これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2018年2月25日「ぶどう園は誰のもの」(マルコによる福音書12章1~12節)

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 今日の聖書箇所は主イエスがお語りになった例え話です。1節前半。彼らとは、「権威」について主イエスに対して問いただした神殿の人々でしょう。この例え自体は分かりやすいもので、「彼ら」でさえ、その意味を理解しました。12節。主人は神様、農夫たちは神殿で権力のある方たち(つまりこの話を語られている人々)、ぶどう園はイスラエルの神殿や人々です。更に、主人(神)が送られた僕たちは預言者たちであり、愛する息子は主イエスです。主人は自分の当然の権利として、1節後半2節。そもそも私有財産制が正しいのかという問題はあります(東欧の壮大な実験や最近の経済学の話題など)。しかしながら、主人は最初の資本投下をしているのだから、(割合が主人と農夫たちとでどのようであるべきかは別として)収穫を受けとる権利があります。しかし農夫たちは、僕に暴力を振るったり、殺したりしてしまいます。この主人は忍耐強いのでしょう、最後には、愛する息子を送ります。6節。これで農夫たちが、主人の名代である息子を尊重すれば問題はないのですが、7・8節。さて農夫たちの愚かさは明白です。9節。この世界の常識に従えば、それはそうだという話です。しかしこの最後の所が、この例えと神・主イエスのなさり方では、決定的に違います。主イエスは、最後に詩編118編の22.23節を引用なさいます。もしも9節で語られた通りになさるのであれば、この引用は意味不明です。主イエスは確かにこの例えの息子のように殺されました(福音書の物語ではこれからですが)。これはまさに、家を建てる者たち(宗教権力者たち)の捨てた(殺した)ものを神が隅の親石(日本でいうと大黒柱でしょうか)としてお用いになりました、私達人間にはできない復活という奇跡によって。さあ、私達はこれらの宗教権力者たちの仕方をただ愚かであると嘲るのではなくて、私達もまたそうであることを認めましょう。そして、それにも関わらず救おうとなさる神の意志を大切にしましょう。