これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2017年7月23日「心の鈍さを越えて」マルコによる福音書6章45~56節

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 前回、主イエスは帰還した十二人をを労い、休息を与えようとなさいましたが、かなわず、五千人の給食でした。そのすぐ後の出来事です。普段は群衆の解散は弟子たちの仕事だったのでしょうが、このときは、弟子たちを休ませるためでしょうか、主イエスご自身が解散させます。45節。そして度々そうしておられたように、山に行き、祈られました。46節。47節までが、今回の出来事の設定です。48節がイスラエルにおける神顕現のことを知らないと、不思議な箇所です。モーセにも、ホレブ山でのエリヤにも、神は通りすぎるという仕方で顕現なさいました。この箇所の主イエスの「通りすぎようとされた」のは、このような文脈で読みましょう。主イエスは、神として「通りすぎようとされた」のです。しかし弟子たちには分かりません。49・50節。この主イエスの言葉も、神や神の使いが現れる時のしるしです(例えば、羊飼いに現れた天使)。
 弟子たちの心の鈍さのゆえに、主イエスはそのまま通りすぎないで、船に乗り込まれます。最後、51・52節。この弟子たちの心の鈍さの一つの頂点は、8章31節ですから、そのときにもっと丁寧にみます。ただ今日の箇所で、主イエスは、弟子たちの心の鈍さのゆえに、通りすぎないで、船に乗り込んで下さいます。先日の聖書研究祈祷会で、ローマの信徒への手紙8章が終わりました。そこには、この世界のどんな被造物も、キリストの愛・神の愛から私達を引き離すことのできるものはないというパウロの確信が述べられています。しかしそれは、私達を神の愛から引き離すものは、(この世界の様々な事柄でもなく、サタンの誘惑でさえなく)私達の心の鈍さ・心のかたくなさであることを如実に示します。だから私達は、自分の心の鈍さに注意深くありたいものです。しかし私達の心の鈍さを越えて、主イエスが私達のこの船(教会)にいつも来て下さる。この事実に励まされて歩みましょう。