これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2017年11月19日「何をすればよいのか」マルコによる福音書10章17~22節①

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 結婚(離婚)のこと、子どものこと、富のこと、三つのテーマが続きます。今日は三つ目、富のことです。この箇所について、今日と次週の二回見て、その次のまとめの箇所も二回味わいたいと思います。主イエスが子どもたちを祝福なさった後、旅に出ようとなさると、「ある人」(マタイでは、金持ちの青年、ルカでは金持ちの議員、マルコでは金持ちであること以外は分からない)が走り寄ってきます。17節。永遠の命を受け継ぐとは、神の国に入ることです(23節参照)。現代の社会が刹那的で、本当に大切な永遠よりも今のことだけをみるのに対して、永遠の命を大切に思うのはすばらしいことです。しかしこの人は、(前回にも少し触れましたように)「何をすれば」という観点からみてしまっています。既にそこに問題があります。前回の祝福を受けた子どもたちは、何か神の国に相応しいことをして、主イエスに祝福して頂けたのでしょうか。そうではありません。「何の功しなく」ただ主イエスは祝福なさったのです。「何をすれば」と問うた所で、既に彼は間違いを犯しています。主イエスは、しかし、答えます。18・19節。18節は、ただおひとりの善い方、神へと眼差しを向けさせます。これは、子なる神の否定ではなくて、子なる神を通して父なる神が示されています。主イエスは、既に知られている掟を確認するだけです。そこでは二つのことがなされません。まず第一に、この人が求めているような「更に高い規範」を与えません。また第二に、この人が「何をすれば」と問うてしまう時に起こる、根源的な誤解を解くことをしません。それは言葉で説明して分かることではなくて、主イエスに従う歩みの中で分かる事柄だからでしょう。20節の彼の答えは、彼ばかりでなくて彼の保護者も敬虔な人々であったことを示します。このことから、「傲慢」を読み込むよりは、「金持ちであることの優位性」を読みましょう。確かにお金・財産があることは、大切な・有利なことです。しかしそのためにこの人は、神ではなくて財産に頼ってしまいました。主イエスは彼を見つめます。愛します。財産ではなくて、この主の眼差し・愛に生きる時に、この人もまた神の国へ招かれていることが分かります。