これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2020年8月2日「毒麦を抜くな」(マタイによる福音書13章24~30節)

 今日、日本基督教団では、平和聖日と定めています。以前、積極的平和ということが話題になりました。この国ではかなり歪んだ理解でしたが、今日はそのことがテーマではありません。むしろ消極的平和ということを今日の聖書箇所からみてみたいと思います。この例え自体は、難しいものではありません。主イエスご自身の説明(36~43節)も分かりやすいでしょう。
 今日はこの例えに関して、三つのことだけをみてみましょう。まず第一はこの例えと現実の違いです。現実社会では、畑を手入れします。なぜならば、毒麦を抜かないで放っておけば、良い麦の成長が阻害されるからです(雑草も何も放っておくやり方もありますが一般的ではありません)。少しぐらい間違えて良い麦を抜いてしまったとしても、その方が多くの収穫を望めます。天の国はこの私達の知っている現実とは異なります。毒麦を抜くべきではないのです。なぜなら二つの理由があります。この畑の主は、主イエスまた神なのだから、毒麦があっても、良い麦も大丈夫です。更に、主イエスは一匹の失われた羊を探しに行く飼い主の例え話をなさる方です。一本たりとも、良い麦は抜かれてはなりません。私達一人ひとりを大切にしてくださいます。
 第二に、「自分こそ良い麦だ」と思い込んで、毒麦を抜こうとする時に生じる私達の傲慢さの問題です。もちろん私達は、「自分は毒麦ではないか」と心配する必要はありません。本当は毒麦にすぎない私達を良い麦に変えてくださったのが主イエスの十字架なのですから。そのことを深く自覚するならば、他者を毒麦だと断罪して裁くことの愚かさはよく分かるのではないでしょうか。
 第三に、主イエスの、神の現実はこの例えを越えていくということです。確かにこの例えは、初代教会(マタイの教会)の困難・苦悩に応えます。しかしそれだけではなくて、神の御心ならば、毒麦であるはずのものが、良い麦に変えられるという奇跡が繰り返し起こることを指し示すのではないでしょうか。

2020年7月26日「なぜ例えを用いるのか」(マタイによる福音書13章10~17節)

 今日の箇所は、種蒔きの例えとその説明に挟まれた部分です。なぜ(弟子たちが直接天の国の秘密を悟ることが許されているに)群衆は例えを用いて間接的にしか聞くことができないのか、弟子たちが主イエスに聞きます。10節です。主イエスはお答えになります。11~13節です。
 私達がふつう例えを用いるのは、分かりにくい事柄を分かりやすく伝えるためです。この箇所の主イエスの説明はそれとは反対です。そこには、ユダヤ黙示文学の流れがあるそうです。例えは、アラム語では、「謎」という意味があります。そしてまた当時の初代教会では、なぜ多くのユダヤ人が福音を聞こうとしないのかという問いがありました。それに答える意味もあります。なぜ神の民であるはずのイスラエル、ユダヤ人が聞こうとしないのか。「聞いても聞か」ないからです。そして「耳のある者は聞きなさい」(9節)との呼びかけに応えた、一部のユダヤ人と多くの異邦人が、天の国の秘密を悟ることになります。それは既にイザヤ書に預言されていたことでした(14・15節)。
 17節で、主イエスは、「しかし」と仰って、今まで語ってきた信じないユダヤ人の話から、あなたがた・弟子たちの話へと転換します。16・17節です。山上の説教でも語られていた「幸い」がここで語られます。多くの預言者たちや正しい人たちが望んでいたけれど見ること・聞くことのできなかったものを私達は与えられている。聞くことのできない不幸よりも、私達は聞くことのできる幸いに目を止め、この幸いを与えるために、主イエスが十字架に死んでくださったことを想いましょう。

2020年7月19日「種を蒔く人」(マタイによる福音書13章1~23(10~17を除く)節)

