これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2020年12月27日「離婚の話」(マタイによる福音書19章1~12節)

 今日から三つのこと、離婚(結婚)、子ども、そし財産の話です。どれも、具体的な「誰か」との対話です。しかし後の二つと異なり、今日の一つ目の対話は、ファリサイ派の人々が、主イエスを試そうとしています。3節です。それに対して、主イエスは、丁寧にお答えになります。4~6節です。結婚とはそもそも神の意志であって、私たち人間が好き勝手にできるものではありません。LGBTの事柄は今日の箇所から取り扱う課題ではないでしょう。
 彼らは、モーセを引用して、離婚を正当化しようとします。7節です。主イエスは、民の頑固さ・頑なさのために、モーセはそう述べたのであって、最初からそうなのではなかったと仰います。8・9節です。事実離縁状は、完全に男性が優位な世界で女性を守る意味をもっていました。弟子たちは、この主イエスの言葉(「不法な結婚でもないのに」は後の時代の付加か)に対して、結婚しない方がましだとまでいいます。10節。これは、実際に現代のカトリックが主な国々で起こっていることです。私たちプロテスタントよりもカトリックの方が、離婚の問題に厳しいので、「結婚」していなければ破門にならないのです(むしろ税金の問題の方が大きいかもしれませんが)。
 主イエスの最後の言葉をみてみましょう。11・12節です。11節の「この言葉」が何を指すのかが、問題になります。主イエスのそれ以前の言葉なのか、それとも、結婚しないことなのか。いずれにせよ、「恵まれた者だけ」が、この言葉を受け入れます。前回までの箇所で、小さい者を受け入れることが語られてきました。更に、前回の箇所で、多くを(神様から)赦されているにも係わらず、仲間の小さな負債を赦さないことの愚かさをみました。結婚などのとても具体的な関係性において、私たちは、自分の考えに支配されて、神(キリスト)のおられる余地をなくしてはいないでしょうか。結婚自体が問題なのではありません。結婚というとても具体的な関係において、神の御心を生きることが大切です。

2020年12月20日「インマヌエル」(マタイによる福音書1章18~25節)

 クリスマスおめでとう。
 今日は降誕礼拝として、講解説教を一回お休みして、インマヌエルの箇所です。「イエス」の名前の由来として、イザヤ書の「インマヌエル」が挙げられています。以前、友人をクリスマスの礼拝に誘ったとき、ちょうど同じ聖書箇所でした(この箇所はクリスマスに読まれることの多い箇所ですね)。彼は、なぜ名前がインマヌエルではなくてイエスなのかと素朴に聞きました。当時私は神学生で、何となく答えました。そのことを今日は丁寧にみてみようと思います。
 インマヌエルは、神は我々と共に(おられる)という意味です。そしてイエスは、ヘブライ語ではヨシュアです。「神は救い」という意味です。なぜマタイ福音書記者は、名付けの箇所で、このイザヤの預言の言葉(今日詳しく語ることはしませんが、本来は当時の文脈がありますが、後にメシア預言として受け止められるようになったようです)を引用したのでしょうか。明確な意図があります。マタイ福音書記者は、最後(の昇天の記事)でも「世の終わりまで私はあなた方と共にいる」と書きます。福音書の最初と最後に「共に」と描くことで、福音の中核にある出来事は、神・キリストが共におられることだと指し示しています。ですから、この箇所で、インマヌエルをイエスの名付けのモティーフとして描くのは、「主が共におられる」ことこそ、私たちの救いなのだということではないでしょうか。
 現在大変なコロナ禍の中で、世界は(日本も含めて)大変なことになっています。だからこそ、私たちは信仰の原点に立ち返って、「主が共におられる(インマヌエル)」を大切にして、いつでも神への感謝と救いの喜びを生きることができる神の恵みに生きましょう。

2020年12月13日「七の七十倍までも」(マタイによる福音書18章21~35節)

