これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2021年3月14日「二人の息子」(マタイによる福音書21章28~32節)

 今日の聖書箇所で、まずポイントになるのは、主イエスが誰に向かってこの例え話を語っておられるのか、です。それは、前回の「祭司長や民の長老たち」です。するとこの例えが何を表現しているかも分かります。例え自体は、28~30節です。とても分かりやすい例えです。何の疑問もありません。父の望み通りにしたのは、兄の方です。だから主イエスの(答えの分かりきった問いに)彼らは、「兄の方です」と答えます。31節前半です。そして主イエスは、大切なことを語る時のいつもの言葉、アーメン(はっきり)を語って、この例えの意味を教えます。31節後半から32節です。弟のように、良い返事をしながら実行しないのは、洗礼者ヨハネが示した義の道を信じないことです。(前回の箇所で主イエスの問いに)答えないけれども、実際は態度で答えてしまった祭司長や民の長老たちです。兄のように最初は「いやです」と答えながら父親の望み通りに働くのは、徴税人や娼婦です。
 三つのことを確認して、今日の説教を終りましょう。まず第一に確認したいことは、この例えは宗教的権力者たちに対する痛烈な批判です。第二に、父(神)の望むことは、何か特別な良い行いではなくて、ヨハネの示した義の道(厳密にいえば、主イエスこそがそれをはっきりと示します)を信じることです。そして第三に(最後に)、「はい」と返事をして実際に行うような第三の道はここにはありません。この箇所について論じる方々の中には、「一番良いのはこの第三の道だ」と主張する方々もおられます。しかしそれは、現実にはないのです。私達は自分の罪を深く自覚しつつ、徴税人や娼婦のように、神の義・神の愛を信じましょう。そこでこそ、父なる神と共に、主イエスと共に、働く道が備えられているのですから。

2021年3月7日「何の権威で」(マタイによる福音書21章23~27節)

 今日の聖書箇所は、エルサレム入城の翌日、月曜日のことが続きます。まず、23節です。当時の宗教的・政治的権力者(小さな権力者)たちが、主イエスの行いに対して、その権威を問います。昨日のエルサレム入城や宮清めのことが問題になっています(主イエスの公生涯の全てが、とも、とれます)。確かに、主イエスのなさったことは、権力者たちの神経をさかなでするようなことです。主イエスに群衆の人気がなかったら、もう逮捕しているかもしれません。権力者たちは、群衆を恐れつつも、何とか「問題」を解決しようとします。群衆への恐れは、主イエスの答え(同時に問い、24節、25節前半)に対する彼らの応答からよく分かります。25節後半から27節です。
 権力者たちが何を間違えたのか、私達にはよく分かると思います。権威の源である神と直接繋がっており、それゆえ権威そのものである主イエスに、「何の権威で」とたずねたことです。「権威」について、哲学的な考察をしますと、説教が終らなくなってしまいますので、今日の箇所では、そうしてよい正当性・根拠位の意味にとりましょう。権力者たちは、自分たちこそ、何をしてよくて何をしてはいけないかを決める権威があるのだと考えていました。だから主イエスに尋ねます。しかし彼らは、恐れの内に、答えません。それで主イエスも答えません。
 この問答には、税金問答(22章)のような、主イエスの賢さ・知恵もみることができます。しかしそれだけではありません。もしも、権力者たちが自己保身に走るのではなくて、逃げないで、彼らなりに誠実に答えていたならば、主イエスはご自身の権威についてきちんと教えたのではないでしょうか。
 この出来事は、私達には他人事の遠い昔の話でしょうか。決してそうではありません。私達が、主イエスの前に立つとき、私達は、主イエスの権威を受け入れて従うか、拒絶するか二つの一つです。「保留」はありません。しかし私達は、本当はありもしない自分の「権威」によって、主イエスに対して、「何の権威で」と問いただす罪を(ここに出てくる権力者たちと同じように)犯してしまうことがないでしょうか。主イエスに従いましょう。

2021年2月28日「実を結ぼう」(マタイによる福音書21章18~22節)

