これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2020年1月24日「ぶどう園の労働者」(マタイによる福音書20章1~16節)

 結婚・離婚、子ども、財産と、私たちに身近な三つの事柄の後、主イエスは弟子たちに「神は何でもできる」と仰り、また、主イエスに従った弟子たちに大きな報いを約束なさいました。次回は三度目の死と復活の予告です。その間に挟まれて、このぶどう園の労働者の例えがあります。しかもこの例えは、前回最後の30節と今日の最後の16節で囲い込まれて、この言葉の説明にもなっています。まずわきまえておきたいことは、このたとえが天の国(神の国、神の支配)の例えだということです。
 この主人は、この世界の感覚から致しますと、とても理解できないことをしています。合理的な雇い主であれば、今日自分のぶどう園に必要な労働者を計算し、朝一番にその人数を雇えばそれでよいのです。この主人は、そうではなくて、何回も雇いに行き、終いには僅かしか働けない5時にまで、雇います。そして全員に一デナリオン払います、約束通りに。
 しかしこの賃金を払う順番が不平不満をよびます。8節です。案の定、不満が出ます。最後までまとめて読みましょう。9~16節です。この話は、天の国の例え話です。天国(永遠の命)に関しては、このように、後の者が先になり、先の者が後になるのだと、主イエスは仰います。以前未受洗の方が、自分は死ぬ直前に洗礼を受けたいのだと言いました。最後天国へは行きたいのだけれども、今洗礼を受けてしまってキリスト者になって、様々な義務・やらなければならないことが生じるのはいやだ。死ぬ直前まで自分の好き勝手に生きて、そして最後は救われたい。後の者が…からすると、これは最も合理的なやり方ではありましょう。
 ここで私たちが問われるのは、キリスト者となってからの生きる姿をどう捉えるのか、ということでしょう。確かにキリスト者として生きるのは、お気楽なことではありません。様々な労苦を背負うことになります。しかしぶどう園の労働者のことを考えてください。彼らは日雇い労働者です。一日中仕事にありつくことができなければ、(家族も含めて)食べることもできません。しかし早くに雇われた人は、「今日の糧は大丈夫」という安心感をもって生きることができます。働くことができない間の不安・焦燥感を思えば、ぎりぎりで間に合った人々について、神の気前のよさに心を合わせて、私たちも喜ぶ事ができるし、それこそ神が求める伝道の姿勢なのではないでしょうか。

2021年1月17日「新しい世界へ」(マタイによる福音書19章23~30節)

 今日の聖書箇所は、前回(先週)、金持ちの青年が悲しみながら去っていった後で、弟子たちと語られた箇所です。まず主イエスは、金持ちが救われることの難しさを語ります。それに対して、弟子たちが驚きます。23~25節です。この弟子たちの驚きは、山上の説教などで主イエスの教えを知っていればありえないことです。しかし当時の常識(金持ちは、神に従うから神からの恵みとして金持ちなのであり、天国もその延長上にある)からすれば、よく分かります。「だれが…」という弟子たちの嘆きに主イエスは答えます。26節です。「神は何でもできる」。これこそ信仰の要・急所です。救いようのない私たちが、それでもなお、救いを確信することができる、それは、神は何でもできることを主イエスの復活によって、知っているからです。十字架の罪の赦しを知っているからです。

   次のペトロの問いと主イエスの答えはここまでの文章の流れからすると、少し不思議です。27~29節です。むしろその前の、金持ちの青年との対比で、ペトロは語ったのでしょう。しかしこの後の出来事(ペトロの否認など)をみると、ここで主イエスが報いを語っているのはおかしなこと、叱責すべきではないかとさえ感じます。しかし主イエスは報いを約束なさいます。これはまた、私たちへの励ましではないでしょうか。たとえ私たちがどんなにたどたどしい歩みであったとしても(完璧で英雄的な歩みではなかったとしても)、主イエスは私たちに報いを約束してくださる。来るべき新しい世界で、そのような豊かな主の報いがあることに、私たちは信頼してよいのです(マルコの報いとの違いに注目)。来るべき新しい世界へと私たちは招かれています。この世界がまだそうなっていないとしても、私たちはこの新しい世界を知っており、この新しい世界への希望と期待をもって、今を生きます。
 最後、30節です。次回のぶどう園の労働者のたとえでその意味をみましょう。

2021年1月10日「永遠の命を得るには」(マタイによる福音書10章40~11章1節)

