これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2017年11月26日「本当にすべきこと」マルコによる福音書10章17~22節

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 今日は前回と同じ聖書箇所です。前回のお話で、永遠の命を受け継ぐ(神の国に入る)ためには「何をすればよいのか」という問い自体が間違っていることを語りました。子どもたちは何の功しなく、神の国に相応しい。では私達もまた何もしなくてよいのでしょうか。この人は、たった一つのことを主イエスから求められました。21節。これも律法主義的に、「ねばならない」と読んでしまってはいけません。私達キリスト者には、全てのことが自由(一コリント10章23節)です。律法として読むと私有財産制を否定することになります。しかし実際には、カファルナウムにはペトロの家がありました。使徒言行録によれば、初期のキリスト者共同体・教会は、共産制度だったようですが、すぐに変わっていきます。この財産放棄(厳密に言えば単なる放棄ではなく、貧しい人々に施すことで天に富を摘むこと)の命令は、この人のために必要なことでした。主イエスはここで、この人のことを見つめて、また愛して、このように命じられました。彼には、幼子のように神にのみ依り頼ん生きるために、彼のたくさんの財産が邪魔をしていました。主イエスはそれを見抜いて、こう仰ったのです。しかし結論は残念なことに。22節。21節の命令・この箇所を私達は割り引いて読んではなりません。主イエスに従うことは、やはり、とても厳しいことです。自分が頼ってしまうようなもの、財産・才能・人間関係、全てを投げ打って主イエスに従う覚悟がいります。しかしまた、主イエスはこの人は愛されました。この人をじっと見つめました。そのとき主イエスは既に十字架を意識しておられたと思います。彼の、全てを棄てて主に従おうとできない罪もまた、ご自身が十字架に掛けて滅ぼす。主イエスの眼差しがそのことを語っているのではないでしょうか。最初の問い、「私達もまた何もしなくてよいのでしょうか」の答えがここにあります。主イエスの十字架のゆえに、私達は何もしなくてよい、神の国・永遠の命に招かれている。そして私達はただこの招きにまっすぐに応える時、自分の十字架を負う歩みがなされます。