これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2022年6月19日「霊の結ぶ実(ガラテヤの信徒への手紙5章22~26節)

< p>=0 前回の箇所では、肉の業として、姦淫、わいせつ…(19~21節)が挙げられていました。今日の箇所では、対照的に正反対の霊の結ぶ実が語られています。22・23節です。一つひとつ取り上げる必要はないでしょう。よく分かるものです。そして大切なのは、これらの霊の結ぶ実は、これを禁じる掟・律法はないという事実です。なぜなら、24節です。掟に反するような、「肉」は、欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。キリスト・イエスのものとなったというのは、洗礼を受けて聖霊に満たされているということです。洗礼を受けるならば、それはキリストと共に死ぬことであり、復活の命へと生れ変わることです。古い自分が十字架に死に、それと共に肉なるものをも十字架につけて滅ぼしてしまったはずです。
 しかし私達人間は、残念ながら、それでいきなり全てが変わるわけではありません。罪の残滓は確かにあります。だからこそ26節のように勧められています。洗礼を受けてキリスト者となったならば、それは、霊の導きに従って生きはじめました。そしてそれは、それで終わりではなくて、前進していくことが必要です。前進も後退もなく停滞することはありえません。前進していない者は、後退しています。そして終いには、最初の救いの恵みを失って、洗礼を受ける以前よりもひどいことになります。
 この後退の仕方には幾つかのパターンがあります。その一つが自惚れてしまうことです。私達の霊に従う歩み、その前進は、人と比べるようなものではありません。ところが比較してしまうから、挑み合ったりねたみ合ったりしてしまいます。だからパウロは、このように注意します。
 さあ新しい一週間、霊の結ぶ実を大切にして、信仰の歩みを前進していきましょう。

2022年6月12日「互いに仕えなさい」(ガラテヤの信徒への手紙5章7~15節)

 今日は先週のペンテコステ聖霊降臨日と聖書箇所を逆にしています。前々回(すぐ前の箇所)では、愛の実践を伴う信仰こそ大切だと語られていました。その流れで、愛によって互いに仕えなさい、と、勧められています。
 まずパウロは、ガラテヤの人々が今までよく走ってきたとほめ、しかしまた現在の危機を鋭く指摘します。7節です。たたみかけるようにパウロは述べます。8~10節です。まず真理(キリストのみ、福音のみで十分だということ)に 従わないように誘うのは、決して神・キリストからのものではないと指摘します。そしてわずかなパン種が練り粉全体を膨らませる(今回は明らかに悪い例えとして用いられています)ように、真理にほんの少し付け加えているようにみえても、実は全体を台無しにします。パウロは彼らへの信頼と共に、惑わす者への裁きを語ります。
 次に11節で、パウロは、自分がユダヤ人から今もなお迫害されていることを論拠に、真理からはずれていない(律法と割礼を勧めることはない)ことを主張します。11・12節です。12節は、かなり激しい非難です。パウロが、キリスト・福音を大切にするあまり、こんな厳しい言葉になったのでしょう。
 最後は、13~15節の勧めです。私達は、自由を得るために召し出されました。しかしこの自由は、(5章のはじめでも議論しましたように)ある主の難しさをもっています。すなわち、一歩間違うと、自分の我が儘に仕えるものになってしまいます。だからこそ、パウロは丁寧に「愛によって互いに仕える」ことを勧めます。主イエスが繰り返し語られたように、律法全体は隣人愛に集約します。さあ私達も新しい一週間、愛によって互いに仕えるべく、努力しましょう。これこそが、私達の自由を最もよく用いる仕方なのですから。

2022年6月5日「霊の導きに従って歩め」(ガラテヤの信徒への手紙5章16~21節)

