これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2017年2月5日「新しい心、新しい霊」エゼキエル書36章22~27節

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 今日の聖書箇所は、ローズンゲン(日々の聖句)の年の聖句です。久里浜でも名古屋でも年の最初の新年礼拝で(講解説教をお休みして)その年の年の聖句に聴いてきましたが、今年は、マルコによる福音書の講解説教に入ったばかりでしたので、マルコにしました。そして今日、幕張教会では三里塚との講壇交換を予定していたので説教の予定を開けていましたが、先方の都合がつかず、空いてしまったので、年の聖句を取り上げます。
 今日の聖句の26節前半が、今年の年の聖句です。捕囚の民が捕囚のまま終わることはない、必ず神は解放してくださる。しかも、新しい契約の下で、全く新しく神の民とされて。次の37章には、エゼキエル書で最も有名な箇所の一つ、枯れた骨の復活があります。主なる神は、「お前たちのためではなく、お前たちが行った先の国々で汚したわが聖なる名のために行う(22節)」と宣言なさいます。神は神の民を愛されますが、その愛が根拠ではなくて、神の名が聖なるものであり、神が主であることが明らかになるように、この業を行います。これは、神の民や神の民への愛よりもはっきりとした確かな根拠です。神が清い水によって清めます(25節)。ここには、洗礼の原型があります。洗礼とは何かを考える上で大切なことは、私達人間の何かではなくて、神の業であるという事実です(聖書研究祈祷会のローマ書6章も参照)。そして私達には、新しい心、新しい霊が与えられます。罪を犯して神を離れた神の民・イスラエルがそうであるように、私達もまた、洗礼を受けて神の民となったはずが、様々な形で彷徨ってしまうこともあります。しかし神は、そんな私達を愛し慈しんで、神の名が聖なるものであるように、私達を再び内側から新しくしてくださいます。そのような神様の招きに信頼し、この神を信じて今年も歩みましょう。