これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2021年6月6日「福音は全世界に」(マタイによる福音書24章1~14節)

 5章から7章の山上の説教に対応して、23章から25章には最後の説教です。山上の祝福に対応して、23章では、「不幸だ」と語られていました。今日の箇所は、主イエスの28節の言葉に対する弟子たちの反応からはじまっています。28節の「家」は単数形であり、明らかに神殿をさしています。だから、1節です。そして主イエスは即座に答えます。2節です。この荘厳な神殿は、この福音書が書かれたとき、既にローマ帝国によって破壊されていました(第二次ユダヤ独立戦争の結果として)。主イエスの仰った通りになりました。神殿が破壊される出来事をみて、弟子たちは畏れたことでしょう。
 この2節の主イエスの言葉は、弟子たちにとって、とてもショッキングな言葉でした。オリーブ山(エルサレムの向いにあり、主イエスがゲツセマネの祈りをなさったことで有名です)で主イエスが座っておられたときに、弟子たちは密かに尋ねます。3節です。主イエスがお答えになられるのは、終末の出来事そのものではありません。終末以前に起こる事柄が語られます。4~14節です。まず前半をみましょう。8節までです。偽メシア(キリスト)の出現、戦争、飢饉や地震、それらは、世の終りそのものではなくて、世の終り以前の出来事です。主イエスは、それらの出来事を「産みの苦しみの始まり」と仰います。出産には、(無痛分娩でない限り)産みの苦しみがあります。しかしそれは、単に苦しみとしての苦しみではなくて、その後に出産という大きな素晴らしい出来事が待っています。私達は、世の終り・終末と申しますと、否定的・悲観的に捉えがちです。しかしそうではなくて、それは、主イエスが来て下さる栄光・喜びのときです。この世界の完成のときです。私達は、何が起こっても、慌てふためくのではなくて、惑わされないように気を付けていることが求められています。
 更に後半、9~14節です。実際に殺されてしまうような危機のとき、危険なときです。ここで特に注目したいのは、愛が冷えることです。迫害に遭おうが、不法がはびころうが、私達がしっかりと愛の絆で結ばれて、愛し合っていれば、大丈夫です。しかしその愛さえも冷えます。だから、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」のです。更に、そのような終末の前に、福音が全世界に宣べ伝えられます。私達はそのために召し出されているという自覚をもちましょう。

2021年5月30日「主イエスの嘆き」(マタイによる福音書23章29~39節)

 前回ペンテコステで別の聖書箇所を読みましたが、今日はマタイの講解説教に戻ります。今日の聖書箇所前半(36節まで)は、前回も読みました。しかし、説教では主に28節までをみましたので、36節まで今一度読みます。この箇所は、律法学者とファリサイ派の人々に対する「不幸だ」の最後の箇所です。しかしなぜ、預言者の…(29節後半~30節)ことが、自ら証明する(31節)ことになるのでしょうか。普通は、先祖の過ちを自分たちが繰り返さないためにこうしたことをするものです。そして事実、彼らはそういう心づもりでいることでしょう。しかし、この後に起こる出来事は、主イエスの十字架です。主イエスが仰る通り、「先祖が始めた悪事の仕上げを」(32節)することになります。ちなみにアベルからゼカルヤ(父親の名前は間違っているようですが)までは、旧約聖書で、最初に殺された人物から、最後に殺された人物まで、ということです。
 そしてこの箇所全体の締めくくりとして、37~39節です。めん鳥と雛の例えは、主イエスが発案したものではありません。当時既に、ユダヤ教で用いられていました。自分たち神の民イスラエルは、神というめん鳥の羽の下に憩うのだという比喩が用いていました。主イエスはこの例えを自分自身の宣教活動に用いました。いわば、ご自身の宣教活動の総括として、失敗したことを認めます。
 ただしそれで全てではありません。今一度39節です。主イエスは、神の子であられるにもかかわらず、十字架に殺されます。この主イエスを見るためには、主イエスに祝福があるように、願い求めることが必要です。そこではじめて、「不幸(災い)だ」は、「幸いだ」に変わります。私達は、不幸を生きる者ではなくて、幸いを生きる者でありましょう。

2021年5月23日「神の霊を注がれて」(ヨエル書2章23~3章2節)

