これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2018年10月21日「キリストの業に命をかけて」(フィリピの信徒への手紙2章25~30節)

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 前回はテモテを送る計画でした。しかしすぐにテモテを送るわけにはいきません。まずエパフロデトを送ります。そのことについて今日の箇所には書かれており、恐らくエパフロデトがこの手紙をフィリピの教会に届けたのでしょう。25・26節。「帰す」は、「送る」という言葉ですが、文脈上、こう訳したのでしょう。まずパウロは、エパフロデトを高く評価します。自分の「兄弟、協力者、戦友」であると。兄弟は、信仰を同じくする者ということで、キリスト教会一般で使われる言葉ではありますが、パウロはそれ以上の思いを込めて「兄弟」と述べています。更に、協力者は、同労者の意味で、監禁されているパウロに代わって、様々な宣教の業を担ってくれていたことを示します。「戦友」というのは、福音の前進のために共に戦ったということです。具体的には、エパフロデトがフィリピの教会から、パウロの窮乏を助ける(監禁されている時には、最小限の食料しか与えられなかったそうですが、外部からの差し入れは割合に自由だったそうです)ために送られてきて奉仕者となってくれていたことを指します。しかしこのエパフロデトが、今はフィリピの教会の人々にしきりに会いたがっており、彼が病気のために(何の病気かは何も書かれていませんが)心苦しく思っています。自分がパウロの助け手として派遣されたにも関わらず、病気のために働けなくなってしまったことを心苦しく思っています。そして、病気によって弱くなっている心でフィリピの教会の人々に会いたくなっているし、また奉仕できなくなってしまったことを直接謝りたいのでしょう。27節。パウロは病が癒されたことを神の憐れみと捉えます。28~30節。マルコと呼ばれるヨハネのゆえに、バルナバと決別した(使徒言行録15章36節~)時のパウロとはずいぶん違います。「キリストの業に命をかけ」とは、何も殉教を指すこと(だいそれたこと)ではなくて、パウロを通じて神に仕えたことです。日常の普通の奉仕において、私達が「命懸け」であるかどうかが問われています。