 今日の箇所は、いつもと異なり、10節から17節を省いています(次回扱います)。前半が種を蒔く人のたとえそのもので、省いた部分がたとえを用いて話す理由、そして後半がたとえの主イエスご自身による説明です。しかし学問的には、たとえそのものは主イエスに遡り、たとえの説明は後の教会の解釈だとする説も成り立ちます。ですから、18節以下とは別に9節までを様々な仕方で読み解くこともできます。それは、混乱ではなくて、聖書と聖書の読み方の多様性であり、私達は多様な読み方から多様な事柄を学ぶことができます。
 今回、合わせて読んだのは、18節以下の解釈に従ってこのたとえを読むことを意味します。9節までのたとえでは、種を蒔く人が誰で、種が何であるか、様々に受け止めることができます。しかし18節からの説明を聞きますと、種を蒔く人は、主イエス(と主イエスに派遣されて御言葉を語る人)です。種は、御国の言葉です。ここで日本などの種蒔きと当時のパレスチナの種蒔きの方法の違いが分からないと、様々な必要のない問いが出てきますから、簡単にみておきましょう…。
 そうするとたとえの中身自体は分かりやすいようにも思えます。紙芝居などでもよく題材になります。今日の三つの事柄だけをみましょう。実際に取り上げるのは、最初の道端に蒔かれた種です。18・19節です。まず第一に、蒔かれた種は、御国の言葉であり、私達の心の中に蒔かれたはずです。しかし主イエスは、「こういう人である」と仰います。蒔かれた種、御国の言葉と、私達人間との同一化、一体化が起こっています。御国の言葉が語られ聞かれるならば、そこでは聞いた者が(最終的な反応はまちまちですが)変わらざるを得ない、蒔かれた種と蒔かれた土地は一つになります。第二に、それでは蒔かれた土地である私達は最初から良い土地なりなんなり決まっていて、どうすることもできないのでしょうか。予定的な意味ではその通りです。しかしまた、主イエスは、「耳のある者は聞きなさい」(9節)との励ましの言葉をくださいます。第三に、主イエスは、「百倍、六十倍、三十倍」(8、23節)と仰います。本来聞く耳のない私達が、十字架の主に励まされて、聖霊の導きによって聞く耳を与えられるように祈り求め続けましょう。

2020年7月12日「主イエスの家族となる」(マタイによる福音書12章46~50節)

 今日の箇所は、ベルゼブル論争と天国の例えの間に挟まれた箇所です。「なお話しておられるとき」が前回までとの繋がりを示しています。また、「天の父の御心を行う」という言葉が、次回からの天国の例えへと繋がっていきます。最初の2節が、今回の出来事の状況を示します。46・47節です。主イエスの家族は、人々の中へ入ってこようとしません。自分たちは主イエスの血縁の家族なのだから、自分たちが声を掛ければ、主イエスが「外に出てくる」のが当然だと思っているのでしょうか。
 しかし主イエスは、そもそも家族とは誰のことかと問い直します。48節です。社会的常識的には、主イエスの家族は血縁の者たちのことでしょう。しかし主イエスはそれを否定して、弟子たち(あるいはそこにいる人々)こそ、主イエスの家族なのだと家族を定義なさいます。49節です。新型コロナの関係でストップしていますが、現在私達は「私達幕張教会」という文章を編むために話し合いを続けています。そこで幾つもの「幕張教会の長所」を語り合いました。その一つに、最初は「家族的」ということが挙げられました。しかし丁寧に話し合っていく中で、現代においては、「家族」が必ずしもプラスのイメージを持つ事柄ではなくなっている、別の表現を探そうということになりました。そして、私達は「居場所」という言葉にたどり着きました。本来の居場所はここにあります。主イエスは誰を自分の家族だと仰るのでしょうか。50節です。「天の父の御心を行う者」です。それは、自分の願いよりも御心を優先して十字架の死を受け入れた主イエスに従っていく歩みにほかなりません。さあ私達は、自分の力ではできないとしても、聖霊の力によって、神の家族・主イエスの家族としての歩みをしていきましょう。

2020年7月5日「空白はいけない」(マタイによる福音書12章43~45節)

 ベルゼブル論争からはじまった箇所は、今日の主イエスのたとえ話で終ります。このたとえ話に出てくるのは、汚れた霊です。例えの出来事自体はとても単純です。汚れた霊がまず、誰かから出て行きます。43節です。なぜ出て行くのかは描かれていません。休む場所を探すのですから、引っ越そうと思ったのでしょうか。しかし、休む場所は見つかりません。そこで、44節です。汚れた霊がいない間に行われたことは、掃除です。整えられていたのです。最後結論は、45節です。他の七つの悪い霊を連れてきます。だから、(最初は一つの汚れた霊だけであったのに)多くの悪い霊が住み着き、もっと悪い状態になります。
 この例えで主イエスは何を語ろうとなさっているのでしょうか。寓意的解釈は必要ないでしょう。この例えが明らかにしているのは、「この悪い時代の者たち」のことです。主イエスが神(の子)の力で悪霊を追い出しても、悪霊の頭ベルゼブルの力で追い出すのだという、ファリサイ派や律法学者のことです。しかし彼らばかりではなくて、主イエスを「十字架につけろ」と叫んだ群衆など、神の子を受け入れない当時の全ての人々でしょう。更には、現代においても、主イエスを受け入れない大勢の方々がおられます。今日の説教題を「空白はいけない」としましたが、そもそも空白のままではありえません。主イエスに対しては、必ず受け入れるか拒否するかの二つに一つです。主イエスを受け入れない者は、空白・中立のままではありえません。そこには、悪霊が住み着きます。神の霊・聖霊を冒涜し、聖霊に言い逆らうことになります。さあ私達は、自分の内にイエス・キリストを受け入れる生き方をしましょう。

