これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2018年8月5日「恵みとしての苦しみ」(フィリピの信徒への手紙1章27~30節)

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 前回で本文の最初の一固まりが終わりました。今日から2章18節までが、次の一固まりです。そして今日の箇所の最初の言葉は、この箇所全体を指しています。27節前半。いったいどういう意味でしょう。前回までは、ひたすら福音の前進という視点からパウロは述べていました。そしてその中で、自分の釈放の希望もまた(ただフィリピの教会の人々のためという意味で)述べました。今日の箇所は、勧告です。30節までを二つの側面から二回に渡ってみましょう。一つ目は、「恵みとしての苦しみ」という視点で、次回は「同じ戦いを」です。
 27節真ん中(二つ目の文章)でもって、彼らがパウロの勧告に従って生活するならば、どうなるかが描かれています。パウロは、彼らの「良い知らせ」を聞くことを望んでいます。釈放されるにせよ、そうでないにせよ。その中身は、27節後半~28節前半です。三つのことがいわれています。まず第一に、一つの霊によってしっかり立つこと。27節前半の「キリストの福音にふさわしい生活を送ること」が、人間的な努力によるものではなくて、神の霊・神の恵み・キリストによるものだということが分かります。私達は自分の力では立ち得ません。ただ神の霊によってのみ立ちます。「ふさわしい生活」を自分の努力で何とかしようなどとすれば、失敗と失望、あるいは偽善しかないでしょう。私達にできることは、私達が既に与えられている恵みにしっかりと立ち続けようとすることであり、それで十分です。二番目の「戦い」と「たじろぐことはない」は次回みます。ただ、このような三つの出来事において、明らかになるのは、28節後半。終末の時に反対者たちの滅びと、フィリピの教会の人々の救いがなる、そのことがこの事実から明らかになります。その全ては神によります。最後に29節。福音信仰に立ち続けることには、苦しみがあります。しかしその苦しみも他の多くの恵みと同じように実は恵みです。キリストの苦しみに連なることなのですから。