これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2017年3月19日「イエスに触れる」マルコによる福音書3章7~12節

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 今日の箇所は、前回までの箇所と次回からの箇所を繋ぐ部分です。前回は、主イエスを殺そうとする計画で終わっていました。今回の湖畔での出来事の後、主イエスは十二使徒の任命をなさり、十二使徒の派遣(6章6節~)までが一纏まりです。今日の箇所でまず主イエスは弟子たちと共に湖の方へと立ち去られます。会堂には不穏な空気が漂っており、また「家」で治癒の業や福音を語るには、人が多すぎたからでしょう。7・8節。ガリラヤばかりではなくて、多くの地域から人々が集まっています。主イエスは伝道の成功を喜ぶのでもなく、また人々を厭うのでもなく、弟子たちに依頼します。9節。実際に船に乗る場面は4章までありません。この箇所でどうであったかは分かりません。ただ、なぜ押しつぶさんばかりに群衆が集まってきたかは、描きます。10節。この箇所では、主イエスの新しい教えを聴くことよりも、とにかく病気を直してほしいということが集まってくる動機になっています。弟子たちの無理解と共に、群衆もまたまだ、大切な救いのことは分かっていませんし、十字架と復活の出来事までは、まだ、その時は来ていません。だから、主イエスは汚れた霊どもに、沈黙を命じます。11・12節。
 この箇所から三つのことを学びましょう。まず第一に、(本当には)分かっていなくても、触れようとすることの大切さです。群衆と汚れた霊どもの対比。第二に、「神の子」という正しい認識・告白が、直ちに救いではないこと。汚れた霊どもの言葉・叫びは、全く正しい。しかし、この「神の子」に従うのではなく、ただ正しい認識だけです。以前と異なり、主イエスの圧倒的な力の前に、汚れた霊どもはひれ伏すしかありません。しかし従いはしません。そして第三に既に何回かみてまいりました、沈黙命令・メシアの秘密のモティーフです。私達は、「正しい認識」(時にはそれはとても大切なことですが)よりも、まっすぐに主イエスについていく、主イエスに触れようとする生きた信仰を大事にしましょう。