前回、主が来られる予兆・終末の予兆について、まるで真逆の二つのことが語られているということを申し上げました。一つは前回のいちじくの木の教えです。予兆はあるのだから、きちんと見極めなさい、ということでした。いま一つは、「突然に」です。今回と…
前回は、人の子、主イエスが、誰にでも分かるような仕方で(稲妻やはげ鷹)来るのだという箇所でした。その予兆として、今まで描かれてきた終末以前の出来事が起こります。それを明確に語るのが、いちじくの木の例えです。32・33節です。 主が来られる予…
前回は、飢饉や戦争、地震などが起こるが、それは終末ではない。様々なことが起こった後で、終末が来る。最後に、「それから、終わりが来る(14節)」とありますように、まだ終りではなくて、「産みの苦しみの始まり」(8節)です。終わりよりも前の大切…
5章から7章の山上の説教に対応して、23章から25章には最後の説教です。山上の祝福に対応して、23章では、「不幸だ」と語られていました。今日の箇所は、主イエスの28節の言葉に対する弟子たちの反応からはじまっています。28節の「家」は単数形…
前回ペンテコステで別の聖書箇所を読みましたが、今日はマタイの講解説教に戻ります。今日の聖書箇所前半(36節まで)は、前回も読みました。しかし、説教では主に28節までをみましたので、36節まで今一度読みます。この箇所は、律法学者とファリサイ…
ペンテコステ、おめでとうございます。 ペンテコステは、イースター・クリスマスと並ぶ、教会の三つのお祝いの一つです。また教会の誕生日でもあります。なぜならば、使徒言行録にあるように、聖霊が降臨してはじめて、教会ははじまったからです。更に、今日…
今回も前回に続いて、「不幸」が語られています。この「ウーアイ」という言葉は、何回でも繰り返し述べますが、嘆きの言葉です。遠く離れた高みから見下ろして、「不幸だ」と宣言しておられるのではありません。すぐ傍で嘆きます。手を差し伸べて、御国に招…
前回申し上げましたように、この3章(23~25章)は、山上の説教(5~7章)に対応するものです。決定的に異なるのは、山上の説教が「幸い」を語っていたのに対しまして、今回は「不幸」が語られています。それは、時間の流れとして、今回は主イエスの…
この福音書では、最も大切な教えとして、最初の方に山上の説教があります(5~7章)。それと対をなして、今日の箇所から3章(23~25章)、若干の例外はありますが、主イエスが語られます。前回、もはや論争が終りました。そしてこの主イエスの教えの…
「ダビデの子」という呼び方は、当時救い主の呼び方として定着していました。実際、主イエスのエルサレム入城の際には、人々が(子どもたちまでも)そう叫びました。それに対して主イエスは否定なさいません。それどころか、黙らせるならば、道端の石ころが…
今日の二つの掟こそが大切なのだという話は、共観福音書全てで出てきます。しかしそのあらわれ方がそれぞれに特徴的です。マタイの特徴は、34・35節に出てきます。きっかけははっきりしています。主イエスが復活問答でサドカイ派の人々を言い込められた…
今日は、主イエスの賢さがとても際立つ問答です。まずファリサイ派の人々が、主イエスを罠にかけようと相談します。15節です。そして、(自分たちが行くのではなくて)弟子たちを派遣します。しかもヘロデ党の人々と共に。16・17節です。まず彼らはお…
イースターおめでとうございます 次回の(聖書ではすぐ前の箇所の)税金問答とは異なり、今日の箇所にはサドカイ派の人々が出てきます。23節です。ここでは、復活はないと主張していることだけが紹介されています。彼らは、聖書がモーセ五書だけだと主張し…
今日の例えは、ルカにもよく似たものがあります。しかし決定的に異なるのは、6・7節です。ルカでは文脈が異なることもあって、この厳しい言葉はありません。この例えが意味するところは明白です。前もって招かれていたのに断ったのは、当時の宗教的指導者…
今日の聖書箇所最後で、小さな権力者たちは、この二つの例えが自分たちのことを言っていると気が付きます。しかし(ここでも)群衆を恐れて、主イエスを捕らえたいけれどもできません。45・46節です。 この例え話は、途中までは実際にありそうなことです…