 ペンテコステ、おめでとうございます。
 ペンテコステは、イースター・クリスマスと並ぶ、教会の三つのお祝いの一つです。また教会の誕生日でもあります。なぜならば、使徒言行録にあるように、聖霊が降臨してはじめて、教会ははじまったからです。更に、今日ペンテコステに与えられているヨエル書は、このときにペトロがした説教で引用されています。聖霊降臨の出来事が、ヨエル書の預言の成就として捉えられています。
 このヨエルの預言の中心は、すべての人に神の霊が濯がれることです。3章1・2節です。丁度今、「聖書に親しみ祈る会」では、コリントの信徒への手紙一11章を読んでいます。そこでも、主の霊が一部の人ではなくて、すべてのキリスト者に注がれるのだと、パウロは語っています。
 旧約の時代と教会の時代の決定的な違いはここにあります。王や預言者などの特別な人々だけに聖霊が降るのではなくて、すべての人に聖霊が降ります。そのことがはじまったからこそ、今は教会の時です。そして主イエスが再びいらして、誰の目にも明らかになるときまで、この教会の時は続きます。主の福音は私達に委ねられています。私達は、神の霊を注がれた者達として、主の福音を宣べ伝えていく責任があります。
 教会の誕生日である今日、そのことを今一度深く自覚し、困難な中にあっても、宣教の使命に生きましょう。そのためにまず最初にすべきことは、聖霊が注がれているという自覚をもって、神に祈りつつ歩むことです。

2021年5月16日「外側と内側と」(マタイによる福音書23章25~36節)

 今回も前回に続いて、「不幸」が語られています。この「ウーアイ」という言葉は、何回でも繰り返し述べますが、嘆きの言葉です。遠く離れた高みから見下ろして、「不幸だ」と宣言しておられるのではありません。すぐ傍で嘆きます。手を差し伸べて、御国に招きつつ、嘆き、悲しみ、痛み、苦しみます。前回は、この箇所で問題になっている「偽善」は、自分でも「偽善」に気づかないほどの深い偽善なのだということをみました。
 今日はそれが更に掘り下げられていきます。最初は、杯や皿の外側と内側です。25・26節です。今までの文脈通り、外側はきれいにするが内側は悪いもの(強欲と放縦)で満ちています。外側と内側が意味するもの、それは、他者がみて見えるものと見えないものです。神は全てを見通される方ですから、外側も内側も見抜いておられます。しかし人間には、内側は見えません。だから、本当に大切な神の眼差しを忘れて、この世界だけに心を配るならば、外側だけはきれいにしても内側は汚いままになります。
 次の白い墓の例えも同じです。27・28節です。当時、お墓は不浄なもの、汚いものと考えられていましたので、過越の祭の前(丁度主イエスがこの箇所を語っておられる時です)には、墓を白く塗って、間違えて近づかないようにしていたそうです。(日本の神道との類似点と相違点について)。だから、外側は白く、美しく塗られているけれども、内側は偽善と不法で満ちています。
 私達は今回も、これを他人事(律法学者とファリサイ派の人々だけの問題)と読むことはできません。ある説教者は、大胆にも、教会は「偽善者をうみだすところ」だと述べました。確かに教会は、「救われている私」という事実に基づいて、内側の光が溢れ出るようにして善い行いになることも多いでしょう。しかし外側(見た目)だけを真似すれば、偽善が生まれます。そのような私達の偽善の罪も含めて、十字架に滅ぼして下さった主イエスに従っていきましょう。

2021年5月9日「偽善者の不幸」(マタイによる福音書23章13~24節)

