これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2018年1月14日「何をしてほしいのか」(マルコ10章46節~52節)

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 今日の聖書箇所で、弟子の薫育に重点を置いた一固まりが終わります。そして次回、エルサレムに入城してからは、様々な論争の中で、主イエスが誰であるか、主イエスの権威はどこにあるのかなどが明らかにされていき,主イエスの十字架へ向かいます。緑豊かな、そしてエルサレムへ入る直前の町エリコを出て行く時の出来事です。46節。バルティマイは叫びます。47節。人々に叱りつけられても叫び続けます。48節。彼の叫びが主イエスの足を留めます。49節。なぜ主イエスは、この人の所へ自分から歩み寄らないで、呼び寄せたのでしょう。二つのことがあります。一つには、主イエスから行くのではなくて、この男が自分から主イエスのもとに来るように、彼の信仰の歩みを求めました。今一つには、身近にいる人々をこの男のために(それはその人々のためでもあるのですが)用いようとなさいました。主イエスは一人で行動される方(十字架のようにそういう場合もありますが)ではなくて、弟子たち・私達を用いてことをなして下さいます。私達は「安心しなさい」というメッセージを携えていきます。
 この盲人は、主イエスの所に来ます。50節。主イエスに呼ばれて喜ぶ盲人の姿は印象的です。そしてこの盲人に主イエスは尋ねます。51節前半。この問いは、前回のヤコブとヨハネにもなされました(36節)。しかし誤解している弟子たちと、この方では、何と違う答えがかえってくることでしょう。51節後半。盲人は、目が見えないからこそ、自分が何を望むのか、まっすぐに分かっています。そして主イエスに全幅の信頼を寄せて願い出るのです。51節。この方のこの箇所における最後は、目が見えるようになって、主イエスに従っていくことでした。私達は知っています。主イエスの十字架を。そして逮捕の時に、全ての弟子たちが逃げ去ったことを。この方がどうであったか、様々な想像ができます。マルコ福音書記者が名前を書いているので、この人は彼の喜びをもって生まれたばかりの教会に参加したのではないでしょうか。私達も主に従いましょう。