 ペンテコステ、おめでとうございます。ペンテコステは、聖霊降臨日ですが、別名、教会の誕生日とも言われています。この日から、教会がはじまったからです(使徒言行録2章を参照)。
 今日は順番通ですと、直前の箇所、7~15節なのですけれども、聖霊降臨日ですので、その次の箇所、16節からにしました。この箇所では、霊の導きに従って歩むことが求められています。まず16節です。霊と肉との二元論がここにはあります。パウロがこれを語るときにも、幾つかの意味があります。ここでは特に、霊が意味するのは、神に従う方向性、神の御心に従おうとすることです。真逆に、肉は、まるで神がおられないかのように、人間の思い、人間の欲望に従おうとする傾きです。17節です。私達人間の中には、神に従おうとする思いと、神に抗って好き勝手にしようとする思いの両方があって、私達自身の中で対立しています。だから、私達は「自分のしたいと思うこと(ここではまっすぐに神に従うことでしょう)ができない」のです。この霊と肉の対立を、霊に従うことで決着させることが大切です。
 18-21節をみましょう。私達は聖霊降臨日にあたって、いつもよりもなおさら、霊の導きを求めます。霊の導きのあるところでは、もはや律法の下にはいません。ここで連記されているような肉の業は私達とは遠いです。そして私達は、神の国を受け継ぎます。さあ、今日からはじまる新しい一週間、聖霊の導きを求めつつ歩みましょう。

2022年5月29日「愛の実践を伴う信仰こそ」(ガラテヤの信徒への手紙5章2~6節)

 前回、パウロは、アレゴリカルな解釈の結論として、私達教会は、自由な身の女から生まれた子どもです。だから、二度と奴隷に戻らないで、自由を生き抜くこと、そのために「しっかりする」ことが求められていました。
 今日の箇所で、パウロは断言します。割礼・律法と福音・キリストとは二律背反であって、二者択一であって決して相容れないものです。あれもこれもは決してなく、常にあれかこれかの関係です。2~4節です。パウロに敵対する人々の主張はこうです。確かにイエス・キリストによる福音は大切だ。しかしそれだけではなくて、割礼を受けてユダヤ人になることも大切なのだ。それに対して、パウロは、割礼を受ける人は、律法全体を行う義務があるのだと言います。そして律法の全てを全うすることはできませんから、キリストとは縁もゆかりもない者になり、いただいたはずの恵みも失います。
 そうして、私達は何を待ち望んでいるのでしょうか。5節です。これは、終末へ向けての希望です。最後のとき、私達の希望は実現します。ここには、「既に」と「未だ」の緊張関係があります。私達は「既に」キリストの贖いによって義とされていると同時に、その「未だ」完成していないこの義の完成を待ち望み続けます。
 そのような私達にとって、もはや割礼の有無は問題ではありません。愛の実践を伴う信仰が大切です。6節です。律法を行うことで義を得ようとする信仰には、(聖書のファリサイ派の人々からも分かりますように)愛の実践を伴いません。ただ、何の功しなく救いが与えられていることを知る私達の信仰にこそ、愛の実践が伴います。そのことが実現できているかどうかは、確かに不透明ですが、少なくとも私達はそのような志をもって信仰生活、教会生活を歩みます。

2022年5月22日「自由を得させるために」(ガラテヤの信徒への手紙4章28~5章1節)

 前回は、現代の私達には少し分かりづらいかもしれない、アレゴリカルな解釈でした。今日はその結論の部分です。28節です。教会は、従来のイスラエルが奴隷の子であるのと異なり、約束の子です。次に、29・30節です。イシュマエルとイサクの関係については、それが書かれている創世記の箇所の解釈によって、二通りの読み方があります。一つは、イシュマエルがイサクをいじめていたというものです(パウロはその立場に立っていますし、伝統的なユダヤ教の解釈もそうです)。いま一つは、仲良く遊んでいたという解釈です。ただ、いずれよせよ、ハガルとイシュマエルを追い出すのは、神の命令・意志でした。そして教会は、パウロのしているアレゴリカルな解釈では、自由な身の女から生まれた子どもです。31節です。
 それですから、5章1節です。何のために、主イエスは、十字架の死を死んで、復活なさった(神によって復活させられた)のでしょうか。それは、私達に自由を得させるためでした。それにも関わらず、私達は、あまりにも弱く罪の残滓をもっています。だから、すぐに奴隷の軛につながれたがってしまいます。だからこそ、しっかりすることが求められています。どのようにして「しっかりする」ことができるのでしょうか。信仰の原点、十字架による贖いに立ち返り続けることです。私達を自由のみにしてくださった十字架に思いを馳せ続けることです。主イエスが十字架の死をたえしのんでまで、私達に自由を得させてくださったことを大切に生きることです。さあ、新しい一週間、主イエスによって与えられた私達の自由を生き抜きましょう。