 今日の聖書箇所はマタイではエルサレム入城の翌日、月曜日のことです。この出来事は、福音書の中でも特に難しく分かりにくい出来事だといえるでしょう。といいますのも、この奇跡だけが唯一、否定的な奇跡だからです。18・19節です。「空腹を覚えられた」は、「飢えた」という強い言葉が使われています。小腹が空いたという程度のことではありません。しかしそれでも、あまりにも自分勝手なのではないでしょうか。他の福音書によれば(そして事実、過越の祭の頃はまだいちじくの季節ではありません)、いちじくの季節ではなかったからと解説しています。なぜ主イエスは呪いのような言葉をこのいちじくの木にかけたのでしょうか。
 昔からされてきた説明は、このいちじくがイスラエルエルサレム、神の都)を象徴しているというものです。葉はあるけれども実がない。それは、一見繁栄しているようにみえても中身がないという意味です。ただしナチスホロコースト以来、そのような見方は、反ユダヤ主義的ではないかということで、あまりされなくなりました。
 むしろ現代においては、私達自身が見せ掛けだけで、実がないならば、それは枯れる(地獄に落ちる)のだと示しています。ではどうしたら良いのでしょうか。この後の弟子たちと主イエスの対話にヒントがあります。20~22節です。「信じて祈る、疑わない」ことの大切さが語られています。私達がいちじくの木に照らしてどうかといえば、私達もまた実のないいちじくにすぎません。しかし、神との祈りの対話において、実を結ばせて頂くのです。それは偽善的な、葉ばかりが生い茂るような見せ掛けのものではありません。信実な祈りにおいて、私達自身が変えられることです。

2021年2月21日「祈りの家と」(マタイによる福音書21章12~17節)

 前回はエルサレム入城でした。入城して、主イエスはまず何をしたのでしょうか。12・13節です。いわゆる宮清めです。柔和な方である主イエスが、ほぼこの箇所でだけは、とても厳しく激しいのです。そこでこの箇所は、暴力的で過激なことをよしとなさる方々からは、「主イエスもまた時と場合によっては暴力を認めるのだ」という論拠として用いられてきました。しかし果たしてそうなのでしょうか。この箇所で確かに主イエスは、売り買いをしていた人々を追い出し、台や腰掛けを倒されます。しかし人間は誰一人傷つけていません。人が人を傷つけることは、父なる神の御心ではないからでしょう。どんなに正しい主張でも、方法を間違えれば悪になってしまいます。
 ここで主イエスが語っておられるのは、神の家であり主イエスの家である神殿は、祈りの家なのだ(イザヤ書56章7節)ということです。強盗の巣というのは、神殿での出来事もまた、経済活動としての側面をもっており、許認可など様々な仕方で、金儲けがあったのだということです。それに対して主イエスは、真っ向から異議を唱えます。そして大変興味深いのは、ここで主イエスがしておられることです。14節です。ダビデ以来、このような人々は神殿に入ることさえ認められていませんでした。しかし主イエスの宮清めのごたごたに乗じたのでしょうか、主イエスの傍にやってきて、そして主イエスは癒します。ここでも主イエスは、神殿の内と外、境内の内と外の境を破ります。
 それと正反対なのが、宗教的指導者たちです。15、16節前半です。彼らの関心は、自分たちの既得権であり権威です。もはやエルサレムに入城なさったので、メシアの秘密のモティーフは無用です。彼らに答えます。16節後半、17節です。これは、王をほめたたえる「ホサナ、讃美」です。わたしたちは、主イエスと神とをほめたたえるからこそ、この世界のあらゆる不正にも正しく拒否していきましょう。

2021年2月14日「エルサレム入城」(マタイによる福音書21章1~11節)

 今日はいよいよエルサレム入城です。私たちは講解説教ですが、教会歴に従って聖書箇所を決める教会では、この記事は年に二回読まれる可能性があります。一つは棕櫚の主日であり、いま一つは待降節第一主日(教会の暦の上で一年の最初の日)です。今週の水曜日が灰の水曜日で、受難節になります。本当はせめて、受難節になってから読みたかったのですが、灰の水曜日に備えて、この記事を読みましょう。
 今日は三つのことだけに注目したいと思います。まず第一にろばの話です。マタイでは、母ろばと子ろばになっています。これは、主イエスエルサレム入城が旧約聖書の預言する通りであったことをより明確に表現するためでしょう。そしてそれよりも大切なことは、「王」に相応しい強くて立派な馬ではなくて、聖書の預言の通りにろばであったことです。これはこの世界の多くの王と異なり、主イエスは柔和な方だということを示しています。
 そして二番目に注目したいことは、群衆です。私たちは、この群衆が、宗教的指導者たちに煽動されて「十字架につけろ」と叫ぶことを知っています。服や枝を敷いてお迎えするのは、まさに王を迎えることです。群衆には大きな誤解(主イエスがローマの植民地支配からイスラエル・神の民を解放する)に基づく、大きな期待がありました。その期待が主イエスの逮捕によって裏切られたと感じたからこそ、「十字架につけろ」になったのです。
 そして第三に・最後に、このような無理解の群衆の(一人ひとりの)ために、主イエスは十字架への道を進まれるのだということです。私たちは、今は二千年経ってこの群衆と同じ誤解や期待の中にはありません。しかし私たちもまた、私たち自身の自分勝手な期待で、主イエスを捉えようとしてはいないでしょうか。私たちに求められているのは、自分の身勝手なキリスト期待に抗って、主イエスを真実の王として受け入れ、この王に仕える日々を形作っていくことではないでしょうか。

