これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2020年7月12日「主イエスの家族となる」(マタイによる福音書12章46~50節)

 今日の箇所は、ベルゼブル論争と天国の例えの間に挟まれた箇所です。「なお話しておられるとき」が前回までとの繋がりを示しています。また、「天の父の御心を行う」という言葉が、次回からの天国の例えへと繋がっていきます。最初の2節が、今回の出来事の状況を示します。46・47節です。主イエスの家族は、人々の中へ入ってこようとしません。自分たちは主イエスの血縁の家族なのだから、自分たちが声を掛ければ、主イエスが「外に出てくる」のが当然だと思っているのでしょうか。
 しかし主イエスは、そもそも家族とは誰のことかと問い直します。48節です。社会的常識的には、主イエスの家族は血縁の者たちのことでしょう。しかし主イエスはそれを否定して、弟子たち(あるいはそこにいる人々)こそ、主イエスの家族なのだと家族を定義なさいます。49節です。新型コロナの関係でストップしていますが、現在私達は「私達幕張教会」という文章を編むために話し合いを続けています。そこで幾つもの「幕張教会の長所」を語り合いました。その一つに、最初は「家族的」ということが挙げられました。しかし丁寧に話し合っていく中で、現代においては、「家族」が必ずしもプラスのイメージを持つ事柄ではなくなっている、別の表現を探そうということになりました。そして、私達は「居場所」という言葉にたどり着きました。本来の居場所はここにあります。主イエスは誰を自分の家族だと仰るのでしょうか。50節です。「天の父の御心を行う者」です。それは、自分の願いよりも御心を優先して十字架の死を受け入れた主イエスに従っていく歩みにほかなりません。さあ私達は、自分の力ではできないとしても、聖霊の力によって、神の家族・主イエスの家族としての歩みをしていきましょう。

2020年7月5日「空白はいけない」(マタイによる福音書12章43~45節)

 ベルゼブル論争からはじまった箇所は、今日の主イエスのたとえ話で終ります。このたとえ話に出てくるのは、汚れた霊です。例えの出来事自体はとても単純です。汚れた霊がまず、誰かから出て行きます。43節です。なぜ出て行くのかは描かれていません。休む場所を探すのですから、引っ越そうと思ったのでしょうか。しかし、休む場所は見つかりません。そこで、44節です。汚れた霊がいない間に行われたことは、掃除です。整えられていたのです。最後結論は、45節です。他の七つの悪い霊を連れてきます。だから、(最初は一つの汚れた霊だけであったのに)多くの悪い霊が住み着き、もっと悪い状態になります。
 この例えで主イエスは何を語ろうとなさっているのでしょうか。寓意的解釈は必要ないでしょう。この例えが明らかにしているのは、「この悪い時代の者たち」のことです。主イエスが神(の子)の力で悪霊を追い出しても、悪霊の頭ベルゼブルの力で追い出すのだという、ファリサイ派や律法学者のことです。しかし彼らばかりではなくて、主イエスを「十字架につけろ」と叫んだ群衆など、神の子を受け入れない当時の全ての人々でしょう。更には、現代においても、主イエスを受け入れない大勢の方々がおられます。今日の説教題を「空白はいけない」としましたが、そもそも空白のままではありえません。主イエスに対しては、必ず受け入れるか拒否するかの二つに一つです。主イエスを受け入れない者は、空白・中立のままではありえません。そこには、悪霊が住み着きます。神の霊・聖霊を冒涜し、聖霊に言い逆らうことになります。さあ私達は、自分の内にイエス・キリストを受け入れる生き方をしましょう。

2020年6月28日「罪に定めるもの」(マタイによる福音書12章38~42節)