2022年5月15日「二人の女、二つの契約」(ガラテヤの信徒への手紙4章21~27節)

 前回は、自分の内にキリストが形作られることを願い求めることの大切さをみました。パウロは、自分がガラテヤに行ったときのことを思い出させて、「律法と割礼が大切だ」という考え方は、パウロの伝えた福音を台無しにするのだと主張します。
 今日の箇所では、二人の女の例えを用いて、この議論を補強します。しかしここでは、例えのアレゴリカルな(寓喩的な)解釈をしています。これは現代では、殆ど用いられなくなった解釈です。私達には難しいといえるでしょう。この解釈では、これは何、あれは何と、例えに出てくる一つひとつを現実のものに当てはめていきます。中世までは、こういう解釈の方が普通でした。しかしこのやり方では、とても恣意的(自分勝手な)解釈ができてしまうので、近代以降は用いられなくなりました。
 今日の箇所で、パウロは二人の女、サラとハガルについて、このような解釈をしています。この解釈が正しいかどうかを検討してみるよりも、パウロが何を語ろうとしているのかに集中しましょう。ハガルのことは、創世記に出てきますが、神様から子どもができて砂の数、星の数のように子孫が増えるという約束にもかかわらず、奴隷に生ませた子どもを女主人が膝の上に抱くと、自分の子どもとして扱うことができるという当時の風習に基づいて、奴隷女のハガルから子孫を得ようとしました。その後、約束の子どもイサクが生まれます。24~27節です。ハガル、シナイ山、今のエルサレム、という奴隷の系譜と、天のエルサレム、教会という自由な女、サラの系譜です。私達は、自由な女、サラの系譜に属するのだから、奴隷の女の系譜に逆戻りする必要はないのだと、パウロはいいます。私達は、ユダヤ人ではないので、古いエルサレムのこと自体、よく分からないところがありますが、かつて私達が何かの奴隷であった、その身分に戻ってはならないのです。
 さあ新しい一週間、私達は自由な身分の者としての歩みを形作っていきましょう。そのためにイエス・キリストはいらして、十字架に死んでくださったのですから。

2022年5月8日「内に形作られるまで」(ガラテヤの信徒への手紙4章12~20節)

 前回は、せっかくキリスト・福音と出会って解放されたのだから、もう二度と奴隷に戻るな、という箇所でした。もしもガラテヤの人々が奴隷に戻ってしまう(具体的には、キリスト・福音の他に、律法や割礼が大切だと思ってしまう)ならば、パウロのしてきたことが無駄になってしまいます。
 そこで今日の箇所では、パウロがガラテヤの人々に福音を語った、最初の頃を思い出して欲しいと求めます。12~14節です。最初の「私のように」というのは、私達日本人には気恥ずかしくて述べづらいですが、意味はよく分かると思います。パウロは、伝道することが全てで、そのためならば相手のように自分はなるのだといいます。それと同じことを、今度は豊かな信仰の交わりのために、求めています。そして最初の頃、パウロが体が弱くなってガラテヤに行った(細かい・詳しい事情は分かりませんが)時のことを、その時彼らがどれほど豊かにパウロを受け入れてくれたかを語ります。それは、神の使い、キリスト・イエスででもあるかのように受け入れてくれました。
 15節です。この箇所(や別の幾つかの箇所)から、パウロは目の病気だったのではないかという推測が一般的です。それなのに、16節です。パウロは、「福音・キリストだけではだめだ、律法や割礼も必要なのだ」という偽りに対して、「キリストのみ・福音のみ」という真実を語ってしまったために、ガラテヤの人々の敵となったのかと問います。あの者たち(律法や割礼を大切だ、異邦人もそういうものを大切にしなければならないと説く人たち)の動機は、善意からではないとパウロは語ります。17節です。
 パウロは今、ガラテヤに行くことができない、それゆえ、ガラテヤの人々と顔と顔を合わせて語ることができないことで、途方にくれています。最後、18~20節です。何よりもパウロが願っていることは、パウロと同じように、ガラテヤの人々もまた、「内にキリストが形作られる」ことです。私達もこの世界でのキリストに従う戦いを通して、私達の内にキリストが形作られることを願い求めましょう。