これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2020年11月15日「神殿税」(マタイによる福音書17章22~27節)

 今日は税金の話です。この世的な知恵として、税金について語ることは多くあります。しかし今日は、聖書にそって、この箇所で何が言われているかだけをみましょう。三つのことを申し上げます。
 まず第一に、二回目の受難予告(22・23節)と、その後の税金の話の関係です。弟子たちは、復活がよく分からなくて、受難予告を聞いて非常に悲しみます。その悲しみに対する主イエスの答えがここにあります。「では、子どもたちは納めなくてよいわけだ(自由だ、26節最後)」。主イエスの十字架と復活(すべて主イエスの側からすると受け身ですが)とは、神が私達に(罪からの)自由を与えて下さることです。主イエスはもともと神の子として、神殿税を払う必要はありません。そして私達も、主イエスを長子とする神の子にして頂くことによって、この税の義務からも自由にされます。
 第二に、それにも係わらず、主イエスは(少しユーモラスな奇跡を伴って)税金を納めます。27節です。「つまずかせない」ことは、新約聖書がとても大切にするキリスト者の行動の原則です。ちょうど聖書に親しみ祈る会で読んでおりますコリントの信徒への手紙で、偶像に供えられた肉についてのパウロの主張をみました。この箇所の主イエスの態度と同じです。つまずかせないために、パウロは、肉を一切食べなくてもよいのだと、語ります。私達は、キリスト者として、全てにおいて自由です。しかしその自由を欲望を満たすために用いるのではなくて、弱い者・小さな者の救いのためにこそ用います。ルターが、「万人の上に立つ王であり、同時に全ての者に仕える僕」と述べた通りです。
 そして最後に・第三に、この(とてもユニークな)箇所から、福音書のクライマックスである十字架への道がはじまっています。領主ヘロデの迫害を逃れて別の地域に行った主イエスと弟子たちは、今、カファルナウムにいます。もはや、迫害や対立を避けないで、エルサレムへ向かいます。

2020年11月8日「山を下りて」(マタイによる福音書17章14~23節)

 前回は、山上の変貌の記事でした。現代の私達には少し分かりにくいのですが、イエス・キリストの決定的な栄光の現れです。主イエスは、その栄光にとどまり続けるのではなくて、山を下りてきます。16節までが、今日の聖書箇所の主イエスの言葉と癒しへと導く出来事のはじまりでしょう。主イエスと三人の弟子たちが、山の上で特別な体験をしているときにも、山の下では、残りの九人の弟子たちがてんかんを癒すことができないという出来事が起こっています。主イエスはお答えになり、癒します。17・18節です。主イエスは、この時代(の人々)を嘆かれます。我慢しなければならない(下から支え続けならければならない)ことを嘆きます。神の救いの計画において、主イエスは、どんなによこしまな時代であろうと(否、よこしまな時代であるからこそ)、何もせずに父なる神のもとに戻るわけにはいきません。
 弟子たちは、主イエスに派遣されて、神の言葉を語り悪霊を追い出し、病を癒す体験をしています。なぜ私達はできなかったのだろう、と、疑問をもち、ひそかに主イエスに尋ねます。19節です。そして主イエスはお答えになります。20節です。湖の上を歩いた出来事(14章22節~)が思い起こされます。ここでも問題なのは、信仰の小ささです。からし種一粒ほどの信仰があれば、山でも移ります。私達にまず必要なことは、私達にはからし種一粒ほどの小さな信仰さえないのだ、「信仰のない時代」(17節)としか言えない現実があるのだと、自覚することです。ここで主イエスは、「もっと頑張って大きな信仰をもちなさい」と勧めておられるのではありません。(21節については後の付加と考えられる。)
 22・23節です。まだ分かっていない弟子たちは、悲しむしかありません。しかし私達は、知っています。信仰の実に小さな(ないとしかいえないような)私達の救いのために、神の子である主イエスが、十字架の死を受け入れたことを。復活によって、こんな私達もまた、主イエスの後に続いて永遠の命に招かれていることを(今日は召天者記念礼拝)。さあ、十字架と復活によって、自分たちの力では救いに至ることのできない私達の現実を逆転してくださった神の恵みに感謝して歩みましょう。

2020年11月1日イエスの姿が変わる(マタイによる福音書17章1~13節)

