これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2018年4月1日「恐ろしかった」(マルコによる福音書16章1~8節)

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 イースター、おめでとうございます。
 今日は、何章か飛ばしまして、このマルコによる福音書の復活の記事です。今日は特に三つのことに注目しましょう。
 まず第一に終り方です。9節から後に鍵各個がついていることから分かりますように、この箇所で本来のマルコによる福音書は終わっています。8節。この三人の女性たちは、若者(神の使い)から復活の告知を受けたのですから、大喜びしても良かったはずです。しかし正気を失うほどに恐ろしかったのです。勿論、この後正気に帰って、復活の出来事・天使に告げられたメッセージを伝えたことでしょう。しかし最初は、とにかく恐ろしかった。このマルコによる福音書の終り方があまりにも唐突だということで、以前は最後が失われたのではないかと推測されました(写本の巻物ではよくそういうことがある)。だからこそ、9節以降が後に付け加えられたというのです。しかし今は、事実マルコは8節で筆を置いたのだと捉える人が多くなりました。復活という神の御業は(6節の「復活なさって」は正確に訳せば「復活させられて」です)、私達人間の理性や理解を越えた出来事であり、本来、復活に接するならば、恐れこそが自然な反応です。そしてこの福音書はここで閉じられていません。使徒言行録がそうであるように、この先に弟子たち、そして私達の物語が続いていく、だからマルコは敢えてこのように福音書を終わりました。
 第二に、天使が語る言葉の中身から、空の墓です。6節。ここで女性たちが示されたのは、復活なさった主イエスではなくて、墓にはおられないという事実です。第三に、「ガリラヤへ」です。7節。主イエスと弟子たちの活動の主な場所であったガリラヤに主イエスは先立って行かれる。無理解でどうしようもなかった(逃げ出した)弟子たちが、十字架によって全てを赦されて、新しく歩みだします。しかしその歩みは常に主イエスが先立ち行かれます。私達の恐れを越えて。