 前回まで、ベルゼブル論争の主イエスの言葉でした。悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出しているのではない、既にここに神の霊、聖霊が来ているのだ。聖霊を冒涜し、聖霊に言い逆らう罪だけは赦されない。そして人は、裁きの日に自分の言葉によって裁かれる(罪ある者とされる)とのことでした。
 今日の箇所では、このような主イエスの言葉に対する反論のつもりなのでしょうか。ファリサイ派の人々(に加えて律法学者の人々も)が問います。38節です。しるしというのは、証拠となる奇跡です。これには当時の状況が背景としてありました。それは、当時偽メシアが何人も現れていたことです。そういう意味では、しるしを求めることも無理からぬことでした。しかし主イエスは、しるしを求めてしまうことの意味、罪深さ、よこしまさを指摘されます。39・40節です。ソロモンにまさるものが既にきており(42節)、目の前で神の業がなされているのに、証拠を求めてしまう。そこにあるのは、神と神の子を判断される側におく罪です。私達人間の側が、裁き判断する側になってしまう罪です。神と人間の立場の逆転を起してしまっています。立場が逆なのですから、そもそもしるしを求めること自体が間違いです。ヨナのしるしのほかには与えられません。主イエスは、復活の出来事を預言します。
 そして、主イエスは旧約聖書から二つの例を挙げて、最後の審判の時に罪に定められる者と罪に定める者を語ります。最後、41・42節です。ニネベの人々も、南の国の女王も、神の民イスラエル、ユダヤ人から見れば、異邦人に過ぎません。あえて主イエスはそういう人々を引き合いに出して、最後の裁きの真実を語ります。自分たちは神の民だ、だから救われて当然だと考える人々。この人々は、自分が神を(神か神でないかを)判断するのだと考えています。だからしるしを求めます。そこに罪がはっきりと現れています。しかしニネベの人々は、異邦人でありながら、ヨナを受け入れて悔い改めます。女王ははるばる長い旅をしてソロモンを訪れます。私達は、ファリサイ派の人々のように、「自分たちが正しい」と思い込んで裁くのでしょうか。それとも悔い改めて主イエスに従うのでしょうか。問われています。

2020年6月21日「自分の言葉によって」(マタイによる福音書12章33~37節)

 今日の聖書箇所は、前回の箇所と密接に繋がっています。前回は、ファリサイ派の人々の暴言に対して主イエスが語り始めました。聖霊を冒涜する罪、聖霊に言い逆らう罪だけは赦されることがないと語られました。今日の箇所では、「自分の言葉によって」、最後の審判の時の裁きが決まるのだと語られます。
 まず、木と実の話です。33節です。そして直ちにその意味が語られます。34節です。木が自然にその実をつけるように、人の口から出る言葉は、心にあふれていることが出てきます。嘘や偽り、美辞麗句やお世辞の言葉もあります(取り調べや黙秘の話)けれども、主イエスがここで語っておられるのは、そういうものではありません。自然と出てくる言葉です。(ファリサイ派の人々がベルゼブルの力で…と言ったように)。35節では、善い人が良い言葉を語り、悪い人が悪い言葉を語ります。私達人間は本来、「悪い人間」ですから、悪い言葉しか語ることができません。だから裁きの日には、裁かれるしかありません。最後の、36.37節。
 では私達はどうしたら良いのでしょう。ただ、十字架と復活の出来事にしっかりと立つことです。「自分の言葉によって罪ある者とされる」ほかない私達です。しかしただ、主イエスの十字架による罪の赦しを受け入れて、今共に生きていて下さる復活の主と共に、「今既に」永遠の命を生きるとき、私達の言葉は変わります。ただむなしく消えていく(あるいは悪い結果しか残さない)言葉は消えます。人を力づけ、生き生きと生きる命へと招く「力ある言葉」を語る者とされます。主イエス・キリストの反映として。

2020年6月14日「赦されない罪」(マタイによる福音書12章22~32節)

  •  新しい単元に入って三回目です。今日の箇所ではまず主イエスが、一つのいやしをなさいます。それに対する群衆の反応は、23節です。とても素直な反応です。しかしファリサイ派の人々の反応は全く異なります。24節です。よりによって、悪霊の頭ベルゼブルの力によるといいます。
  •  これに対して、25節以下は、主イエスの言葉です。今日は三つの事柄だけ集中し、更に最後に(説教題にも致しました)「許されない罪」に注目しましょう。まず一つ目に、主イエスは彼らの主張を否定します(29節まで)。彼らのいう通りだとすると、内輪もめであって、それはありえません。第二に(その中で言われていることですが)「神の国はあなたがたのところにきている」(28節)という言明です。第三に、30節です。こと、キリスト・救いに関しては、中立はありません。必ず、味方する(味方してキリストと共に働く)か、散らす(敵対して妨害する)かのどちらかです。
  •  最後に、許されない罪について。31・32節です。これは実に大胆で決定的な言葉です。コリントの信徒への手紙一(現在聖書に親しみ祈る会で丁寧に読んでいます)には、悪徳表が出てきます。興味深いことに、段々に取り上げられる悪徳が増えていきます。しかしながら、6章11節です。確かに主イエスの十字架の大きさの前に、全ての罪は赦されるのも事実でしょう。ではなぜ、聖霊に言い逆らう者だけは、赦されることがないのでしょうか。それは、赦し・救いに必要なたった一つのこと、主イエスの十字架による赦しを受け入れることを不可能にしてしまうからです。ファリサイ派の人々は、今日の聖書箇所で、聖霊に言い逆らう罪を犯しているようにみえます。しかし悔い改めて、福音を信じるならば(そうすることができるならば)、聖霊に言い逆らう罪ではないのです。