今日の聖書箇所で、まずポイントになるのは、主イエスが誰に向かってこの例え話を語っておられるのか、です。それは、前回の「祭司長や民の長老たち」です。するとこの例えが何を表現しているかも分かります。例え自体は、28~30節です。とても分かりや…
今日の聖書箇所は、エルサレム入城の翌日、月曜日のことが続きます。まず、23節です。当時の宗教的・政治的権力者(小さな権力者)たちが、主イエスの行いに対して、その権威を問います。昨日のエルサレム入城や宮清めのことが問題になっています(主イエ…
今日の聖書箇所はマタイではエルサレム入城の翌日、月曜日のことです。この出来事は、福音書の中でも特に難しく分かりにくい出来事だといえるでしょう。といいますのも、この奇跡だけが唯一、否定的な奇跡だからです。18・19節です。「空腹を覚えられた…
前回はエルサレム入城でした。入城して、主イエスはまず何をしたのでしょうか。12・13節です。いわゆる宮清めです。柔和な方である主イエスが、ほぼこの箇所でだけは、とても厳しく激しいのです。そこでこの箇所は、暴力的で過激なことをよしとなさる方…
今日はいよいよエルサレム入城です。私たちは講解説教ですが、教会歴に従って聖書箇所を決める教会では、この記事は年に二回読まれる可能性があります。一つは棕櫚の主日であり、いま一つは待降節第一主日(教会の暦の上で一年の最初の日)です。今週の水曜…
次回はいよいよエルサレム入城です。エルサレム入城の前には、多少の違いはあるものの、共観福音書では全て、盲人の癒しがあります。終末の先取りの意味です。マタイではまず、エリコが描かれます。エルサレムの直前、最後の宿です。29節です。大勢の群衆…
前回、ぶどう園の労働者の天の国の例えを通して、私たちが信仰者・キリスト者として生きることを今一度省みる機会を与えられました。それに続いて今日の箇所では、三度目の死と復活の予告です。この予告の度に私たちが注目したいことは、ここに(受難だけで…
結婚・離婚、子ども、財産と、私たちに身近な三つの事柄の後、主イエスは弟子たちに「神は何でもできる」と仰り、また、主イエスに従った弟子たちに大きな報いを約束なさいました。次回は三度目の死と復活の予告です。その間に挟まれて、このぶどう園の労働…
今日の聖書箇所は、前回(先週)、金持ちの青年が悲しみながら去っていった後で、弟子たちと語られた箇所です。まず主イエスは、金持ちが救われることの難しさを語ります。それに対して、弟子たちが驚きます。23~25節です。この弟子たちの驚きは、山上…
今私たちは、夫婦、子ども、そして財産の問題という、とても身近な三つの事柄をみています。文脈は、小さな者への配慮から、エルサレム入城との間の箇所です。まず前半をみましょう。13~15節です。手を置いて祈って頂くために子どもたちを連れてくる人…
今日は、一年のはじめの礼拝として、普段のマタイの講解説教を離れて、ローズンゲンの年の聖句に聴きます。ルカによる福音書6章36節です。「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」 はじめに、今年のローズンゲン、…
今日から三つのこと、離婚(結婚)、子ども、そし財産の話です。どれも、具体的な「誰か」との対話です。しかし後の二つと異なり、今日の一つ目の対話は、ファリサイ派の人々が、主イエスを試そうとしています。3節です。それに対して、主イエスは、丁寧に…
クリスマスおめでとう。 今日は降誕礼拝として、講解説教を一回お休みして、インマヌエルの箇所です。「イエス」の名前の由来として、イザヤ書の「インマヌエル」が挙げられています。以前、友人をクリスマスの礼拝に誘ったとき、ちょうど同じ聖書箇所でした…
今日の主イエスの例え話は、ペトロの問いをきっかけとしています。21節です。「仏の顔も三度まで」などといいますが、当時のユダヤでは、三回までは赦しなさいというのが一般的であったようです。ペトロは、主イエスは普通と違うので、一般に言われている…
今日の聖書箇所前半で述べられていることは、戒規の元になった主イエスの教えです。15~17節です。今日は三つのことだけを申しましょう。まず第一に、主イエス、そして初代教会は、罪の問題を本当に真剣に捉えていました。諸外国の教会は知りませんが、…