今私たちは、夫婦、子ども、そして財産の問題という、とても身近な三つの事柄をみています。文脈は、小さな者への配慮から、エルサレム入城との間の箇所です。まず前半をみましょう。13~15節です。手を置いて祈って頂くために子どもたちを連れてくる人々をなぜ弟子たちは叱るのでしょう。既にエルサレムへ向けて進む緊張感があったのかもしれません。少なくとも弟子たちは、主イエスがこれから何事かをなそうとしていることを感じ取っていたのでしょう。しかし、主イエスは弟子たちをいさめて、「天の国はこのような者たちのもの」だと仰います。この辺りの底辺に流れているのは、常にこの「天の国」(神の国、神の支配)の事です。
 これは、金持ちの青年の箇所では、「永遠の命を得る」という表現になっています(次回の23節から分かります)。まず、彼は問います。16節です。そこから、二人の対話がはじまります。17~20節です。この金持ちの青年の様子が少し分かってきます。とても真面目で、単にお金持ちなだけではなくて、神への熱心、律法への熱心があることが分かります。彼に対する主イエスの答えは、当たり前の平凡なものです。ただ三つのことだけに注目しましょう。まず第一に、「善いこと、善い方」のこと。第二に、主イエスが掟を具体的に挙げるときに、十戒の前半、神と直接関わる箇所を仰らないで、人間関係の箇所だけを語っておられること。第三に、この青年は、律法をきちんと行いつつも、神の国・永遠の命の確信がもてないでいたことです。
 いったい何が彼の問題だったのでしょう。最後に主イエスは仰り、この青年は去っていきます。21・22節です。ここから某かの一般原則(例えば、全てキリスト者は、全財産を施すべきだとか、在野と出家のような二つの階層を想定するとか)を読み取ることは間違っています。更に、様々な形で、この主イエスの言葉を薄めて読むことも違います。ただ、この青年にとっては、金持ちであることこそが、幼子のように、ただまっすぐに神にのみ頼ることを阻害していることが問題です。私たちが神ならざるもの、例えば財産・才能・美貌・知恵などに頼ってはいないか、全き神への信頼に生きているか、問い直してみましょう。

2021年1月3日「憐れみ深い者となれ」(ルカによる福音書6章27~36節)

 今日は、一年のはじめの礼拝として、普段のマタイの講解説教を離れて、ローズンゲンの年の聖句に聴きます。ルカによる福音書6章36節です。「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」
 はじめに、今年のローズンゲン、291版の序から引用します。「…」。
 このルカによる福音書の箇所は、マタイでは、山上の説教にあります。マタイ5章48節では、「完全な者となりなさい」と述べられています。神の完全さとは、「恩を知らない者にも悪人にも」情け深いような憐れみです。これは、私たちの浅い狭い正義の観念からすると、不合理なものです。私たちは、「なぜ悪人が栄えるのだろう、なぜ神は悪人にも憐れみ深いのだろう」と思います。神は、正義の方、平等な方ではないのか。
 確かに神は正義の神であり、最後の審判において、全てを正しくお裁きになられます。主イエスの十字架を抜きにして、今直ちに神が正しく裁かれるとしたら、全ての者は地獄へ行かざるをえないでしょう。しかし、神は、憐れみ深く忍耐して下さっています、一人でも多くの者が救われるために。
 私たちは、この神の完全さ・憐れみ深さに倣う者となることが求められています。いつだって私たちは不完全で、神のように憐れみ深くあることはできません。それでもなお、再臨・終末を視野に入れつつ、少しでも憐れみ深い生き方を志し続けることはできます。そこに敵をも愛する愛が成り立っていきます。さあ、まだはじまったばかりのこの一年、「憐れみ深い者と」なることを志して生きましょう。

2020年12月27日「離婚の話」(マタイによる福音書19章1~12節)

 今日から三つのこと、離婚(結婚)、子ども、そし財産の話です。どれも、具体的な「誰か」との対話です。しかし後の二つと異なり、今日の一つ目の対話は、ファリサイ派の人々が、主イエスを試そうとしています。3節です。それに対して、主イエスは、丁寧にお答えになります。4~6節です。結婚とはそもそも神の意志であって、私たち人間が好き勝手にできるものではありません。LGBTの事柄は今日の箇所から取り扱う課題ではないでしょう。
 彼らは、モーセを引用して、離婚を正当化しようとします。7節です。主イエスは、民の頑固さ・頑なさのために、モーセはそう述べたのであって、最初からそうなのではなかったと仰います。8・9節です。事実離縁状は、完全に男性が優位な世界で女性を守る意味をもっていました。弟子たちは、この主イエスの言葉(「不法な結婚でもないのに」は後の時代の付加か)に対して、結婚しない方がましだとまでいいます。10節。これは、実際に現代のカトリックが主な国々で起こっていることです。私たちプロテスタントよりもカトリックの方が、離婚の問題に厳しいので、「結婚」していなければ破門にならないのです(むしろ税金の問題の方が大きいかもしれませんが)。
 主イエスの最後の言葉をみてみましょう。11・12節です。11節の「この言葉」が何を指すのかが、問題になります。主イエスのそれ以前の言葉なのか、それとも、結婚しないことなのか。いずれにせよ、「恵まれた者だけ」が、この言葉を受け入れます。前回までの箇所で、小さい者を受け入れることが語られてきました。更に、前回の箇所で、多くを(神様から)赦されているにも係わらず、仲間の小さな負債を赦さないことの愚かさをみました。結婚などのとても具体的な関係性において、私たちは、自分の考えに支配されて、神(キリスト)のおられる余地をなくしてはいないでしょうか。結婚自体が問題なのではありません。結婚というとても具体的な関係において、神の御心を生きることが大切です。

