これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2017年10月22日「私達の味方」マルコによる福音書9章38~41節

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 今日の箇所ではまず、ヨハネが主イエスに報告しています。38節。ヨハネは、「雷の子」(3章)というニックネームを主イエスから付けられていました。恐らく、大声で、また怒りやすかった。主イエスが、「私の名のために(37節)」と仰ったので、一つの出来事を報告します。主イエスの名前を使って悪霊を追い出している人がいた。当時は、名前そのものが力があると信じられていましたから、力のありそうな名前は何でも使います。主イエスの名前も使われます。それをヨハネはやめさせようとした。主イエスの弟子でも何でもないのですから、とめるのも当然だ、主イエスはこの出来事を褒めてくれると思ったのではないでしょうか。しかし主イエスは仰います、39・40節。私達の味方。厳密に言えば、味方ではないでしょう。しかし主イエスはあえて、味方なのだと仰る。そして、いつも大切なことを語る時に用いる「アーメン」でもって、仰る。41節。
 この本当に短い、なにげない箇所から私達は何を聞き取るのか、三つのことだけを申し上げます。まず第一に、弟子たち・私達の罪の現実です。確かに弟子たちを代表してペトロは告白しました。しかしその告白は、全く異なる理解からでした。恐らく、ヨハネは持ち前の大きな声で、主イエスの名前を(弟子でもないのに)使う者を制止しようとしました。彼は、「自分は主イエスの仲間・味方、あいつは違う」と思っていた。しかし彼の制止は、主イエスの御心とは異なっていた。彼の大声の中に、主の思いはありませんでした。第二に、主イエスは、たとえ弟子たちの群れに加わっていなくても、神の御心を行うことをこそ、喜ばれました。それが最後、第三に、41節にも現れています。初代教会の頃、弟子たちの群れは弱く小さいものでした。迫害されて、地下のお墓で礼拝するしかなかったほどです。そのようなキリスト者に一杯の水を飲ませることは勇気のいることでした。たとえまだ、自分の全てを注ぎだして弟子になっていなくても、弟子のために与える者には必ず報いがある。私達には、主の名において味方が大勢いる。この励ましに生きましょう。