これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2020年8月30日「ヨハネの死と給食」(マタイによる福音書14章1~21節)

 今日も前回同様、二つの部分をまとめて読みます。その対比をきちんと捉えるためです。時間的な流れから言いますと、一つ目の記事と二つ目の記事は繋がっていません。1・2節から、ヘロデが洗礼者ヨハネを以前に殺していて、そのヨハネが「生き返った」方として、ヘロデはイエスをみました。しかし二つの記事にははっきりとした共通点があり、それだからこそ、対比が際立っています。
 類似しているのは、どちらも食事の席だということです。ヘロデは自分の誕生日の祝いの席です。そこで、「願うものは何でもやろう」(7節)と誓って約束します。サロメに対して、約束します(サロメという名前はどこにもでてきませんが…)。それ自体既に、驕り高ぶっている、罪を犯しています。そして王としての威厳を保つために、ヨハネを殺すという更に大きな罪を犯します。一つ目の記事の食卓は、罪の食卓です。二つ目の給食の記事(13節以下)も食卓です。しかしそれは、五千人(女子どもを入れたらもっと大勢)という大勢でありながら、パンと魚だけ(しかも神が奇跡をなさる前には、たった五つのパンと二匹の魚だけ)という貧しいものです。領主の祝いの席と野外での給食と、その豊かさにおいては雲泥の差があります。
 しかし決定的に異なるのは、領主の食卓・宴席が罪の象徴であるのに対して、五千人の給食は、神の恵みの象徴です。私達は、今のこの豊かな社会の中で、ヘロデの宴席をしてしまってはいないでしょうか。感謝と喜びをもって、たとえ貧しくても、本当は、神の国の宴席の先触れとしての豊かさのある、主イエスの食卓につく者でありましょう。

2020年8月23日「ナザレで」(マタイによる福音書13章51~58節)

 今日の聖書箇所は、明らかに二つの部分からなります。前半の、天の国のことを学んだ学者と、後半の、主イエスが故郷で受け入れられない話です。二回に分けて語ろうか迷いました。しかし今回は一回で語ります。
 まず前半をみましょう。今まで語られてきた天の国の例えの締めくくりです。51・52節です。学者とはこの場合、どういう意味でしょう。皆さんは学者というとどういうイメージをお持ちでしょうか。その分野について、素人の人よりも詳しく知っています。そして、自分の倉から新しいものと古いものを取り出します(一般に主イエスの新しい教えと旧約聖書ですが、それ以外にも様々な解釈ができます)。天の国の学者ですから、天の国(天国、神の支配)について知っているということでしょう。それは、単に知識として知っているのではなくて、今生きる自分の現実として神の支配を知っている、神の支配に生きる方が、(自分であれ他者であれ)人間の支配に生きるよりもはるかに自由で素晴らしいことを知っています。私達が神の支配を生きることの喜びを知り、それを伝える者となる、これが天の国の例えの締めくくりです。
 53節以下には、それとは正反対の主イエスの故郷の人々の姿が描かれています。彼らは、主イエスの教えに驚きます。しかし驚くだけで、信じません(58節、不信仰)。どこから(54、56節)と問うのならば、人間イエスにその源泉を求めるのではなくて(それは失敗します)、主イエスの宣教の言葉の中で、父なる神こそが彼らの「驚き」の源泉であることに気付くことが大切です。主イエスを通して神を信じることへと私達は招かれています。

2020年8月16日「天の国は」(マタイによる福音書13章44~50節)

 今日もまた、天の国の例えの続きです。種蒔きの例えも毒麦の例えも、そしてからし種とパン種の例えも、既にみました。例えというものには、説明的言語と異なり、決して汲み尽くすことのできない豊かさがあります。今日も三つの例えから、そのような豊かさの一部をみてみましょう。
 一つ目と二つ目の例えは、(からし種とパン種の時と同じように)似たような意味をもつ二つの例えだと言えます。44~46節です。これらの例えのポイントは、大切なもの(宝、高価な真珠)が見つかったならば、何にかえても(自分の持ち物を全て売り払ってでも)手に入れようとすることです。ここで、探し求めよとは、言われていません。なぜなら、一つ目の例えではたまたま見つけ、二つ目の例えでは一所懸命探しています。探すか探さないかは問題ではありません。ただ、見つかったならば、その大切さ・重要さ・かけがえのなさのゆえに、それ以外の物を全て捨ててでも手に入れようとすることが、ポイントです。もちろん、天の国が「所有」できるなどと言っているのではありません。天の国(天国、神の支配)は、神が支配なさるのですから、わたしたち人間は所有などできません。ただ「御国の子ら(所属する者ら)」として、天の国を生きるだけです。パウロは、フィリピ3章7・8節のように述べています。天の国を見つけた者は、そのようであるはずです。尤も私達は愚かですから、そう理屈通りにはいかないので、このように励まされているのですが。
 三つ目の例えは、網でする漁の例え、47~50節です。これは、毒麦の例えと似た例えです。幾つかの違いもありますが、違いに注目するよりは、今一度、意味をみましょう。最後の審判の比喩になっています。しかしそれだけをみればよいのではなくて、主イエスの十字架がそれを越えていく奇跡を指し示しています。天の国を生きましょう。

