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日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2016年12月11日「聖霊に送り出されて」マルコによる福音書1章12~13節

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 前回、主イエスは洗礼者ヨハネから洗礼を受けました。そしてすぐに、聖霊は主イエスを荒れ野に送り出します。12節。この「送り出す」は、「強いて(無理やり)行かせる」という言葉です。父なる神は、主イエスを「わたしの愛する子」と認証すると直ちに、荒れ野へ送り出します。荒れ野には、様々な意味があります。一つには、神があえて手出しをなさらないで、サタンに任せてしまわれているところです。今一つには、訓練を受ける場所、試みによって育てていただく場所です(エジプト脱出の時の荒れ野の四十年のように)。サタンは、誘惑するものであるのと同時に、試みるものです。13節も「誘惑する」ではなくて、「試みる」と訳すべきだという方もいます。13節前半。主イエスは(今日の箇所にはっきりとは書かれていませんが)四十日間のサタンの試みに勝ち、公生涯へと歩みだします。
 この際の特徴として、マルコは二つのことを描きます。13節後半。一つは、「野獣と一緒におられた」。これは、敵対的な(恐ろしい)野獣と共にいたが大丈夫だった、主イエスは野獣に負けなかったという意味にもとれますが、それよりも、終末のしるし、前回の洗礼と同様に、終わりのときが主イエスにおいてはじまったという意味でしょう(イザヤ書11章参照)。いま一つは、「天使たちが仕えていた」。マタイやルカでは、荒れ野の誘惑では「断食」がありますが、「仕える」は、「給仕をする」という意味なので、マルコでは断食ではなかったと解釈することもできます。いずれにせよ、主イエスは、神の福音を宣べ伝える前に、まず試みにあい、この試みに打ち勝つことが必要でした。
 私達の人生にも様々な苦難がありますが、「聖霊に送り出されて」神が私を育てようとして、この現代の「荒れ野」なのだという自覚が、神の民として生きる上で大切です。