2021年2月7日「何をしてほしいのか」(マタイによる福音書20章29~34節)

 次回はいよいよエルサレム入城です。エルサレム入城の前には、多少の違いはあるものの、共観福音書では全て、盲人の癒しがあります。終末の先取りの意味です。マタイではまず、エリコが描かれます。エルサレムの直前、最後の宿です。29節です。大勢の群衆とは、入城の際の一つの背景です。ここに現れるのが二人の盲人です。30・31節です。叱りつけられても、諦めないで更に叫ぶ、ここに諦めない信仰の模範を読み取ることもできるでしょう。
 次に、32・33節です。ここで注目すべきことは、主イエスが「何をしてほしいのか」とたずねておられることです。エルサレムへ向けて、主イエスは急いでいたはずですから、さっと癒してそこを後にしても良かったでしょう。しかし、わざわざたずねます。これは、21節と同じ言葉が使われています。盲人の二人ですから、目を開けてほしいのだということは、聞くまでもなく分かるでしょう。しかしあえてたずねることで、二人の盲人は、今一度自分たちの願いが何であるか、自問自答することとなります。それは前回の箇所で、よく分かっていないのに、玉座の左右を願ったのと、対照的です。主イエスが傍らを通り過ぎる(この通り過ぎるというのは、旧約聖書で神顕現)ときに、私たちは何を願うのでしょうか。この盲人たちが、肉体の目が開かれることを願ったように、私たちの心の目・信仰の目が開かれるように願うのでしょうか。それとも、前回の弟子たち(の母親)が願ったように的外れなことを願うのでしょうか。
 人生の様々な場面で、私たちは様々な願いをもつものです。しかしその願いは、本当に神の御心に適った願い、救い・永遠の命・天の国への願いであるかどうか吟味する必要があるでしょう。

2021年1月31日「仕えるためにこそ」(マタイによる福音書20章17~28節)

 前回、ぶどう園の労働者の天の国の例えを通して、私たちが信仰者・キリスト者として生きることを今一度省みる機会を与えられました。それに続いて今日の箇所では、三度目の死と復活の予告です。この予告の度に私たちが注目したいことは、ここに(受難だけではなくて)復活の予告があるのだということです。更に、三度目の・今日の予告では、十字架がはっきり語られています。しかし弟子たちは、主イエスの逮捕の時には全員逃げ出します。また、主イエスが復活もまた予告しておられたことは、後になって、そういえば、と、思い出します。
 ですから次の段落で、ヤコブヨハネの母が願い出る時には、三度目の予告自体が十二人の弟子だけを呼び寄せて語られましたし、二人の母は予告のことが分かっていないで、エルサレムに近づく中で、「自分の息子たちのために」という切実な思いで願い出たのでしょう。20・21節です。(マルコでは母ではなくて本人たちになっていますが本当の所はよく分かりません。)この後の出来事を知っている私たちには、彼らが何を願ってしまったか、またその結末がどうなるか分かります。しかし彼らはまだ何も分からないので、杯が飲めると勇ましく答えます。22・23節です。杯はもちろん、苦難であり十字架であり殉教です。
 これを聞いて、他の十人が腹を立てます。そしてそれをきっかけにして、主イエスは大切なことを教えます。24~28節です。少し穿った見方をしますと、ここには、偉くなるための方法が描かれているようにもみえます。しかし断じてそうではありません。主イエスが、仕えるために、自分の命を献げるために来られた。それと同じように、ということは、その前に、「神と等しいものであることに固執」しないで、「人間と同じ者に」なられた(フィリピ2章)主イエスの現実があります。私たちも、偉くなりたいからではなくて、仕えるためにこそ、今を生きましょう。