これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2018年9月9日「十字架の死に至るまで」(フィリピの信徒への手紙2章6~11節)

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 前回、パウロは、見せ掛けではない真実のへりくだりを勧めました。そしてその根拠がキリストにもこのへりくだりがあるのだということです。5節。今日の箇所でパウロは、そのことを更に丁寧に述べます。今日の箇所でパウロが語ろうとしていることは、主に二つあります。一つは、キリストのへりくだりに眼差しを向けさせることです。そしていま一つは、私達がそのようにへりくだることのできる根拠・理由である、主イエスの出来事です。ここには、受肉と高挙の両方が語られています。今日は、8節まで、受肉・主イエスのへりくだりの部分をみます。次回9節からの高挙をみましょう。
 6・7節前半。神であられることに固執しないで、私達と全く同じように弱さや苦しみを負われました。(罪は犯さなかったけれども)私達と同じように様々な誘惑に遭い、苦しみました。7節後半・8節。実はこの箇所は、当時のよく知られた讃美歌か告白文を用いて書いていると思われます(この箇所については様々な面倒な議論がありますが、この点ではおおむね一致しています)。しかしパウロの文章で特徴的なのは、「それも十字架の死に至るまで」が書き加えられていることです。告白文であれ讃美歌であれ、普通は韻をふむのですが、この言葉だけ、韻を壊しています。つまりパウロは、どうしても十字架のことを(単に「死」ではなくて)述べたかったのです。
 さて、このキリストに倣う時に、私達はどのようであるのでしょうか。キリストと全く同じに自分のせいではなくて、他者のために死ぬことなど、私達にはできません。たとえできたとしても、私達はキリストと異なり罪人ですから、やはり自分のせいに過ぎません。キリストと同じことは、私達にはできません。しかしキリストの十字架、十字架の死を一心に見つめるときに、私達は真実のへりくだりを生き始めるのではないでしょうか。