 前回申し上げましたように、この3章(23~25章)は、山上の説教(5~7章)に対応するものです。決定的に異なるのは、山上の説教が「幸い」を語っていたのに対しまして、今回は「不幸」が語られています。それは、時間の流れとして、今回は主イエスの宣教の最後だからでしょう。主イエスは真剣に天の国(神の国)の福音を語ってこられました。しかし、人々に主イエスの福音は(特に律法学者とファリサイ派の人々には)届きませんでした。だから、幸いではなくて不幸を語るしかありません。
 中身をみていきましょう。まず第一に、これは嘆きの言葉、「ウーアイ」です。遠く離れた高みから見下ろして、「不幸だ」と宣言しておられるのではありません。すぐ傍で嘆きます。手を差し伸べて、御国に招きつつ、嘆きます。彼らの何が問題なのかといえば、それは偽善者だということです。前回みたように、神の眼差しに生きるのではなくて、人々に自分がどう見えるかが全てになってしまっています。神の評価が全てであるはずなのに、人々に映る自分、人々の評価が全てになっています。だから、人々を神の国から遠ざけますし、「誓い」について間違った教えをします。普通は気にしないようなところまで、十分の一を献げることに意を用いつつ、「最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろに」してしまいます。
 彼らの偽善の最も大きな特徴が、盲目であること(16、17、19、24節)です。見えないのだから、人々を正しく導くことはできません。ぶよを漉してもらくだを飲み込みます。「偽善」を厳密に考えれば、「見えない」のは、「偽善」ではないでしょう。偽善であることにすら、気づくことはできないのですから。しかし彼らの偽善はそのような偽善です。自分たちも気が付いていません。気が付かないから、主イエスの下さる無償の恵みにくることもありません。私達はどうでしょうか。キリスト者として生きることが当たり前になって、彼らと同じ不幸に陥っていないでしょうか。自分自身を振り返ってみましょう。

2020年5月2日「だが、あなたがたは」(マタイによる福音書23章1~13節)

 この福音書では、最も大切な教えとして、最初の方に山上の説教があります(5~7章)。それと対をなして、今日の箇所から3章(23~25章)、若干の例外はありますが、主イエスが語られます。前回、もはや論争が終りました。そしてこの主イエスの教えの言葉の後には、再び、主イエスを殺す計画の話になります。
 今日からはじまる箇所は、伝道のはじめの頃である山上の説教とは対照的に、とても厳しい言葉でもあります。逮捕、十字架までもうあまり時間がありません。厳しく諭すしかないのです。
 次回の(実は今日の箇所最後の節も)律法学者たちとファリサイ派の人々の不幸を語る前に、主イエスはまず前提として、彼らの問題点を指摘します。そして「だが、あなたがたは」そうであってはならないと、仰います。彼らは当時、高く評価されていました。最も大切な律法の専門家であり、また律法を守って生きるために、普通の生活を捨てて、一般の人々から距離を置いた生き方をする人々だからです。しかし主イエスは彼らの問題点を見抜いていました。それは、「言うだけで、実行しない」ことであり、「人に見せるため」に行っていることです。更には、上座・上席を好み、「先生」とか「父」と呼ばれることを好みます。
 そのことの何が問題なのでしょうか。キリスト者共同体(教会)においては、父なる神とイエス・キリストだけが特別なのであって、私達それ以外のものは、皆、兄弟・姉妹です。そして、神の眼差しにおいて喜ばれることだけを望み、人間の評価は二次的なものにすぎません。この一番根本的な所で間違えてしまうと、全てがおかしくなってしまいます。だから主イエスは勧めます。11・12節です。私達は、互いに仕え合う共同体でありましょう。

2021年4月25日「ダビデの子」(マタイによる福音書22章41~46節)

 「ダビデの子」という呼び方は、当時救い主の呼び方として定着していました。実際、主イエスエルサレム入城の際には、人々が(子どもたちまでも)そう叫びました。それに対して主イエスは否定なさいません。それどころか、黙らせるならば、道端の石ころが叫びだすとさえ仰います。今日の聖書箇所でも、主イエスに答えて、ファリサイ派の人々は、「ダビデの子」ですと言います。41・42節です。
 しかし今日の聖書箇所は、主イエスが「ダビデの子」という呼び方を拒否しているようにもみえます。43~45節です。これは、詩編110編1節です。この発言で主イエスは何を語っておられるのでしょう。それは文字通り、ダビデがメシアを主と呼んでいるではないか、ということです。
 「子」には、ヘブライ文学の伝統において、様々な意味があります。まず、そのまま「子」、更には「子孫」の意味です。次に、「光の子」に代表されるような、…に属する者という意味です。主イエスダビデの子孫ですから、否定することは、事実を否定するか、主イエスがメシアであられることを否定することになります。ですから、否定・拒否はありません。ただ、当時、植民地支配の中で、それを打破するメシアとして、「ダビデの子」という呼び方で期待をしていました。主イエスが(まだ十字架前なので直截な表現はなさいませんが)、この期待に沿うようなメシアではないのだということです。これで今までの問答は終ります。46節です。彼らの理解をはるかに越えたメシア、それが主イエスです。私達は、この、今も共にいて下さる主イエスに従いましょう。