2020年6月28日「罪に定めるもの」(マタイによる福音書12章38~42節)

 前回まで、ベルゼブル論争の主イエスの言葉でした。悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出しているのではない、既にここに神の霊、聖霊が来ているのだ。聖霊を冒涜し、聖霊に言い逆らう罪だけは赦されない。そして人は、裁きの日に自分の言葉によって裁かれる(罪ある者とされる)とのことでした。
 今日の箇所では、このような主イエスの言葉に対する反論のつもりなのでしょうか。ファリサイ派の人々(に加えて律法学者の人々も)が問います。38節です。しるしというのは、証拠となる奇跡です。これには当時の状況が背景としてありました。それは、当時偽メシアが何人も現れていたことです。そういう意味では、しるしを求めることも無理からぬことでした。しかし主イエスは、しるしを求めてしまうことの意味、罪深さ、よこしまさを指摘されます。39・40節です。ソロモンにまさるものが既にきており(42節)、目の前で神の業がなされているのに、証拠を求めてしまう。そこにあるのは、神と神の子を判断される側におく罪です。私達人間の側が、裁き判断する側になってしまう罪です。神と人間の立場の逆転を起してしまっています。立場が逆なのですから、そもそもしるしを求めること自体が間違いです。ヨナのしるしのほかには与えられません。主イエスは、復活の出来事を預言します。
 そして、主イエスは旧約聖書から二つの例を挙げて、最後の審判の時に罪に定められる者と罪に定める者を語ります。最後、41・42節です。ニネベの人々も、南の国の女王も、神の民イスラエル、ユダヤ人から見れば、異邦人に過ぎません。あえて主イエスはそういう人々を引き合いに出して、最後の裁きの真実を語ります。自分たちは神の民だ、だから救われて当然だと考える人々。この人々は、自分が神を(神か神でないかを)判断するのだと考えています。だからしるしを求めます。そこに罪がはっきりと現れています。しかしニネベの人々は、異邦人でありながら、ヨナを受け入れて悔い改めます。女王ははるばる長い旅をしてソロモンを訪れます。私達は、ファリサイ派の人々のように、「自分たちが正しい」と思い込んで裁くのでしょうか。それとも悔い改めて主イエスに従うのでしょうか。問われています。

2020年6月21日「自分の言葉によって」(マタイによる福音書12章33~37節)

 今日の聖書箇所は、前回の箇所と密接に繋がっています。前回は、ファリサイ派の人々の暴言に対して主イエスが語り始めました。聖霊を冒涜する罪、聖霊に言い逆らう罪だけは赦されることがないと語られました。今日の箇所では、「自分の言葉によって」、最後の審判の時の裁きが決まるのだと語られます。
 まず、木と実の話です。33節です。そして直ちにその意味が語られます。34節です。木が自然にその実をつけるように、人の口から出る言葉は、心にあふれていることが出てきます。嘘や偽り、美辞麗句やお世辞の言葉もあります(取り調べや黙秘の話)けれども、主イエスがここで語っておられるのは、そういうものではありません。自然と出てくる言葉です。(ファリサイ派の人々がベルゼブルの力で…と言ったように)。35節では、善い人が良い言葉を語り、悪い人が悪い言葉を語ります。私達人間は本来、「悪い人間」ですから、悪い言葉しか語ることができません。だから裁きの日には、裁かれるしかありません。最後の、36.37節。
 では私達はどうしたら良いのでしょう。ただ、十字架と復活の出来事にしっかりと立つことです。「自分の言葉によって罪ある者とされる」ほかない私達です。しかしただ、主イエスの十字架による罪の赦しを受け入れて、今共に生きていて下さる復活の主と共に、「今既に」永遠の命を生きるとき、私達の言葉は変わります。ただむなしく消えていく(あるいは悪い結果しか残さない)言葉は消えます。人を力づけ、生き生きと生きる命へと招く「力ある言葉」を語る者とされます。主イエス・キリストの反映として。