2020年8月9日「広がりゆく神の支配」(マタイによる福音書13章31~43節)

 前回は平和聖日で、毒麦の例えから、消極的平和をみました。前回申し上げましたように、種蒔きの例えと毒麦の例えとは、似た構造になっています。例えと例えの解説の間に別のものが挟まれています。今日の箇所は、短いながら、四つの部分からなります。第一と第二の部分は、天の国の二つの例えで、三番目に例えを用いる理由、そして最後に毒麦の例えの解説です。
 まず前回の振り返りと補足として毒麦の例えの解説をみます。今日の箇所で一番長い、最後の部分、36節以下です。振り返りとして、このように語られているにも係わらず、主イエスの十字架の出来事は、ここに描かれている現実を越えていくことです(前回の三つ目)。そして補足として、「畑は世界、良い種は御国の子ら」(38節)に注目しましょう。
 次に例えを用いて語る理由です。34・35節です。詩編78編2節です。預言者・旧約聖書の実現のためだというのです。以前に申し上げた、謎と例えを用いざるを得ない理由の他に、このことがあります。
 最後に、最初の二つの例えをみてみましょう。31~33節です。一つ目はからし種の例えです。天の国(天国、神の国、神の支配)は、からし種が小さな小さな一粒から、本当に大きく成長するように、広がりゆくものだということです。また二つ目も同じことを指し示しています。パン種が生地全体を膨らませるように、そのように神の支配は広がっていきます。これには、三つの場面があるでしょう。私達一人ひとり、教会、そして世界です。大切なことは、私達自身が、信仰の現実として、この主イエスの言葉を信じてイメージすることです。この豊かなイメージをもって、私達は教会形成を進めていきましょう。

2020年8月2日「毒麦を抜くな」(マタイによる福音書13章24~30節)

 今日、日本基督教団では、平和聖日と定めています。以前、積極的平和ということが話題になりました。この国ではかなり歪んだ理解でしたが、今日はそのことがテーマではありません。むしろ消極的平和ということを今日の聖書箇所からみてみたいと思います。この例え自体は、難しいものではありません。主イエスご自身の説明(36~43節)も分かりやすいでしょう。
 今日はこの例えに関して、三つのことだけをみてみましょう。まず第一はこの例えと現実の違いです。現実社会では、畑を手入れします。なぜならば、毒麦を抜かないで放っておけば、良い麦の成長が阻害されるからです(雑草も何も放っておくやり方もありますが一般的ではありません)。少しぐらい間違えて良い麦を抜いてしまったとしても、その方が多くの収穫を望めます。天の国はこの私達の知っている現実とは異なります。毒麦を抜くべきではないのです。なぜなら二つの理由があります。この畑の主は、主イエスまた神なのだから、毒麦があっても、良い麦も大丈夫です。更に、主イエスは一匹の失われた羊を探しに行く飼い主の例え話をなさる方です。一本たりとも、良い麦は抜かれてはなりません。私達一人ひとりを大切にしてくださいます。
 第二に、「自分こそ良い麦だ」と思い込んで、毒麦を抜こうとする時に生じる私達の傲慢さの問題です。もちろん私達は、「自分は毒麦ではないか」と心配する必要はありません。本当は毒麦にすぎない私達を良い麦に変えてくださったのが主イエスの十字架なのですから。そのことを深く自覚するならば、他者を毒麦だと断罪して裁くことの愚かさはよく分かるのではないでしょうか。
 第三に、主イエスの、神の現実はこの例えを越えていくということです。確かにこの例えは、初代教会(マタイの教会)の困難・苦悩に応えます。しかしそれだけではなくて、神の御心ならば、毒麦であるはずのものが、良い麦に変えられるという奇跡が繰り返し起こることを指し示すのではないでしょうか。