 今日の聖書箇所は、とても有名な山上の変貌の記事です。福音書の頂点・分水嶺です。ここから先は、まっすぐに十字架の死へと向かっていきます。今日の聖書箇所最後、洗礼者ヨハネの話にそれは出てきます。10~13節です。実はエリヤであったヨハネを人々が好きなようにあしらった、そのように、主イエスは苦しめられる、と、ご自身仰います。その果てにあるのは、十字架の死です。
 まず、前回の箇所から「六日の後」です。これは当時の日にちの数え方からすると、(私達ならば)七日の後という意味です。ペトロの告白と受難予告から、一週間も準備期間があって、主イエスは特別な場面で特に選ぶ三人を連れて高い山に登られます。それは、主イエスの祈りの場所へと三人を招いたということでしょう。そこで変貌の出来事が起こります。2・3節です。急に現れた二人の人物がなぜモーセとエリヤだと分かったのかは分かりません。この二人は、律法と預言、旧約聖書の全体です。ペトロが的外れな提案をします。混乱していたのでしょうか、少しでもこの素晴らしい状態を維持したいと願ったのでしょうか。4節です。そしてこのペトロの提案が終らない内に、雲の中から声が聞こえます。5節です。これは、主イエスの洗礼の時にも聞こえた神の声です。ただ、付け加わったのは、「これに聞け」という指示です。6~8節は、神顕現のしるしであり、この特別な変貌の出来事の終わりです。
 この変貌の出来事は,その時限りの幻であって、消え去ってしまったのでしょうか。決してそうではありません。最後に、9節です。何回も出てきたメシアの秘密のモチーフです。私達は、「復活するまで」に注目しましょう。現在は、主イエスが復活なさった後です。だから私達は、この変貌の出来事に神の栄光の希望をみてよいのです。更に、まだ知らない方々に、本当の希望はここにこそあるのだと指し示し続ける責任があります。

2020年10月25日「サタン、引き下がれ」(マタイによる福音書16章21~28節)

 福音書の頂点・分水嶺は、前回のペトロの告白と次章の山上の変貌です。そしてこの二つの出来事に挟まれる形で、最初の受難予告がなされています(今日の箇所です)。これはペトロの告白に呼応してなされました。21節です。しかしペトロはこの主イエスの告白を受け入れるのではなくて、ま逆にいさめます。22節です。そして主イエスは、このペトロに語られます、「サタン、引き下がれ(今日の説教題)」と。23節です。なぜ主イエスは、こんなにも厳しくペトロを叱るのでしょうか。それは、神のことではなくて人間のことを思っているからです。確かにペトロは弟子たちを代表して、教会の礎となるような素晴らしい告白をしました。しかしそのメシア理解・メシアへの期待は、私達教会が知っているものとは異なる、植民地支配からの解放などでした。
 それでは、「神のことを思う」とはどういうことでしょう。次に主イエスは、弟子たち全体に語ります、24~27節です。神のことを思う者がとる行動は、主イエスについていくことです。そしてそれは、私達教会の志でもあるのですが、自分を捨てて自分の十字架を背負って従うことです。これは決して英雄的な行動を促すものではありません(ときには結果としてそうなることもありますが)。何か特別なことをすることではなくて、私達自身の日常において、キリストのために自分の命を失う覚悟をもって生きることです。なぜそんなことが可能なのでしょう。命の約束(25・26節)があるからです。そして、主イエスは、(マタイ福音書記者の強調することですが)「それぞれの行い(27節)」を大切にします。28節は、復活のことか再臨のことか解釈が分かれます。
 主イエスは、父なる神が、私達一人ひとりに対して、わたしたち一人ひとりの命が全世界よりも貴い、価値があるのだとしてくださっていることを、わたしたちに語ります。わたしたちは神から与えられた貴さに相応しく生きましょう。

2020年10月18日「この岩の上に」(マタイによる福音書16章13~20節)

