これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2017年5月7日「持つ人、持たない人」マルコによる福音書4章21~25節

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 今日は、ともし火と秤、二つのたとえです。これらもまた、種蒔きのたとえと同じように、様々な意味に読めますから、各自思い巡らしてみてください。ただ一つ、確実と思われるのは、文脈から、神の国(支配)のたとえ、神の国の福音のたとえです。主イエスは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい(1章15節)と、語りだしました。またこれは、主イエスがお語りになったことの纏めでもあります。誰も見たことがない神の国をどうしたら伝えることができるか、たとえです。一つ目は、「ともし火」のたとえです。21節。ここは、ギリシャ語では、「持って来る」ではなくて、「来る」です。ともし火が(足でも生えて勝手に)来ることはないのでこう訳したのでしょう。神の国の福音は、私達を照らすまことの光です。それを升や寝台の下に置く者はいない。燭台の上に置く。当たり前のことでありながら、私達の現実は、私達の弱さから、ともし火を隠してしまってはいないでしょうか。でも励まされます。22節。私達が隠してしまうとしても、必ずあらわに・公になります。聖霊が働きます。ただ一つのことだけを私達は求められています。23節。まっすぐに素直に聞き続けること、そこから全てがはじまります。更に、勧められます、24節前半。聞いている中身に注目し、思い巡らすことです。それを励ますように、24節後半。説教を聞くときにも、誰でも、自分の物差し・秤で判断しています。より大きな秤(それもまた神の恵みですが)で量ればより多く与えられます。しかも、自分の秤の小ささを越えて、更に多く神は与えて下さいます。25節は、経済学の世界でも言われることで、この原則を覆して平等実現のために政治があります。信仰に関しては確かにこの通りです。僅かでも信じる心・神の国への感受性があれば、ますます与えられて豊かな神の恵みを生きますが、全くない者は、神の恵みが分かりません。