これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2018年6月17日「ゲツセマネの祈り」(マルコによる福音書14章32~42節)

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 前回は、オリーブ山へ向かう途中のできごとでした。今日はゲツセマネに着いて、とても有名なゲツセマネの祈りです。この祈りは、私たちの祈りの模範と言われますが、時々みかけるのは、「諦めの祈り」として捉えてしまう過ちです。そうではなくて、主イエスはここで、ヤボクの渡しでのヤコブの戦い(創世記37章23節以下)のように、戦っています。死という、神から切り離される現実、しかも木に架けられて殺される(イスラエルの考え方では最も呪われた)死です。主イエスは演劇の役者のように、神が台本を書いて演出する舞台を演じているのではありません。本当に苦しみ、本当に死にます。だから何とか避けたいのです。26節。全知全能の神に祈ります。しかしそのような自分の願いよりも、主イエスは「御心」を優先して祈ります。「御心」は、最初から諦めて祈る、諦めの祈りの入り口ではありません。私たちの祈りの戦いの最後にあるものです。
 そして第二に、主イエスは、私たちと同じように弱さを負われましたが、罪を犯されなかったので、ここには、主イエスの恐れ・苦しみ・悲しみがありますが、それは罪ではありません。33節後半~35節。生真面目な方は、それらの感情の動きを、神に全幅の信頼を寄せていないから起こるものであって、罪だと捉えます。確かにそういう面もあるでしょう。しかし必ず罪だということではありません。人間の自然な感情としてそういうものはあります。ただ大切なことは、三位一体の神と共にあること、そしてこの神に信頼を寄せることです。主イエスは、この神への信頼があります。だから、41節。自分の使命、飲まなければならない杯を--真剣な祈りの後に--受け入れます。私たちはここで眠ってしまった弟子たちと同じように、祈ることも神に信頼しきることもできません。しかしそんな私たちのために主イエスが十字架を担って下さったので、私たちもまた新しい神との関係へと(それゆえこの世界との新しい関係へと)招かれています。