2020年12月20日「インマヌエル」(マタイによる福音書1章18~25節)

 クリスマスおめでとう。
 今日は降誕礼拝として、講解説教を一回お休みして、インマヌエルの箇所です。「イエス」の名前の由来として、イザヤ書の「インマヌエル」が挙げられています。以前、友人をクリスマスの礼拝に誘ったとき、ちょうど同じ聖書箇所でした(この箇所はクリスマスに読まれることの多い箇所ですね)。彼は、なぜ名前がインマヌエルではなくてイエスなのかと素朴に聞きました。当時私は神学生で、何となく答えました。そのことを今日は丁寧にみてみようと思います。
 インマヌエルは、神は我々と共に(おられる)という意味です。そしてイエスは、ヘブライ語ではヨシュアです。「神は救い」という意味です。なぜマタイ福音書記者は、名付けの箇所で、このイザヤの預言の言葉(今日詳しく語ることはしませんが、本来は当時の文脈がありますが、後にメシア預言として受け止められるようになったようです)を引用したのでしょうか。明確な意図があります。マタイ福音書記者は、最後(の昇天の記事)でも「世の終わりまで私はあなた方と共にいる」と書きます。福音書の最初と最後に「共に」と描くことで、福音の中核にある出来事は、神・キリストが共におられることだと指し示しています。ですから、この箇所で、インマヌエルをイエスの名付けのモティーフとして描くのは、「主が共におられる」ことこそ、私たちの救いなのだということではないでしょうか。
 現在大変なコロナ禍の中で、世界は(日本も含めて)大変なことになっています。だからこそ、私たちは信仰の原点に立ち返って、「主が共におられる(インマヌエル)」を大切にして、いつでも神への感謝と救いの喜びを生きることができる神の恵みに生きましょう。

2020年12月13日「七の七十倍までも」(マタイによる福音書18章21~35節)

 今日の主イエスの例え話は、ペトロの問いをきっかけとしています。21節です。「仏の顔も三度まで」などといいますが、当時のユダヤでは、三回までは赦しなさいというのが一般的であったようです。ペトロは、主イエスは普通と違うので、一般に言われていることの倍に一回足して、七回にします。かなり多い数を言ったつもりでしょう。これに対して主イエスは、答えます。22節です。これは、申し上げるまでもなく、「490回は許せ、そして491回目に赦さないで一気に報復しなさい」という意味ではありません。赦すことに限界があってはならない、赦し続けなさい、ということです。
 そして例え話を語られます。23~35節です。子どもでも分かる、分かりやすい話です。この王、主君に負債を赦された家来に対して、僅か百デナリオンを赦さなかったのは、当然だ、よく分かる、という人は少ないのではないでしょうか。なぜ自分が途方もない借金を赦してもらったのに、僅かばかりの借金さえ赦さないのか(そして牢に入れてしまっては、稼ぐこともできません)。とんでもない家来だと、多くの方は思うでしょうし、31節の仲間たちの心を痛める気持ちは、とてもよく分かるのではないでしょうか。
 この例えの意味は、明らかです。神様と私達との関係において、私達は途方もない負い目(借金、罪)を赦して頂きました。それにも係わらず、私達が仲間の罪を赦さないとしたら、この家来と同じことをしています。主の祈りで、「我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」と私達は祈ります。この祈りを祈る根拠・理由は、私達が神様から途方もなく赦されているという事実です。
 しかし更に、この祈りこそ、主の祈りの中で、最も躓きの多い祈りです。(建前・理屈としては赦すべきだと分かるのだけれども)「どうしても赦せない」という苦しみを多くの方々が体験しています。「赦せない」限り、私達はその出来事から自由になれません。そのとき、私達はこの家来と同じ愚かさを体験しつつも、神が主イエスの十字架によってなして下さった私達への赦しをより深く悟ることができるように、神に祈り求めることができるのではないでしょうか。アドベントの今、主イエスの降誕に備えて、自分の「赦すことができない罪」をも赦して下さる神の愛に生きましょう。