これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2017年4月2日「許されない罪」マルコによる福音書3章20~30節

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 今日の聖書箇所は、聖書に時々出てくるサンドイッチの構造をしているので、あるいは、次回の箇所と共に読む方がよいのかもしれません。しかしそれぞれに大切なメッセージがありますので、今回は分けてみました。最初の節で大まかな舞台設定です。20節。次の21節は31節以下と繋がり、その間にベルゼブル論争があります。22節は、エルサレムからわざわざやってきた律法学者たちですから、主イエスの評判が広まって(良くも悪くも)、当局の関心事になっていたことが分かります。しかし問題は彼らの判断です。神の子の力で(悪霊に取りつかれた人々への共感から)悪霊を追い出しているのに、「悪霊の頭の力で」追い出しているといいます。彼らは、実際に主イエスのなさっていることをみて、事実は否定できないけれども、否定的な解釈・判断で、主イエスの現実を退けようとしています。だから主イエスは、たとえを用いて語られます(このたとえがマルコ福音書で最初のたとえです)。23~27節。内輪もめではたちいかない。当然のことです。そして主イエスは、「アーメン」と大切なことを語ります。28.29節。30節はこの段落全体を主イエスが語られた理由を改めて確認しています。
 二千年の教会の歴史の中で、この「赦されない罪」の問題は、様々な形で繰り返し取り上げられてきました。その歴史を概観する暇はありませんが、「こういう罪は赦されないのだ」という一覧表を作る人々までいました。しかし私達はそのような愚かなことはしないことにしましょう。ここで大切なことは、28節です。「どんな冒涜の言葉も、すべて赦される」。「私は赦されない罪を犯したのではないか」と心配するとしたら、それは「聖霊を冒涜する」罪を犯していません。この罪は、決して救い主・その許しを受け入れない罪なのですから。私達は罪赦された罪人として、赦されない罪から解き放たれていることを喜んで生きましょう。