 今日の主イエスの例え話は、ペトロの問いをきっかけとしています。21節です。「仏の顔も三度まで」などといいますが、当時のユダヤでは、三回までは赦しなさいというのが一般的であったようです。ペトロは、主イエスは普通と違うので、一般に言われていることの倍に一回足して、七回にします。かなり多い数を言ったつもりでしょう。これに対して主イエスは、答えます。22節です。これは、申し上げるまでもなく、「490回は許せ、そして491回目に赦さないで一気に報復しなさい」という意味ではありません。赦すことに限界があってはならない、赦し続けなさい、ということです。
 そして例え話を語られます。23~35節です。子どもでも分かる、分かりやすい話です。この王、主君に負債を赦された家来に対して、僅か百デナリオンを赦さなかったのは、当然だ、よく分かる、という人は少ないのではないでしょうか。なぜ自分が途方もない借金を赦してもらったのに、僅かばかりの借金さえ赦さないのか(そして牢に入れてしまっては、稼ぐこともできません)。とんでもない家来だと、多くの方は思うでしょうし、31節の仲間たちの心を痛める気持ちは、とてもよく分かるのではないでしょうか。
 この例えの意味は、明らかです。神様と私達との関係において、私達は途方もない負い目(借金、罪)を赦して頂きました。それにも係わらず、私達が仲間の罪を赦さないとしたら、この家来と同じことをしています。主の祈りで、「我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」と私達は祈ります。この祈りを祈る根拠・理由は、私達が神様から途方もなく赦されているという事実です。
 しかし更に、この祈りこそ、主の祈りの中で、最も躓きの多い祈りです。(建前・理屈としては赦すべきだと分かるのだけれども)「どうしても赦せない」という苦しみを多くの方々が体験しています。「赦せない」限り、私達はその出来事から自由になれません。そのとき、私達はこの家来と同じ愚かさを体験しつつも、神が主イエスの十字架によってなして下さった私達への赦しをより深く悟ることができるように、神に祈り求めることができるのではないでしょうか。アドベントの今、主イエスの降誕に備えて、自分の「赦すことができない罪」をも赦して下さる神の愛に生きましょう。

2020年12月6日「二人または三人が」(マタイによる福音書18章15~20節)

 今日の聖書箇所前半で述べられていることは、戒規の元になった主イエスの教えです。15~17節です。今日は三つのことだけを申しましょう。まず第一に、主イエス、そして初代教会は、罪の問題を本当に真剣に捉えていました。諸外国の教会は知りませんが、私達日本の教会はどうもこの点に、弱点があるように思います。たとえ自分ではなくて他者の罪の問題であっても、教会がキリストを中心とする信仰共同体である以上、その罪の問題は自分自身の問題です。この点の自覚が乏しいのではないでしょうか。第二に、戒規が問題になるのは、教会の中の争いを強い側の論理によって解決するのに用いられているように思います(三里塚問題など)。明治時代などには、本来の意味で(その全てが正しい執行であったとは言えないにしても)行われていたものが、変質し、更にはフツウは自分たちの弱さや罪に省みてほぼ行われなくなりながら、争いのときには用いられているという悲しい現実があります。そして最後に、17節の「異邦人か徴税人」に注目します。これは、ユダヤ人的な理解では、もはや共同体から排除されるべきもの、係わるべきでないものとして見るということです。しかし主イエスご自身はどうだったでしょう。ファリサイ派などの模範的な人々から見捨てられていた罪人や徴税人と共に食事をし、この人々を救うために自分は来たのだと仰います。私達も切り捨てるのではなくて、この主イエスに倣うことが求められているのではないでしょうか。
 後半(18~20節)にも、天国の鍵や願い事のことなど、幾つも大切なことがありますが、今日は一点に集中します。二人または三人がキリストの名によって集まることです。私達が人数がどうであれ、キリストの体なる教会として歩むことができるのも、罪の問題(それは永遠の命を失うことなりかねない、実に大切な問題です)に、自分たちの弱さや罪の深さにも係わらず向き合うことができるのも、この事実があるからです。主イエスがたとえ目に見えなくてもここに確かにおられる、このことだけが、私達教会の根拠・希望・確かさです。

 

2020年11月29日「迷い出た羊」(マタイによる福音書18章10~14節)

 今日の羊の例えは、ルカによる福音書にもあります。ルカでは、その後に失われた銀貨の例えと放蕩息子の例えがあります。この三つがセットになって、失われたものが見出される、天の(神の)喜びが表現されています。マタイでは少し短くて、また文脈も異なります。今回はマタイの文脈に沿ってみていきましょう。
 まず最初に述べられていることは、天使のことです。10節です。当時の天使の考え方からすると、画期的なことです。どんなに小さな者にも天使がついているというのですから。偉い人、信心深い人には大勢の天使がついていて、貧しい者、小さい者、取るに足りない者には天使がついていないのだという当時の一般的なものの見方と異なります。
 次に迷い出た羊の例えです。12・13節です。この箇所の天の喜びは、ルカと一緒です。その一匹がとても貴重な羊であったとする外典トマスによる福音書をみれば、この例えの(ひいては天国の)不思議さがよく分かります。為政者など多くの責任ある立場にある方々が、「多数のために少数の犠牲はやむを得ない」という考え方とは真逆のものがここにあります。理性的に考えれば、残りの99匹を放っておいて1匹を探しに行くのは理不尽なことです。しかし神は、そのような理不尽なことをなさってでも、小さな者が滅びる、救われないことを望みません(あなたがたの天の父の御心ではない、14節)。つまずきは避けられない(7節)ととても現実的な厳しいことを仰りつつ、何としてでも「小さい者」を救おうとなさる神の御心を私達は大切にしましょう。この「小さい者」はまさに私のことなのです。

