これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2016年11月13日「キリストの来られるときに」テサロニケの信徒への手紙一5章23~28節②

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 今日の聖書箇所でテサロニケの信徒への手紙一は終わりです。前回は、25節以下、後半の本当に最後の箇所をみましたので、今日は、23・24節、最初の2節に集中します。
 この手紙では、前半の最後(3章終わり)でもしていましたが、祈りの言葉です。パウロは自分自身で勧めているように「絶えず祈」る(17節)人でしたから、手紙でも思いが溢れて神への祈りになっていきます。今日私達幕張教会では、召天者記念礼拝として礼拝を守っています。既に天に召された方々はどうなったのか。それが今まで繰り返しみてきましたように、当時のテサロニケの人々の大きな関心の的でした。4章15節以下で、彼らのほうが私達よりも先に救い・天国に入るのだと言います。そして私達もまた、「キリストの来られるとき」「非のうちどころのないもの」たちとして、招かれています。
 23節前半。「平和の神」ということは、平和聖日(8月)にみました。平和の源であり、平和そのものであられる神です。その神が、私達を完全に聖なるものとしてくださるようにと、パウロは祈ります。今まで述べてきた勧告は、私達の力で実現するのではなくて、ただ神が恵として一方的にそうしてくださいます。
 23節後半。霊、魂、体というのは、私達人間を三つに分けて考えているのではなくて、私達の全体、私達自身ということです。私達は欠けだらけの人間ですが、神はその私達を「何一つ欠けたところのないものとして守」ってくださいます。パウロはそのことを祈りつつ、神がそうしてくださると、また、確信しています。
 なぜなら、24節。私達が神に招かれたということは、とりもなおさず、また、神が私達を御国に相応しい者に変えてくださる、育ててくださるということです。神が信実な方である(この告白には旧約聖書以来の深い信仰があります)ので、私達はその神に信頼してよいのです。