2020年6月7日「殺害の計画と救いの実現」(マタイによる福音書12章9~21節)

 先週から新しい単元に入りました。ファリサイ派の人々と主イエスとの対立が高まっていきます。今日の箇所では、ファリサイ派の人々の目の前で、会堂で安息日規定を破ります。前回の出来事と恐らく同じ日、主イエスは会堂に入られます。安息日です。そこで、問われます。9・10節です。「訴えようと思って」とあります。純粋な質問ではありません。主イエスが普段から安息日にもいやしておられるのは知られていたのでしょう。主イエスは答えます、11・12節です。この羊が穴に落ちる例は、実際に当時議論されていたようです。またほぼ確定した答えもありました。すぐに助けなければ死んでしまうような場合は助けてもよい、しかし安息日が終るまで大丈夫なようならば、餌を与えるなどして待つべきだ、というのです。前回のダビデの場合同様、ここでも主イエスは、例外的な事柄を引き合いに出して、原理原則を批判します。これは本来間違ったことで、私達もしてしまうことがあります。従ってここでは、主イエスはファリサイ派の人々の議論の土俵に乗ることを拒否したといえるでしょう。

   そしていやします。13節です。これは、(ファリサイ派の人々の立場に立てば)明らかに違反です、安息日が終ってからいやせばよいのですから。しかしあえて、主イエスは挑戦するように、いやされます。なぜでしょうか。それは、安息日の本来の意味(仕事をしないで、ひたすらに神・神の言葉に集中すること)を考えた時に、今いやすべきだということです。この片手の萎えた人も共に、心の底から喜んで安息日を守ります。「共に」を大切にされる主イエスです。そしてそれは、自分の命をかけたものでした。14節で、ファリサイ派の人々は、相談します。

   それに対して主イエスは、さらなる挑発をするのではありません。ただ立ち去られ、必要ないやしをなさいます。15・16節です。そしてこの出来事に、マタイ福音書記者は、イザヤ書42章の実現をみます。傷ついた葦を折らない正義がここに実現しています。

2020年5月31日「安息日の主」(マタイによる福音書12章1~8節)

 今日から新しい単元に入ります。ファリサイ派の人々と主イエスとの対立が高まっていきます。今日の出来事の発端は、弟子たちが麦の穂を摘んで食べることです。その行為そのものは何の問題もありません。かつてはこの国もそうでしたし、律法にきちんと書かれています。人の畑を狩り入れしてはならない(それは泥棒です)けれども、麦の穂を摘んで食べることは許されていました。1・2節です。問題は、「安息日にしてはならないことをしている」ことです。当時安息日規定・律法は、とても厳格に考えられていました。その結果、ファリサイ派のような人々も、地の民と呼ばれ差別される人々もおりました。麦の穂を摘む位よいだろうと私達は考えますが、ファリサイ派の人々はそれも労働であって、安息日にしてはならないと考えます。安息日規定をその根本的な考え方を大切にしつつ、自由に生きるのではなくて、細かく内容を定めていきます。その結果、差別や蔑視が生まれてきます。本来安息日は、人間が人間らしく生きることができるように、神の安息にならって、しっかりと休んで神を思うためにあります。しかしそれが全く別のものになってしまいます。ここで主イエスが挙げている二つの例(ダビデと祭司)は、様々な反論ができます。大切なのは、その後の記述です。
 まず6節です。私達は神殿よりも主イエスが偉大であることを知っています。しかしファリサイ派の人々からみれば、何とも傲慢な物言いでしょう。しかし主イエスが仰ったことの意味は、8節です。私達も安息日を大切にしますが、それは安息日の主であるイエス・キリストがおられるからです。主イエスこそ、安息日の規定さえも安息のためではなくて、差別や偏見のために用いてしまう私達の罪を赦して、安息をくださいます。神がいけにえではなくて、憐れみを求めるというとき、それはいけにえはどうでもよいということでありません。いけにえにも勝って、憐れみに生きる、それは主の安息に支えられているからできることです。