これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2016年11月27日「新しい洗礼」マルコによる福音書1章1~8節

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 先週からマルコによる福音書に入りました。教会の暦の上では、今日からアドベント(待降節)に入り、新しい一年がはじまりました。先週は、主に5節までの箇所から、表題としての1節、また公生涯の前にどうしても描く必要があった洗礼者ヨハネのことをみました。神の恵みである洗礼を受けるためには、まず、(これもまた神の恵みである)悔い改めが必要です。
 今日は、6節からです。この描写は、ヨハネがとても清貧な荒れ野の隠者のような姿・生活をしていたことを物語ります。そしてヨハネは語ります、7・8節。どのような悔い改めが必要かなど、他の福音書に描かれていることは全て省いてマルコ福音書は、主イエスの先触れとしての自覚だけを語ります。「履物のひもを解く」のは当時奴隷の仕事ですから、自分は後から来られる主イエスに比べれば、奴隷以下の存在だと言います。そして自分が授ける洗礼と、主イエスの(といっても主イエスご自身が洗礼を授けるのではありませんが)洗礼の違いを語ります。
 当時ユダヤ教では、清めの沐浴がありました(今もその遺跡が多数あります)。日本の神道にもにて、神の前に出るに当って、自分で自分についてしまった汚れを洗います。しかしヨハネの洗礼はそれとは少し異なり、悔い改めのしるしであり、その際には、「罪を告白」しました。汚れを取り除く意味よりも、神の方に向き直ることが中心です。更に主イエスの洗礼は、単なる水による洗礼ではなくて、聖霊による洗礼です。もっとも使徒言行録をみますと、初代教会の頃には多少の混乱があったようです。今は、洗礼において、確かに水を用いますが、そこに神の霊、キリストの霊、聖霊が働くことを信じます。そのように神の恵みによってこそ生きる者へと生れ変わるのが洗礼です。