2020年7月26日「なぜ例えを用いるのか」(マタイによる福音書13章10~17節)

 今日の箇所は、種蒔きの例えとその説明に挟まれた部分です。なぜ(弟子たちが直接天の国の秘密を悟ることが許されているに)群衆は例えを用いて間接的にしか聞くことができないのか、弟子たちが主イエスに聞きます。10節です。主イエスはお答えになります。11~13節です。
 私達がふつう例えを用いるのは、分かりにくい事柄を分かりやすく伝えるためです。この箇所の主イエスの説明はそれとは反対です。そこには、ユダヤ黙示文学の流れがあるそうです。例えは、アラム語では、「謎」という意味があります。そしてまた当時の初代教会では、なぜ多くのユダヤ人が福音を聞こうとしないのかという問いがありました。それに答える意味もあります。なぜ神の民であるはずのイスラエル、ユダヤ人が聞こうとしないのか。「聞いても聞か」ないからです。そして「耳のある者は聞きなさい」(9節)との呼びかけに応えた、一部のユダヤ人と多くの異邦人が、天の国の秘密を悟ることになります。それは既にイザヤ書に預言されていたことでした(14・15節)。
 17節で、主イエスは、「しかし」と仰って、今まで語ってきた信じないユダヤ人の話から、あなたがた・弟子たちの話へと転換します。16・17節です。山上の説教でも語られていた「幸い」がここで語られます。多くの預言者たちや正しい人たちが望んでいたけれど見ること・聞くことのできなかったものを私達は与えられている。聞くことのできない不幸よりも、私達は聞くことのできる幸いに目を止め、この幸いを与えるために、主イエスが十字架に死んでくださったことを想いましょう。

2020年7月19日「種を蒔く人」(マタイによる福音書13章1~23(10~17を除く)節)

 今日の箇所は、いつもと異なり、10節から17節を省いています(次回扱います)。前半が種を蒔く人のたとえそのもので、省いた部分がたとえを用いて話す理由、そして後半がたとえの主イエスご自身による説明です。しかし学問的には、たとえそのものは主イエスに遡り、たとえの説明は後の教会の解釈だとする説も成り立ちます。ですから、18節以下とは別に9節までを様々な仕方で読み解くこともできます。それは、混乱ではなくて、聖書と聖書の読み方の多様性であり、私達は多様な読み方から多様な事柄を学ぶことができます。
 今回、合わせて読んだのは、18節以下の解釈に従ってこのたとえを読むことを意味します。9節までのたとえでは、種を蒔く人が誰で、種が何であるか、様々に受け止めることができます。しかし18節からの説明を聞きますと、種を蒔く人は、主イエス(と主イエスに派遣されて御言葉を語る人)です。種は、御国の言葉です。ここで日本などの種蒔きと当時のパレスチナの種蒔きの方法の違いが分からないと、様々な必要のない問いが出てきますから、簡単にみておきましょう…。
 そうするとたとえの中身自体は分かりやすいようにも思えます。紙芝居などでもよく題材になります。今日の三つの事柄だけをみましょう。実際に取り上げるのは、最初の道端に蒔かれた種です。18・19節です。まず第一に、蒔かれた種は、御国の言葉であり、私達の心の中に蒔かれたはずです。しかし主イエスは、「こういう人である」と仰います。蒔かれた種、御国の言葉と、私達人間との同一化、一体化が起こっています。御国の言葉が語られ聞かれるならば、そこでは聞いた者が(最終的な反応はまちまちですが)変わらざるを得ない、蒔かれた種と蒔かれた土地は一つになります。第二に、それでは蒔かれた土地である私達は最初から良い土地なりなんなり決まっていて、どうすることもできないのでしょうか。予定的な意味ではその通りです。しかしまた、主イエスは、「耳のある者は聞きなさい」(9節)との励ましの言葉をくださいます。第三に、主イエスは、「百倍、六十倍、三十倍」(8、23節)と仰います。本来聞く耳のない私達が、十字架の主に励まされて、聖霊の導きによって聞く耳を与えられるように祈り求め続けましょう。