2020年11月22日「躓きをもたらさないために」(マタイによる福音書18章1~9節)

 今日の聖書箇所は、「そのとき」ではじまっておりますように、前回の箇所と緩やかに繋がっています。まず、1節です。ペトロの特別扱いが、彼らの問いの引金かもしれません。弟子たちは、まだ十字架と復活が分かりませんから、神の国(支配)を誤解しております。だからこのような問いになります。主イエスはお答えになります。2~5節です。弟子たちの子どもっぽい問いに答えつつ、主イエスは微妙に話の焦点をずらしておられます。最初は、天国(神の支配)に入る(偉い・大きな者となる)には、子どものようになる必要があるということです。それが、子どもを受け入れるという話になります。
 まず、「子どものようになる」とは、どういう意味でしょう。様々な議論がありますが、ヒントになるのは、「自分を低くして」(4節)です。純真とか無邪気とかいうことではなくて、当時の社会状況において子どもがどのような存在であったかをみれば分かるように、自分の力では生きることができない未熟な存在であるという自覚をもつことです。大切なのは、(本当は低いなどと思っていないのに)低いふりをするということではなくて、本当に低くする、神の前に子どもとしての自分を生きることです。
 そしてそれは、受け入れる話になります。子ども(小さな者)を受け入れる・つまずかせない者は、キリスト・イエスを受け入れることになるのだ(5節)と主イエスは約束して下さいます。しかもそこでたった一つの条件は、「わたしの名のために」です。いつでも誰でもどんな状況でも受け入れるというのではありません。わたしの名、つまり主イエスのために受け入れます。それは、「わたしを信じる小さな者」を受け入れること、つまずかせないことです。6~9節をみれば、そのことの厳しさがよく分かります。さあ、私達は、「誰が一番か」などという子どもっぽい愚かな問いに生きるのではなくて、まっすぐに、キリストの名のために励みましょう。

2020年11月15日「神殿税」(マタイによる福音書17章22~27節)

 今日は税金の話です。この世的な知恵として、税金について語ることは多くあります。しかし今日は、聖書にそって、この箇所で何が言われているかだけをみましょう。三つのことを申し上げます。
 まず第一に、二回目の受難予告(22・23節)と、その後の税金の話の関係です。弟子たちは、復活がよく分からなくて、受難予告を聞いて非常に悲しみます。その悲しみに対する主イエスの答えがここにあります。「では、子どもたちは納めなくてよいわけだ(自由だ、26節最後)」。主イエスの十字架と復活(すべて主イエスの側からすると受け身ですが)とは、神が私達に(罪からの)自由を与えて下さることです。主イエスはもともと神の子として、神殿税を払う必要はありません。そして私達も、主イエスを長子とする神の子にして頂くことによって、この税の義務からも自由にされます。
 第二に、それにも係わらず、主イエスは(少しユーモラスな奇跡を伴って)税金を納めます。27節です。「つまずかせない」ことは、新約聖書がとても大切にするキリスト者の行動の原則です。ちょうど聖書に親しみ祈る会で読んでおりますコリントの信徒への手紙で、偶像に供えられた肉についてのパウロの主張をみました。この箇所の主イエスの態度と同じです。つまずかせないために、パウロは、肉を一切食べなくてもよいのだと、語ります。私達は、キリスト者として、全てにおいて自由です。しかしその自由を欲望を満たすために用いるのではなくて、弱い者・小さな者の救いのためにこそ用います。ルターが、「万人の上に立つ王であり、同時に全ての者に仕える僕」と述べた通りです。
 そして最後に・第三に、この(とてもユニークな)箇所から、福音書のクライマックスである十字架への道がはじまっています。領主ヘロデの迫害を逃れて別の地域に行った主イエスと弟子たちは、今、カファルナウムにいます。もはや、迫害や対立を避けないで、エルサレムへ向かいます。