に語った言葉の前半です。多くの人々が、悔い改めを勧めるヨハネのもとを訪れました。ヨハネは預言者以上の者だと主イエスは仰います。7~9節です。主イエスはヨハネをとても高く評価いたします。10~11節前半。人間は皆、女から生まれるのですから、ヨハネこそ最も偉大な者だというのです。
 ただしそこには、たった一つの留保があります。11節後半です。私達は皆、この地上で最も偉大な者であるヨハネよりも更に偉大な者として、天の国(天国、神の支配)に迎え入れられることが、主イエスによって約束されています。これは読み過ごすことのできない、大変なことです。次の12節は、二つの読み方があります。一つは、この翻訳の解釈で、不法な者どもが(ヨハネが来たからこそ現れはじめた)神の支配を奪おうと、神の支配に力ずくで襲いかかっているというものです。いま一つは、逆に神の国こそが、洗礼者ヨハネの時から、この私達の世界に襲いかかるようにしてやってきているという解釈です。後者の方が、13節の、旧約聖書(預言者と律法)の時代は終ったという言葉には適合するでしょう。そして、(私達も既に共通の認識として知っている)ヨハネこそ、エリヤだという言葉です(14節)。
 次回、後半をみますが、今日の箇所から、主イエスがヨハネをいかに高く、正しく評価しておられるかが分かります。そしてまた、私達は、神の国に迎え入れられるならば、このヨハネよりも更に大きな(偉大な)者として、主イエスに迎えられます。

2020年4月26日「来るべき方」(マタイによる福音書11章2~6節)

 先週主イエスは、弟子たちを派遣するにあたっての言葉を終えられました。今日は新しい展開、洗礼者ヨハネです。ヨハネが自分の弟子たちを獄中から主イエスのもとに派遣します。2・3節です。なぜ主イエスが洗礼を授けて欲しいと願った時には、「私にはその靴紐をほどく値打ちさえない」と言ったヨハネ、私よりも後に来る方、主イエスについて預言したヨハネが弟子たちを派遣するのでしょう。そこにあるのは、「本当にメシアはこの方でよいのか」という疑問です。ヨハネが期待していたのは、自分よりも激しく「最後の裁き」を語るメシアでした。「消えることのない火で焼き払われる」方でした。ところが、獄中にいるヨハネに聞こえてくる主イエスの評判は、それとは異なるものでした。多くの人をいやし、貧しい者達に福音を語る方でした。主イエスのヨハネの弟子達への答えがそれを示しています。4・5節です。ヨハネの抱いていたメシア像と、実際の主イエスの違い・ずれ・相違を感じ、疑問に思いました。これはヨハネだけの問題ではなくて、当時の多くのユダヤ人が犯した過ちです。実際、主イエスを「十字架につけろ」と叫んだ人々は、メシアに植民地をはじめ、様々な抑圧や不正義からの解放を求めていました。しかしそのような彼らのメシア像と、実際の主イエスが全く異なるので、つまずいたのです。現代においても、そういう実際の主イエスを受け入れないで、自分のメシア像に固執する方々はおられます。そういう方々は、自分のメシア像が変わり、自分自身が変わることを拒否します。だから決して真実の主イエスを知ることができません。最後の6節です。私達はいつも、自分が抱くメシア像に固執しないで、変革され続けることに開かれていたいと願います。そしてそれは、ただ、三位一体の神への信頼の中でだけできることです。