 福音書の頂点・分水嶺は、この16章のペトロの告白と次章の山上の変貌です。なぜこの告白が頂点なのでしょう。三つの点に注目しましょう。まず第一に、人々の言葉ではなくて、「あなたがた」の告白、自分の言葉として責任ある発言だからです。13~16節です。
 第二に、告白の内容です。「メシア(キリスト)、生ける神の子」。これは主イエスが十字架に掛けられ死んだ時に、百人隊長らが告白した言葉でもあります(27章54節)。この告白こそ、教会の礎です。17~19節です。「この岩の上に」とは、人間ペトロ個人を指しているのではなくて、この告白のことです(カトリックプロテスタントの一番大きな違い)。しかもこの告白は、決して人間から出てくるものではなくて、ただまっすぐに天の父からのものです。更に主イエスは、この教会にこそ天の国の鍵を授けて下さいました。これは陰府の力も対抗できません。復活の出来事が、これを確かならしめます。
 第三に最後に、この告白から主イエスは、十字架の事実を予告しはじめます(次回の箇所、次回丁寧にみます)。この告白こそ、主イエスが十字架の秘密を語られるのにどうしても必要な唯一のことでした。
 私達教会は、天の国の鍵を授かったものとして、この世界で罪の赦しを宣言し続ける責任があります。もはや十字架と復活以前の、メシアの秘密(20節)はなく、全て公に宣言し、伝道し、天の国(神の支配)へと人々を招き続けます。その私達にどうしても必要なたった一つのことは、「あなたはメシア(キリスト)、生ける神の子」との告白に固く立ち続けることです。

2020年10月11日「しるしを欲しがる罪」(マタイによる福音書16章1~12)

 福音書の頂点・分水嶺は、この16章のペトロの告白、そして次章の山上の変貌です。ここから先は、十字架へ向けて一直線に進んでいきます。その前に・今日の箇所に、既にユダヤの(宗教)指導者たちと主イエスの対立が激しく描き出されています。
 まず彼らの願いです。1節です。まず第一に、普段は対立しているファリサイ派サドカイ派が手を結んでいます。第二に、「試そうとして」に注目しましょう。この言葉が以前に使われていたのは、4章の悪魔の誘惑の箇所です。荒れ野では悪魔が直接誘惑しました。しかし今日の箇所では、既にある「しるし」を見ようとしない人々を用いて、悪魔は誘惑します。そして第三に、「天からのしるしを見せてほしい」と願う罪です。
 なぜしるしを欲しがることが罪なのか、次の主イエスの言葉から分かります。2・3節です。空模様を見分けるように、時代のしるしである主イエスがおられるのに見ようとしない、ここに罪があります。
 そこには三つの罪の要素があります。まず第一に見ようとしない鈍さの罪です。第二に、自分が判断する・裁く座(神の座)につこうとする傲慢の罪です。そして第三に、神の子を(鈍さのゆえに気づかず、自分たちの傲慢さのゆえに主イエスより自分たちを上において)試す罪です。そのとき彼らは悪魔の手先に成り果ててしまいます。
 それは弟子たちには関係のない、人ごとだというのではありません。5節以下です。主イエスの6節の言葉をパンそのもののことを語っているのだという、鈍さからくる誤解があります。給食の奇跡を目の当たりにしていながら未だに分かりません。最後の箇所に至ってやっと、悟ります。私達もまた、私達の愚かさ・鈍さによって、神の言葉、主イエス・キリストご自身というしるしを見ないことにならないように気を付けましょう。

2020年10月4日「主は憐れむ」(マタイによる福音書15章29~39節)

 前回の箇所、カナンの女の信仰の箇所とは異なり、今日の聖書箇所には目新しいことは何もありません。前半は、主イエスの癒しの(纏めの)記事です。後半は、前の章にありました五千人の給食とよく似ています。今日は三つのことだけをみてみましょう。
 まず第一に、前回の箇所と関連して、群衆が誰なのか、です。マタイはユダヤキリスト者を強く意識して書いています。だから、明確には書きませんが、異邦人です。弟子たちの態度や場所のこと、そして群衆の様子から推測できます。つまり主イエスは、カナンの女との出会いを通じて、憐れみ・愛をイスラエルだけではなくて、異邦人にも広げました。
 次に繰り返すことの意味です。主イエスは、倦むことなく憐れみます。私達の愛も、私達の弱さや罪のゆえに、主イエスと同じようにはできないとしても、それを目指します。愛において大切なことは、諦めないことです。まるで砂漠に水を撒くようにむなしいことに思えても、主が神が働いておられることを信じて続けることが大切です。私達の礼拝もキリスト者としての生活も、ある意味では、ひたすら繰り返すことです。この講壇から語られる説教も、本質的には同じことを繰り返し語っているだけです。しかし私達の頑なさ・忘れっぽさ・罪の深さのゆえにこれはどうしても必要なことです。
 そして最後に、主イエスは私達への愛の極限において、十字架に死んで下さいました。私達の信仰には、繰り返すこと、諦めないことの中で、敵のために死ぬことをも厭わない覚悟が求められています。それは「自分の力」では決してできませんが、ただ神がさせて下さいます。